第十四教訓 善行の霊(たましい)の家を建て、完成させることについて

聖書にはイスラエルの男子を生かしておいた助産婦についての言及がある。「助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも家族が住む住居を与えた。(出エジプト記一章二十一節)」ここで言われているのは感覚的な住居のことであろうか。「神への畏れのために自分用の家を建てる」ことにどのような意味があるのだろうか。我々は反対のことをする。神への恐れのために時として今持っている家々を棄てるように教えられるのだ。聖書がここで言っているのは感覚的な家ではなく、霊の家のことで、人が神の戒めを守ることによって自分のために築かれるものである。聖書がこのことによって我々に教えているのは、神の畏れによって霊は戒めを守るように鼓舞され、戒めを通して霊の家が築かれるということである。兄弟たちよ、我々も自分自身に注意をし、我々も神を畏れ、自分のために家を築こう。それは冬季や雨や稲妻や雷の時に我々が防御を得るためである。なぜなら家を持っていない人は、冬に大変な不幸を耐え忍ぶからである。では霊の家はいかに築かれるのであろうか。感覚的な家を築くことから、この仕事をしっかりと学ぶことができる。なぜならこのような家を建てようとする者は、あらゆる箇所から家を堅固にしなければならず、ただ一方についてだけ慮り、他方はなおざりにするというのではなく、四方から壁を築かなければならないからである。なぜなら、そうでなければどのような恩恵を受けることもなく、全てを、計画も、出費も、労働もいたずらに浪費することになるからである。同様のことが霊にも言える。霊の家を築こうと望む人は、自分の建築物について一面でもおろそかにしてはならないのであって、全ての面を等しく和合して建物を築き上げなければならない。師父イオアンが言っていることの意味とはこのことである。「私は、人が毎日あらゆる善行から少しずつ習得してほしいと願っている。」一方である人々はこのようには行わず、一つの善行を維持し、その中に留まるが、その善行一つだけ行い、他のものについては慮らない。もしかしたら、彼らは習慣や持ち前の性質からこの善行を得ている。それゆえ、それに反する欲望も、彼らを恐れさせることはない。さらに彼らは気づかずに他の欲望に惹かれて、それらによって不安になることもあるが、それらについて配慮せず、逆に何か偉大なことを有しているかのように思う。このような人は、ただ一つの壁だけを作り、できるだけ高い壁を築いて、この壁の高い所から見て、こう思う人に似ている。彼は何か偉大なことを成し遂げた、と。しかし彼はもし一度風が吹けば、風は壁を倒すということを知らない。なぜなら壁は一つしかなく、他の壁ともくっついてはいないからである。その上、一つの壁から防御を得ることは誰にもできない。なぜなら他の面は全て空いているからである。しかしこのように行うのは愚かなことである。逆に自分の家を建てたいと願う人は防御をしなければならず、四方全てから家を建て、あらゆる面を堅固にしなければならない。これがどのような状態かあなた方に説明しよう。

まず信仰という土台を固めなければならない。使徒が言っている。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。(エウレイ(ヘブライ)十一章六節)」その後でこの土台に人は均等に建物を建てなければならない。従順を行ったか。彼は従順の石を一つ置かなければならない。兄弟から悲しみを受けたか。ならば忍耐という石を一つ置かなければならない。節制を行う機会があったか。節制という石を置かなければならない。このように善行を行う機会がある時、全ての善行から石を一つずつ建築物の中に置かなければならない。そしてこのようにして、建築物を全ての方向から築き上げなければならない。同情の石とか、自分の意志を棄てる石とか、温柔の石などを置くのである。全てこれらのことの上に、さらに忍耐と勇気について配慮しなければならない。なぜならこれらは礎石であり、これらによって建物は連結するからであり、壁と壁が結び合わされるからである。それでこれらは傾くこともなく、一方の壁と他方の壁が離れることもない。