第十六教訓 兄弟を訪問することについて克肖者師父ドロフェイに質問した数人のケリオト*1へ
師父たちは語っている。霊的な生活では、自分の修室に留まることが半分、長老たちを訪問することが半分である、と。この言葉が意味していることは、修室でも修室の外でも、我々には同様に注意が必要で、何のために我々は修室の中で自らのうちに沈黙しなければならないか、何のために師父たちや兄弟たちを訪問しなければならないか、を知る必要があるのだ。なぜならこの目的から外れなかった者は、師父たちが教えているごとくに行動しようと努力するからだ。特にこのような場合である。修道士が修室に留まる時、彼は、祈り、聖書の教えを学び、少し手仕事をし、力に応じて自分の考えに気を配る。どこかへ行く場合は、彼は自分に留意し、自分の気分の状態を見分ける。つまり兄弟と会うことで利益を受けるか否か、害を受けずに自分の修室へ帰ることができるか否か、である。もし彼が何らかの害を被ることになるなら、このことから自分の弱さを知ることになる。まだ沈黙から何も得るものがないとわかれば遜(へりくだ)り、悔い改め、自分の弱さを泣き、神に祈りながら、自分の修室に帰る。このようにして再び自分の修室に留まり、自分に留意する。
その後再び人々の所へ行き、以前に打ち負かされたものによって、または何か他の物によって、打ち負かされたか、自分に留意する。このようにして再び自分の修室へ戻る。そして再び同様のことを行う。つまり泣き、悔い改め、自分の弱さについて神に祈るのである。なぜなら修室は修道士を高尚にするが、一方で人々は誘惑をもたらすからである。ゆえに師父たちが言ったことは的を射ている。修室に留まるのは半分、長老たちを訪ねるのは残りの半分である、と。こういうわけで、兄弟たちよ、あなたたちが互いの所に行く時は、何のために修室から出て、目的もなく、無分別にどこかへ行くのではないことを、知らなければならない。なぜなら目的もなく道を行こうとする者は、師父たちの言葉に依れば、彼らの苦労は空しいからである。
ゆえに何かをする者は皆、必ず目的を持って、何のためにこれをやるのか知らなければならない。我々が互いを訪問する時、我々はどんな目的を持っていなければならないのか。第一に我々が互いを訪問するのは愛のためでなければならない。なぜならこう言われているからだ。「自分の兄弟を見る時、あなたは、あなたの主、神を見るのだ」と。第二に、神の言葉を聞くためでなければならない。なぜなら、兄弟が多く集まれば、神の言葉もより多く語られるのが常だからだ。なぜなら一人が知らないことを他の人が知っていることがしばしばあるし、知らない人が質問すると、このことを知ることになるからだ。最後に、上述したように、自分の霊(たましい)の状態を知るためである。たとえば時々あることだが、誰かが他の人々と共に食事をしに行くとする。その時彼は自分に気を配り、彼のお気に入りの良い食べ物がどのくらい早く出されるか、我慢して、その食事を摂らなくても平気かどうか、見なければならない。同様に自分の兄弟を侮辱しないように、兄弟よりも多く摂らないように心がけたかどうか。もしくは、何かが切り分けられて出された時、自分で大きい方を取って、他人に小さい方を残さないように心がけたかどうか。なぜなら恥ずかしげもなく、ある人は手を出して小さい部分を兄弟に盛り、自分に大きい方を盛ることもあるからだ。大きい部分と小さい部分の違いが何だというのか。それは重要なことなのか。しかしこのような大して重要でないことでも、ある人は自分の兄弟を侮辱し罪を犯すからである。
同様に時々あることだが、彼は食べ物を多く摂らないようにできるか、多くの食べ物がある時、彼は大食漢にならないかに注意を向けなければならない。同様に次のことに注意を向けなければならない。厚かましいことをしなかったか、他の兄弟が彼より優遇されていて、彼よりも安息を味わっているのを見て、悲しまなかったか。もしも誰かがあまりにも自由に他の人々と交際していたり、多くを語ったり、何か失礼なことをしたりしているのを見たとしたら、このことに注意を向けないだろうか。そして彼を裁かないだろうか。それとも彼はこのことを心にかけず、注意を向けずに、逆により敬虔(けいけん)で熱心な人たちに目を向けるだろうか。彼は、師父アントニイについて言われているように、行動しようとするだろうか。師父アントニイは誰かの所を訪れた時、人が持っている良い性質だけに気を配り、彼からそれを借用し、自分の物とした。ある人からは柔和さを借用した。他の人からは謙遜を、他の人からは沈黙を借用した。このようにして人々の一人一人の善行を自分のうちに兼ね備えたのである。我々も同様に行動しなければならない。このために他人を訪問して、自分の修室に帰ってきた時は自分自身を試みて、何から我々は利益を受けたか、何から害を受けたかを知らなければならない。我々が守られたことに対して、我々を害から守って下さった神に感謝しなければならない。