第十三教訓
感謝をもって困惑なしに誘惑を耐え忍ばなければならないことについて
師父ピーメンが次のように言ったことは的を射ている。「修道士が進歩しているか否かは誘惑の時にあらわになる。」なぜなら真に主のために働こうとしている修道士は、英知者が語っているように「己の霊(たましい)を誘惑の時に備えなければならない。(シラ書二章一節)」からだ。全てが神の摂理によって起こると信じて、どのようなことが彼に起ころうとも、決して驚いたり、困惑したりしないためである。神の摂理なら完全に善き物で、霊の益になる。なぜなら、神が我々に行われること全ては、我々を愛されているがゆえに、我々の益になるように行われるからである。それで使徒が言っているように「どんなことにも」神の慈しみを「感謝しなければならず(エフェス五章二十節、フェサロニカ(テサロニケ) 前五章十八節)」、我々に起こることを悲しんだり、小心になったりせずに、逆に我々に伴う全てのことに困惑せず、謙遜に神への希望を持って受け止めなければならない。それは上述したように、神が何を我々に行われようと、全て神はご自分の慈しみによって、我々を愛されているがゆえに行われ、全てを良く行われるのだと信じているからだ。そしてそれはこれ以外にないというような、最適な形で行われるのである。願わくは神が我らを憐れんで下さるように。
もし誰かに友人がいて、その友人が彼を愛していることを確信しているなら、友人のせいで何かを忍耐しなければならないとしても、もしそれが辛いことであっても、友人がそれを行ったのは愛しているがゆえだと思い、決して友人が彼に害を与えたかったのだとは信じない。ならばなおさら我々を創り、我々を無から存在へと引き出し、我々のために藉身(せきしん)し、我々のために死した神は、ご自身の慈しみによって、我々を愛されているがゆえに我々に全てを行うのだ、と思わなければならない。他の者は友人についてこう思うかもしれない。「友人がこれをしたのは、私を愛していて、可哀そうに思っているからだ。しかし彼に十分な思慮が欠けていたので、彼は私に関することをよく配慮できなかったのだ。それで彼は意図せずに、私に害を与えてしまったのだ」と。しかし神について我々はこのように言うことはできない。なぜなら神は英知の源で、何が我々の益になるかを全てご存知で、それに従って、我々に関わる全ての状況を、ごく些細なことまで整えられるからである。再び友人について次のように言うことができる。友人は我々を愛し哀れんでいて、我々に関することを配慮するだけの十分な思慮分別があり、我々の益になるように、彼は我々を助けたかったのだが、その力がなかった。しかし神についてはこのように言ってはならない。なぜなら神には全てが可能で不可能なことは一切ないからである。ゆえに我々が神について知っているのは、神がその被造物を愛され、憐れみ、神は英知の源で、どのように我々に関する全てのことを整えるか知っておられ、神には不可能なことが何もなく、全てが神の意志に従うということである。また同様に我々が知らなければならないのは、神がなすべきことは全て我々の益になるようになされるのであって、先に上述したように、これを、たとえ悲しいものであっても、恩を施す善なる主宰からとして、感謝をもって受け止めなくてはならないということだ。なぜなら全ては義なる審判によって起こるのであって、これほど憐れみ深い神が、我々のほんの小さな悲しみを軽視されることなどないからである。しかし、しばしばあることだが、ある人は当惑して心の中で言う。「もしも誘惑の時に悲しみから罪を犯したら、誘惑がその人の益になっているなどと、どうして思うことができようか」と。我々が誘惑の時に罪を犯すのは、ただ我々に忍耐がなく、少しの悲しみをも耐え忍びたいと思わず、また我々の意志に反することを我慢することが嫌だからだ。その時神は我々の力以上のものは、何も与えない。使徒〔パワェル(パウロ)〕が「我々を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、(コリンフ(コリント)前十章十三節)」と言っている通りである。しかし我々には忍耐がなく、少しのことも耐え忍びたいと思わず、何かを謙遜をもって受け止めようとしない。それゆえに苦しむのだ。そして不幸を避けようとすればするほど、より不幸に苦しむことになり、疲弊し、不幸から解放されなくなる。何か必要に迫られて海を泳ぐ人たちは、もし泳ぎ方を知っていれば、彼らに波が襲っても、波が過ぎるまで波の下に潜(もぐ)る。こうして害を受けずに泳ぎ続ける。もしも波に対抗しようとするのなら、波は彼らを擲(なげう)って、遠くに運んでしまう。