第十五教訓 聖なる四旬節について

律法には次のように書かれている。イスラエルの子供たちは、毎年彼らが得たものの中から十分の一を神に捧げるように、と。このように行いながら、彼らは全ての自分の務めにおいて祝福を得ていた。このことを知って聖使徒たちは我々の霊(たましい)に恵みを施すものとして、我々の助けとして、さらに大きく高尚なものを制定し、継承した。それは我々が人生の日々の十分の一を分けて、神に捧げるということである。それは我々がこのようにして、全てにおいて祝福を得、毎年一年を通して、我々が犯した罪を清めるためである。このように考察し、彼らは一年三百六十五日の中から七週間の四旬節を我々のために成聖した。このようにして彼らはこの七週間を聖別したのである。しかし時と共に師父たちはこの七週間にさらにもう一週間を付け加えることを思いついた。というのは第一に斎(ものいみ)の修行に取り掛かろうと望む者が、この週を通してあたかも斎の修行に準備するために、斎に慣れるためである。第二に、我らの主イイスス・ハリストスが斎した四十日という日数に敬意を表すためである。なぜなら八週間から土曜、日曜を除くと四十日になるからである。聖大土曜日の斎は特別なものとされている。なぜなら聖大土曜日は一年の土曜日の中で最も聖なる唯一の斎の土曜日だからである。土曜日と日曜日を除いた七週間は三十五日である。そこに聖大土曜日の斎と聖なる光を施す夜の半分を加えると、三十六日と半日になる。これは一年三百六十五日のきっかり十分の一となる。なぜなら三百の十分の一は三十で、六十の十分の一は六で五の十分の一は聖なる日の半分となるからである。こういう訳で我々は三十六・五日について言ったのである。言わば上述したように、聖なる使徒たちは一年の十分の一を、一年を通して犯した罪の痛悔と清めのために我々のために聖別したのである。

ゆえに兄弟たちよ、この聖なる日々に自分を良く、しかるべく守る人は幸いである。なぜなら人間として、その弱さと怠りのために罪を犯してしまったとしても、神はこの日々を下さり、もし人が注意力と謙遜なる心持ちをもって自分のことを慮り、日々の罪を悔い改めるように努力するのなら、人は一年を通して犯した罪から清まるからだ。その時彼の霊は重荷から解放され、このようにして彼は清まって聖なる「復活」の日に到達し、裁かれることなく聖なる機密を受け、この聖なる斎の悔い改めを通して、新しき人になるからだ。このような霊的な喜びと楽しさの中で、神の助けにより聖なる五旬節をずっと祝うことになるだろう。なぜなら、師父たちが言っているように、五旬節は霊の安息と復活だからである。このことは我々が聖なる五旬節の期間中は跪(ひざまず)いて伏拝しないということによっても証される。