忍耐と勇気なしには、誰も一つの善行すら行うことができない。なぜなら、霊に勇気がない人は、忍耐することもないからである。一方忍耐がない人は断固として何も成し遂げることができない。ゆえに言われている。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。(ルカ二十一章十九節)」建物を建てる人は、一つ一つの石に石灰を塗らなければならない。なぜならもし彼が石灰なしに石の上に石を置くのなら、石は崩れ落ち、家は壊れてしまうからだ。石灰とは謙遜である。なぜなら石灰は土から取られ、全ての人の足下にあるからである。一方謙遜なしに行われた全ての善行は、善行でない。このことが聖師父語録に言われている。「釘なしで船を造ることができないように、謙遜なしでは救われることはない。」

このようにどのような善行を行ったとしても、各人が行った善行の全てを謙遜をもって行わなければならない。謙遜によって、行われたことが守られるようにするためである。家もつなぎと呼ばれるものを持たなければならない。その神髄は判断力である。判断力は建築物を堅め、石と石をくっつけて壁をつなぐ。さらに家に素晴らしい美を添える。屋根は愛である。愛は善行の完成をなす。それは屋根が家の上にあることと同様である。その後屋根を付けた後、その周りに手すりを付ける。屋根の周りの手すりとは何を意味しているのであろうか。旧約聖書にこのことが書かれている。「もし家を建てて、その上に屋根を付けるのなら、屋根の周りに手すりをつけなさい。あなた方の子供たちが屋根から落ちないためである。(申命記二十二章八節)」手すりとは謙遜のことである。なぜなら謙遜は全ての善行を囲み守るからである。善行の一つ一つが謙遜と結びつかなければならない。それは、我々が述べているように一つ一つの石の上に石灰が塗られるのと同様に、善行が完成されるためには、謙遜が必要だからである。なぜなら聖人たちは成功していくと、自然と謙遜の状態に入るからである。私が常にあなた方に語っているように、人は神に近づけば近づくほど、自分自身をより罪人だと思う。「律法」の中で子供たちが屋根から落ちないように、と語られている子供たちの本質とは何であろうか。子供たちとは霊の中にある考えのことである。子供たちが建物の屋根から落ちないように、謙遜によって守らなければならない。

このようにして家が完成された。家には連結部があり、屋根が付いている。このことについて上述したように屋根は善行の完成のことで、周りに手すりが付いている。一言で言えば、家が準備できたわけである。しかしまだ何か必要なものはあるだろうか。ある。私たちはまだこのことについて言及していなかった。それは何だろう。建築家が腕利きであるということだ。なぜなら建築家の腕が悪かったら、彼は壁を少し曲げてしまい、家はいつか崩れてしまうからだ。腕利きの者は理性的に善行を成し遂げる人だ。というのもある人は善行をするための仕事に取り掛かるが、非理性的にこの労働を行うことから、自分自身もダメにして、絶えずその業を損ねてしまい、家を作り上げることができないからだ。建物を建てては崩し、一つの石を置くがそれを取り上げ、一つを置くと二つを取り上げる。たとえば、一人の兄弟が来て、あなたを侮辱したり、悲しませたりする言葉を言った。もしあなたが黙って彼にお辞儀をしたら、あなたは石を一つ置いたことになる。その後あなたが行って他の兄弟にこう話したとする。「あいつが私の所に来てしゃくに障ることを言い、あれこれ話したが、一方私はというと沈黙するだけでなく、彼にお辞儀をしたよ。」これはつまりあなたが石を一つ置いたが、石を二つ取り除いたということである。また他の人は称賛をもらうためにお辞儀をするが、彼の中には虚栄心と結びついた謙遜が見られた。これが意味するのは、石を一つ置いたが、それを取ったということである。一方理性的にお辞儀をする人とは、彼が罪を犯したということを確信している人であり、彼自身が悪かったと、完全に信じている人のことである。これが理性的にお辞儀するという意味である。他の者は沈黙を守った。しかし非理性的であった。なぜなら彼は善行を行っていると思いつつ、ところが実際は、全く善行を行っていなかったからである。理性的に沈黙している人は、彼は師父たちが言ったように、自分は話すのには相応しくない、と思う人のことだ。これが理性的な沈黙である。