一方で罪を犯したことについては悔い改め、我々の霊の状態について涙を流し、号泣しなければならない。なぜなら人は、みな自分の霊の状態から、害または利益を受けるからである。他の人は誰も彼を害することはできない。しかし我々が害を受けるのなら、この害は、上述したように、我々の霊の状態から来るのである。なぜなら、私が常にあなた方に言っているように、もしも望むなら、あらゆることから利益も害も受けることが可能だからである。これが実際にその通りであることをあなたが知るために例えを話そう。誰かが夜中にある場所で立っていたとする。それが修道士であるか、町の住人の誰かであるかは言うまい。そして彼の脇を三人の人が通る。一人の人は、彼は行って、淫行のために誰かを待っているのだと思う。他の人は、彼は強盗だと思う。三人目の人は、彼は誰か自分の友達を隣人宅から呼び出して、一緒にどこかの教会に行って祈るために待ち合わせしているのだ、と思う。このように三人は同じ場所で同じ一人の人を見たが、彼についてこの三人は同じ考えを抱かなかった。一人はあるように考え、他の人は他のように考え、三人目はまた別な風に考えた。そして明らかに各人が自分の状態に応じて考えたのである。なぜなら、憂鬱症かつ悪液質で衰弱した体は、どのような物を受け入れても、たとえ食物が体に良いものであったとしても、悪い液体に変えてしまうからである。しかし、この理由は食べ物にあるのではなく、悪液質にあるのだ。上述したように、体自体も、その必要性からこのように作用し、その体質の悪さから食べ物を変えてしまう。霊もまた同様である。悪い習慣を持っていると、全ての物事から害を受けてしまう。たとえそれ自体は有益なものでも、霊は害を受けるのである。蜂蜜の入った器を想像しなさい。この蜂蜜に少量のヨモギを注ぐと、この少量のヨモギが器にある蜂蜜を全てダメにしてしまわないだろうか。そして蜂蜜全体が苦くならないだろうか。我々も同様に行動する。我々自身の悲哀を少量こね混ぜて、隣人の善をダメにするのである。つまり我々の霊の状態に応じて他人の善を見たり、我々固有の性悪さによって他人の善を歪めたりしてしまうのである。善なる性質を持っている人は、健康な体を持っている人に似ている。もしも何か悪い物を食べたとしても、彼の体質に応じて、それは彼のために善き液体となり、この悪い食べ物も彼に害を与えない。なぜなら上述したように、彼の体が健康で、自分の良質さに応じて、食べ物を自分に合うように摂取するからである。このように、悪液質の人について、自分の悪い性質に応じて良い食べ物も悪い液体になる、と言ったように、この人も自分の体質が良いということで悪い食べ物も良い液体へと変えるのである。このことをあなたが理解するように例えをもって言おう。イノシシは大変健康な体を持っている。イノシシの食べ物は次のようなものからなっている。殻、イチジクの種、ドングリ、水草。しかし、イノシシの体が健康なので、このような食物も良い液体に変えるのである。このように我々も、もし善良な性格なら、霊の良い状態に留まるだろう。以前にも話したように、我々も全ての物事から利益を得ることができる。たとえその物事が完全に益あるものでなかったとしても、である。叡智ある者が語ったことは的を射ている。「他の人のよいものを見る人は、神から憐れみを受ける。(箴言二十八章十三節) 」同様に他の箇所では次のように述べられている「非理性的な人には全てが悪くなる。(同十四章八節)」
私がある兄弟から聞いたことによると、彼は兄弟の中の誰かの所に行き、その兄弟の修室が掃除されておらず、片付いていないのを見て、心の中で呟いた。「この兄弟は幸いだ。彼は全てのことへの配慮、全て地上の物事への配慮を後回しにして、自分の智を高きに向け、それゆえ自分の修室を片付ける時間がなかったのだ」と。同様に、別の人の所に行き、修室が掃除されてきれいになっているのを見ると、再び心の中で呟いた。「この兄弟の霊は何ときれいなのだろう。このように彼の修室がきれいなのは、修室の状態が彼の霊の状態と一致しているからだ」と。そして彼は、この兄弟は怠け者だとか、この兄弟は見栄っ張りだとか、どの人のことも言わなかった。逆に自分の善良なる心持ちによって一人一人から益を受けていた。願わくは、善なる神が我々に善い心持ちを与えて下さるように。なぜなら我々は各人から利益を受けることができるし、決して隣人の悪癖に気づかないこともできるからである。もし我々が、我々固有の罪深さのゆえに隣人の悪癖に注意を向けたり、仮定したりすることがあれば、すぐさま我々の考えを善なる思慮に向けよう。なぜならもし人が隣人の悪癖に気を配らなければ、神の助けによって人の中に、神が悦ばれる慈悲の心が生まれるからである。 蓋(けだし)神に凡その光栄、尊貴、伏拝は世々に帰す、アミン。
*1 ここでケリオトと言われているのは共住修道院ではなく、別の修室に住んでいるが、常に厳しい独居生活を営んでいるわけではない修道士のことである。