このようにこの日々に、一年を通して犯した罪からの清めを望む者は誰でも、まず食事の多くを控えなければならない。なぜなら節制のない食事は、師父たちが言っているように、人にあらゆる悪を生み出すものとなるからである。次に人は同様に大した必要性もないのに斎を破らないように気を付けなければならない。それはおいしい食べ物を探さないように、多くの食べ物や飲み物で自分を圧迫させないためである。なぜなら食道楽には二種類あるからだ。まず人が食の快楽を探し求める時、常に多く食べたいわけではないが、美味なるものを望む。そしてこのような者は自分が気に入った食べ物を食べる時、たいそうその心地よい味覚に打ち負かされるので、食べ物を口に留めて、長い間それを噛みしめ、この美味のために、その食べ物をすぐに飲み込む決心がつかない。これはギリシャ語でレマルギヤ、喉(のど)の悪魔と言われる。他の者は再び大食いの欲と戦う。そして彼は良い食べ物が欲しいわけではなく、その味について慮るのでもなく、その食べ物がいいか悪いかにかかわらず、ただ単に食べたいのである。そしてその食べ物がどのようなものであるかに関しては無頓着だ。彼が慮るのは自分の腹を満たすことだけである。このことをガストリマルギヤ、つまり腹の悪魔という。これらの語の由来を話そう。ギリシャ語でマルゲニン(μαργαινειν)、悪魔に取りつかれる、という言葉は、悪魔憑(つ)きについてギリシャの学者が言う言葉で、マルゴス(μαργος)というのは、悪魔憑きのことである。同様に誰かにこの病気、つまり腹をいっぱいに満たしたい、という悪魔憑きの病気がある時、この時はガストリマルギヤと呼ばれる。マルゲニン(悪魔に憑かれる)とガスチル(γαστηρ腹)という単語からできている。つまり腹の悪魔憑きということである。悪魔憑きの状態が単に喉を喜ばせるものである場合、このことをレマルギヤと言い、レモス(λαιμος喉)、とマルゲニンという単語から来ている。ゆえに自分の罪から清まりたい者は大いに注意してこの種の食道楽を警戒し避けなければならない。なぜならこの種の食道楽に満足するのは、肉体の要求ではなく、欲望のなせる業であるからだ。そしてもしもこれに屈服すれば、これは彼にとって罪となる。教会での婚配と淫らな行いとでは、その行いは同様なものかもしれないが、行いのための目的が異なっている。なぜなら一方は子供を出産するために性交をするが、他方は自分の淫欲を満たすために行うからである。同様のことが食物に関しても言える。欲求に従って食べること、味覚を楽しむために食べること。行いは同じだが、罪はその意図にある。体の要求によって食べる時は、誰かが一日どれだけ食べ物を食べるかを自分で決めて、この自分で決めた食物の量が多く感じられたら、もう少し減らすべきである。そして彼は食物を減らす。または、もしその量の食物で腹が満たされず、体にとって不十分だと感じたら、もう少し量を足さなければならない。このように、自分の量を知って、その後その決められた量に従い、味覚を楽しむためではなく、自分の体力を維持するために食物を食べるのは良いことである。しかし誰かが食用に用いた少しの物も、祈りと、このような食物や慰めは自分には相応(ふさわ)しくないという考えを持って、自分を裁きながら食べなければならない。同様に、自分自身が安息を望まないために、他の人々が何かの起こりうる要求や必要性によって安息していることに注意を向けてはならないし、概して肉体の安息が霊に心地よいと考えるべきではない。ある時、私がまだ共住修道院にいた時、長老の一人を訪ねた。なぜならそこには多くの偉大なる長老たちがいて、その長老に仕えている兄弟が彼らと共に食事をしているのを見かけたのだ。私はこれを見て、彼と二人きりの所で言った。「兄弟よ、果たしてあなたは、今あなたが見ている長老たちが、体の要求に応じてある種の寛容から食物を食べているのだということを知らないのですか。それは次のような人々に似ています。彼らは入れ物を手に入れて、長いこと仕事をし、稼いだものを入れ物がいっぱいになるまで、入れ物にしまう人々です。入れ物がいっぱいになって閉めると、再び支出のために仕事をし、さらに何千もの金貨を集めます。それは必要な時にそこから引き出すためです。また入れ物に入れたものを保管するためです。このようにこれらの長老も長いこと働いて若い時に自分のために宝物を集め、それを封印し、さらにもう少し稼いだのです。それは以前に集めた宝物には手を付けないで、年を取って弱くなってからここから取るためです。一方我々はまだ入れ物さえ手に入れていません。我々は何から消費すればいいのでしょうか」と。なぜなら、上述したように、体の要求によって食物を食べながら、自分自身を責め、どんな慰めにも、修道生活自体にも相応しくなく、節制なく食物を取るべきではない、と思うためである。このような場合、食物は我々にとって裁きとならない。我々がこのことについて言っているのは腹の節制についてである。しかし我々は食物の分量を守らなくてはならないだけでなく、他のあらゆる罪も控えなければならない。腹で斎して、舌でも斎するためである。つまり中傷、嘘、無駄話、侮蔑、怒り、一言で言えば、舌で犯すあらゆる罪を控えなければならない。同様に目でも斎しなければならない。つまり空しいものを見ず、目に自由を与えてはならないのである。誰をも破廉恥に恐れを持たずに見てはいけない。同様に手や足もあらゆる悪行から控えなければならない。聖大ワシリイの言葉によれば、このように「善く受けらるる斎」をしていきながら、我々のあらゆる感覚を通して犯した罪を遠ざけつつ、上述したように、新しく、清らかに、聖機密を受けるに相応しいものとして、聖なる「復活日」に到達するのである。しかしまず初めに、受難を受けるためにやって来た我らが主イイスス・ハリストスに出会いに行こう。そしてオリーブとシュロの枝で子ロバに乗って聖なる都エルサレムに入場した主を迎えよう。

なぜ主は子ロバに乗ったのであろうか。それは預言者曰(いわ)く、物を言わない、思慮のない家畜に似た我々の霊を、神の言葉としてご自分の神性に向けさせ、服従させるためである。主をオリーブとシュロの枝で迎えたというのはどのような意味があるのか。誰かが自分の敵との戦いに行き、勝利者として帰ってくる時、全国民は彼を勝利者としてシュロの枝で迎える。なぜならシュロの枝は勝利の象徴だからである。同様に誰かがある人からの侮辱に耐えていて、彼を守ってくれることのできる人物に助けを求める時、憐れみと助けを求め、乞いながら、彼はオリーブの枝を持ってくる。なぜならオリーブの枝は憐れみの象徴だからである。ゆえに我々もシュロの枝を持って、勝利者としての我らの主宰ハリストスに会おう。なぜなら彼は我々の敵に勝ったからである。オリーブの枝を持つのは、神に憐れみを乞うためである。なぜなら主が我々のために勝利したように、我々も主によって勝利したからである。願わくは我々も勝利の印を持って現れよう。それは、ハリストスが我々のために獲得した勝利のためだけではなく、我々が全諸聖人の祈祷によって、ハリストスを通して獲得した勝利のためである。願わくは彼に凡その光栄と尊貴と伏拝は世々に帰す。アミン。