また他の人は自分を他の人々より上だと思わず、彼は何か偉大なことをしていて、遜(へりくだ)っていると思う。しかし彼は自分には何もないということを知らないのだ。なぜなら非理性的に行っているからだ。理性的に自分を他の人より上だとは思わない人は、彼は自分が取るに足りない人間で、人々の数のうちに入るにふさわしくないと思う。師父モイセイが自分について言ったがごとくである。「黒人よ。お前は人ではない。なぜお前は人々の中にいるのだ。」また他の人は病人に仕えているが、仕えているのは賞を得るためである。これは同様に非理性的だ。ゆえに彼に何か悲しいことが起こったら、彼は簡単にこの善い行いから離れてしまい、最後まで成し遂げることはない。なぜならそれを非理性的に行っているからだ。理性的に仕える者は憐れみの心を得るため、同情心を獲得するために仕えているのである。というのはこのような目的を持っている人は、彼にどのようなことが外部から起ころうとも、病人自身が彼に対して文句を言ったとしても、自分の目的を注視しつつ、彼が病人に対してよりも、病人が彼に対してより多くの慈善を施すということを知って、困惑なしにこれら全てのことを忍耐するからである。理性的に病人に仕える人は、欲望との戦いから解放されているということを信じなさい。私が知っている一人の兄弟は、汚れた考えとの戦いに耐えていた。そして彼は水腫を患った病人に理性的に仕えることで、その戦いから解放された。エヴァグリイもある偉大な長老について言っている。彼は、兄弟の中の一人で、夜の夢想で困惑している者に、斎(ものいみ)と病人に仕えることを命令し、このような夢想から解放したのである。このことを質問した人は言っていた。「この欲望の火は同情心によってしか消すことはできない」と。

同様に虚栄心から、または自分は善行をしているのだと思って斎する者は、非理性的に斎をしている。ゆえに自分は何か偉大な者だと思い、まもなく自分の兄弟を非難し始める。彼は一つの石を置いただけでなく、二つの石を取ったことになる。しかし隣人を裁いたことで、全ての壁を壊す危険性がある。理性的に斎する人は自分が善行をしていると思わないし、守斎者と褒められることを望まない。逆に節制によって貞潔を身に付け、これによって謙遜に到達するのである。師父たちが言っている通りである。「謙遜への道は理性的に行われた肉体労働である」云々である。一言で言えば、善行を自分のものとし、それが習慣になるように、人はどの善行も理性的に行わなければならず、このような者は上述したように、自分の家を堅固に建てることができる巧みな芸術家であり、建築士なのである。

ゆえに神の助けによってこのような善なる状態に達しようと望む者は、善行は偉大だと言ってはならない。そして彼は善行に達することはできないのである。なぜならこのように言う者は神の助けを恃(たの)んでおらず、自分を何か善なるものへ捧げることを怠っているからである。何か善行の名を挙げてほしい。我々はそれを検討しよう。そうすればあなたがたはもし望むなら、その善行の実践は我々次第だということがわかるだろう。聖書には次のように書かれている。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。(レビ記十九章十八節、マトフェイ(マタイ)五章四十三節)」あなたがどれほどこの善行からほど遠いかに注意を向けないように。なぜなら恐ろしくなって次のように言うからだ。「いかにして隣人を自分のように愛することができようか。隣人の悲しみを、特に見てもいないし、知りもしない彼の心の中に秘められている悲しみを、あたかも自分自身のことのように慮ることができようか。」このような考察に夢中にならないように。そして善行はあなたの力以上のもので、実行するのは困難だと思わないように。逆に神への信仰をもって基(もとい)だけ立て、神にあなたの恣意(しい)と熱意とを示しなさい。そうすれば、あなたが善行をなすために神が与える助けを見るだろう。二つの梯子(はしご)を想像しなさい。一つは天に昇る梯子で、他は地獄に降る梯子だ。あなたは地上で、この二つの梯子の間にいる。いかにして地上から飛び上がり、突然にして高い天、つまり梯子の上にいることができようか、と思ったり言ったりしないように。これは不可能なことで、神もあなたにこのことを要求しているわけではない。しかしせめて下に降りて行かないように注意しなさい。隣人に悪をなさず、隣人を悲しませず、中傷せず、悪口を言わず、卑しめず、叱責しないようにしなさい。このようにして後に少しずつ自分の兄弟に善を行い、彼を言葉で慰め、彼に同情し、彼が必要なものを与え始めるだろう。このようにして一段ずつ上がり、神の助けによって梯子の上にまで達するだろう。なぜなら少しずつ隣人を助けながら、あなたは自分自身のためのように隣人の利益を望み、自分自身の成功のように彼の成功を望むようになるからだ。これはつまり自分自身のように、自分の隣人を愛するということである。

もし探すなら見つかるだろう。もし神に願えば、神は我々を照らされるだろう。なぜなら聖書の中でこう言われているからだ。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マトフェイ七章七節)」「求めなさい」と言われているのは、我々が祈りの中で神を呼び求めるためである。「探しなさい」というのは、いかにして善行それ自体が来るか、何が善行をもたらし、善行を獲得するために我々が何をしなければならないかを、我々が体得するためである。このように常に自分を省みなければならない。つまり「探しなさい。そうすれば、見つかる」のである。「門を叩きなさい」というのはつまり戒めを実行することである。なぜなら門を叩く者はみな手で叩くからである。この手は行いを意味している。ゆえに我々は、使徒が「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。(コリンフ後九章八節、ティモフェイ(テモテ)後三章十七節)」と言っているように、努力しつつ、求めるだけでなく、尋ね、行わなければならないのである。整えられているというのは何を意味しているのであろうか。誰かが船を造ろうとしている時、その人はまず船に必要なもの全て、小さな釘や樹脂や麻屑でさえも用意する。同様に女性が亜麻布を織ろうとするのなら、彼女はまず全てを、細い糸でさえも用意する。これは準備と言われている。つまり行いに必要な全てに対して、準備ができているということである。我々もこのように、神が望まれ、神の御旨に叶うように、神のご意志を理性的に実行するため、準備万端にして、「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」ようにしよう。使徒が「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか(ロマ十二章二節)」と言っているのは何を意味しているのであろうか。起こっていることは全て神の善なる思し召しからか、または預言者によって「わたしが光を造り、闇を創造する主である。(イサイヤ(イザヤ)書四十五章七節)」と言われたように、神が許可されたために起こるのである。さらに「もし主が許可されないのなら、このような悪が町に起こるだろうか。(アモス書三章六節)」ここで悪と呼ばれているのは、我々を圧迫する、つまり我々を懲らしめるため、また我々の不徳のために起こる全ての悲しみ、飢饉(ききん)、疫病、地震、旱魃(かんばつ)、病、戦いである。これらのことは神の祝福によってではなく、許可によって起こる。それは神が我々の利益になるためにと、慮って下されるからである。しかし神は我々がこれを願うこと、これを助力することを望んでおられるのではない。たとえば、上述したように、神の意志は町が破壊されることを許可された。しかし神は、町の破壊が神の意志であったという理由で、我々自身が火を付けて町を焼いたり、斧(おの)を取って町を壊し始めるということを望んでおられるのではない。同様に神は誰かが悲しみや病のうちにあるようにされるが、しかし神の意志が人が悲しむことであったとしても、神は我々が彼を悲しませたり、彼が病気になることが神の意志なのだから、彼を憐れまなくてもいい、と言ったりすることを望んでおられるのではない。神が望んでおられるのはこのことではない。我々がそのような神の意志に仕えることを、神が望んでおられるのではない。神が許可されたことを私たちが望まないほど、我々が善良であるのをご覧になることを神は望まれるのだ。では何を神は望んでおられるのだろうか。上述したように、祝福によって、つまり神の戒めの順守によって起こる神の善なる意志を、我々が願うことを望まれている。つまり、互いに愛し合い、同情心を持ち、憐れみを施すなどである。ここに神の善なる意志がある。では「神に喜ばれる」とは何を意味しているのであろうか。何か善行を行う者がみな神を喜ばせているわけではない。これがどのようなことかあなた方に話そう。誰かが可哀そうな、しかし美しい孤児の女の子を見つけて、その美しさゆえに孤児が気に入ったとする。そして彼は、その子が可哀そうな孤児だが同時に美しい、ということで、その子を引き取り、教育する。これは神の善なる意志である。しかし「神に喜ばれる」ことではない。「神に喜ばれる」とは、人が何か人間的な理由に鼓舞されてではなく、善それ自体のために、同情心からだけ憐れみを施す時なのである。これが「神に喜ばれる」ことなのである。完全なる神の意志とは、出し惜しみせず、怠慢でなく、強いられてでもなく、逆に全力をもって、思いの全てをもって、あたかも彼自身が受け取るように与え、彼自身が慈善を受けるかのように、憐れみを施す時なのである。この時、完全なる神の善なる意志が成就する。このように人は「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」と使徒が言っている神の意志を実行するのである。つまり理性的に実行するのである。しかし憐れみの善自体、憐れみの恩寵自体を知らなければならない。憐れみは大変偉大なものなので、預言者が「財産が自分の身代金になる者もある。(箴言十三章八節)」と言っているように、罪をも赦すことができるのだ。また他の箇所でも言っている。「あなたの罪を憐れみによって贖(あがな)いなさい。(ダニイル(ダニエル)書四章二十四節)」主ご自身も言った。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。(ルカ六章三十六節)」あなた方の天の父が斎しているように、あなた方も斎しなさい、とは言わなかった。あなた方の天の父が清廉であるように、あなたがたも清廉になりなさい、とは言わなかった。では何と言っているのか。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」なぜならこの善行は特に人を神に倣(なら)った、神に似た者とするからである。ゆえに上述したように、我々は常にこの目的を眺め、理性的に善行を行わなければならない。なぜなら憐れみを施す目的もさまざまだからである。ある人は彼の畑が祝福されるようにと憐れみを施す。そして神は彼の畑を祝福し、その人は自分の目的を達成する。ある人は彼の船が救われるように憐れみを施す。そして神は彼の船を救う。ある人は自分の子供たちのために憐れみを施す。そして神は彼の子供たちを救う。他の人は有名になるために憐れみを施す。そして神は彼を有名にする。なぜなら神は誰をも退けず、人が望んでいることを、もしそれが彼の霊に害を与えるものでなければ、各人に与えられるからである。しかし、これらの人たちはみなすでにその報いを受けている。神は彼らに何の借りもない。なぜなら彼らは神に霊に有益なことを何も探し求めなかったから、つまり彼らの目的というのは、彼らの霊の利益と何ら関係ないものだったからである。あなたは畑が祝福されるようにと、このことを行い、神はあなたの畑を祝福された。あなたは自分の子供たちのためにこのことを行い、神はあなたの子供たちを守られた。あなたは有名になるためにこのことを行い、神はあなたを有名にされた。ところで神はあなたたちに何の借りがあろうか。神はあなたの行いに対して支払いをされたではないか。

ある人は将来の苦しみから免れるために施しをする。この人は自分の霊のためにお恵みをする。この人は神のために恵む。しかし彼は神が望んでいるような者ではない。なぜなら彼は、まだ奴隷の状態にいるからだ。奴隷は自発的に主人の意志を遂行するのではない。そうではなくて、罰を恐れているのだ。同様に、この人は苦しみから免れるために憐れみを施し、神は彼を苦しみから免れさせる。他の者は賞を得るために憐れみを施す。この人は最初の者より上だが、この人も神が望んでいるような者ではない。なぜなら彼はまだ息子の状態には達していないからだ。雇い人のように、主人から報酬や利潤をもらうために、主人の意志を実行しているのである。同様にこの人も神から褒美をもらい、受け取ろうと施しをする。なぜなら聖大ワシリイが言っているように、善行の仕方には三種類あるからだ。このことは前にも言及した。苦しみを恐れることによって善を行う。この時我々は奴隷の状態にいる。もしくは褒美(ほうび)を受けるために。この時我々は雇い人の段階にいる。もしくは善それ自体のために善を行う。この時我々は息子の状態にいる。なぜなら息子は恐れからではなく、父から褒美を受けたいからではなく、父を喜ばせようとして、また父を尊敬し、安心させようとして、父の意志を遂行するからである。同様に我々も善それ自体のために、憐れみを施さなければならない。自分の肢体のように互いに同情し合い、我々自身が彼から助けを得ているかのごとく、他人を喜ばせなければならない。我々自身が受け取っているがごとくに施しをしなければならない。これが理性的な施しである。上述したように、このようにして我々は息子の地位に到達するのである。誰も次のように言ってはならない。「私は貧しいので憐れみを施すものが何もない」と。自分の贈り物を宝物庫にしまうかの金持ちのようにたくさん与えられなかったとしたら、かの貧しいやもめのように二レプタ(レプトン)銅貨を上げなさい。そうすれば神はかの金持ちの贈り物以上にあなたからの施しを受け取って下さる。(マルコ十二章四十二節、ルカ二十一章二節)もしそれもないとしても、弱い兄弟に仕えることで、憐れみを施せるし、その力があるだろう。それもできないとしたらどうか。言葉で自分の兄弟を慰めることができるだろう。このように言葉で憐れんであげなさい。そうすれば、「親切な言葉は、高価な贈り物にまさるではないか。(シラ書十八章十七節)」という言葉を聞くだろう。もし言葉で兄弟を助けることができなかったら、あなたの兄弟があなたを悲しませている時、彼に憐れみを示し、彼が困惑した時に、彼が我々に共通の敵から誘われているのを見て、彼のことを忍耐し、彼に一言言って、彼をさらに困惑させる代わりに、沈黙することもあなたはできるだろう。このように敵から彼の霊を免れしめつつ、彼に憐れみを示すことができるだろう。同様に、あなたの前で兄弟が罪を犯した時、あなたが神から赦しを受けるように、彼を憐れみ、彼の罪を赦してあげることができるだろう。なぜならこう言われているからである。「赦しなさい。そうすればあなたがたも赦される。(ルカ六章三十七節)」このようにあなたの兄弟の霊を憐れんで、彼があなたに対して罪を犯したとしても彼を赦してあげなさい。なぜなら、我々が望むなら、我々の間で起こる罪を互いに赦す力を神は我々に与えられたからだ。このようにして肉体的な憐れみを施すことができないのなら、彼の霊を憐れむことはできるだろう。霊を憐れむ以上のどのような憐れみがあるというのか。霊が体より尊いように、霊に施した憐みは肉体に施した憐れみよりも偉大ではないか。ゆえに誰も「私は憐れみを施すことができない」と言ってはならない。なぜなら各人がその力に応じて、かつ心が赴くように、憐れみを施すことができるからだ。ただ一つ言えるのは、上述したように、一つ一つの善行に対して、各人が彼が行っている善行を理性的に行うように努めるべきだ、ということだ。なぜなら、我々が言ったように、これらのことを理性的に行う人は、堅固に自分の家を建てる匠(たくみ)であるからである。このことを聖書でも言っている。「賢い人は自分の建物を岩の上に建てる。それで何が立ち向かっても、その建物を揺るがすことはできない。(マトフェイ七章二十四、二十五節)」と。願わくは人を愛する神は、我々が聞き、また聞いたことを実行させて下さるように。それはこの言葉が審判の日に我々にとって裁きとならないためである。蓋(けだし)神に光栄は世々に帰す、アミン。