彼らが再び泳ぎ続ける時、また別の波が彼らに襲う。もし彼らが波に抵抗すれば、波は同様に彼らを跳ね除け、脇へ放り投げる。それで彼らは利益を受けることがまったくないまま、疲労困憊する。上述したように、もし彼らが波の下に潜り、そこで自由に泳いだら、まったく害を受けることなく波は過ぎ去り、彼らは泳ぎ続け、思いっきり自分の仕事をするのである。同様のことが誘惑時にも言える。もし人が忍耐と謙遜をもって誘惑に耐えれば、害を被ることなく誘惑は通り過ぎる。もし人が小心になり、困惑し、各人のせいにしたらは単に自分自身を苦しめることになり、自分に誘惑を引き寄せ、まったく自分のためにならず、逆にただ自分を害するのみとなる。その時困惑なしに耐え忍ぶ人に、いかに誘惑が大きい利益をもたらすことだろう。もしも欲望が我々を脅かしたとしても、我々はこのことによって困惑してはならない。なぜなら欲望が我々を脅かす時に困惑するということは、愚かで傲慢なことであり、師父が言っているように、自分の霊の状態を知らずに、苦労を避けることから来ることなのである。我々が進歩しないのは、我々が自分の力量を知らず、取り掛かったことに忍耐せず、労することなく善行を得ようとするからだ。というのも欲望が彼を脅かす時、欲望に満ちた人は何に驚くというのだろう。なぜ困惑するのだ。あなたは欲望を孕(はら)んだ。あなたは欲望を己のうちに有していて、困惑するのか。欲望の担保を受け取り、言う。「なぜ欲望が私を困惑させるのか」と。それなら忍耐し、修行し、神に祈った方が良いではないか。なぜなら欲望を実行している者が欲望から来る悲しみを経験しない、ということはありえないからである。師父シソイが言っているように、欲望の器(うつわ)はあなたの中にあるからだ。欲望に欲望の担保を与えなさい。欲望はあなたから遠ざかるであろう。欲望の原因は器と言われている。我々は欲望を愛していて、それを実行に移しているがゆえに、我々は必然的に欲望に満ちた考えに惹かれてしまう。そして我々の意に反して欲望を実行してしまう。なぜなら我々は自由意志で己を欲望の手に渡すからである。これが意味するところは、エフレム(エフライム) について預言者が語っていることである。(オシア(ホセア) 前書五章十一節)「エフレムは自分の競争相手、つまり、自分の良心を打ち負かし、正義の裁きを踏みにじり」、エジプトに助けを求めたが、強制的にアッシリアに捕らわれてしまった。師父たちがエジプトと呼んでいるのは、我々を肉体的安息に傾け、智を肉欲へと向かわせることを教える、肉体的な意志のことである。一方アッシリア人と呼ばれているのは智を困惑、動揺させ、汚れた偶像で満たし、意志に反した力によって智を罪の実行へと惹きつける、欲望に満ちた考えのことである。それゆえ、人がもし自由意志で肉体的な楽しみに己を渡すなら、意に反してアッシリアに行き、〔バビロンの王〕ネブカドネツァルのために働くことになる。このことを知って、預言者は同情してエジプトに入ってはならないと彼らに言う。不幸なる者よ、あなたたちは何をしているのかね。少しでもいいから遜(へりくだ)り、「首を差し出してバビロンの王に仕えよ。そうすればあなた方の先祖の地に座ることだろう。(イエレミヤ(エレミヤ) 書四十二章十九節、二十七章十二節)」その後、彼らを慰めて言う。「バビロンの王の顔を恐れてはならない。なぜなら神は我々と共にするからだ。神は彼の手から我々を救い出してくれるからである。(同四十二章十一節)」さらに彼らが神に従わない時、彼らにふりかかる悲しみをも預言している。「あなたたちはもしエジプトに入ったら、呪われ、責められる。(同四十二章十八節)」しかし彼らはこう答える。「この地に座っていないでエジプトの地に入ろう、そうすれば戦いを見ることもなく、ラッパの音を聞くこともなく、パンに飢えることもない。(同四十三章七節)」こうして彼らは行って、自由意志でファラオン(ファラオ)に仕え、その後強制的にアッシリアに連れ去られ、意に反してアッシリア人に仕えた。
私の言っていることを良く理解してもらいたい。誰かが欲望に沿って行動し始める前には、たとえ彼に悪い考えが襲ったとしても、彼はまだ自分の町にいて、自由で、神における助っ人がいる。ゆえにもし彼が神の前で遜り、感謝して悲しみと誘惑の軛(くびき)を負い、少しばかり戦うのならば、神の助けによって彼は解放される。もし彼が労を避け、肉体的な安息にふけるのならば、その時は強制的にアッシリア人の地に連行され、意に反してアッシリア人に仕えることになる。その時はもはや預言者が彼らに言うのであう。「ネブカドネツァルの命のために祈りなさい。なぜなら彼の命にあなたがたの救いがあるからである。(ワルフ(バルク) 書一章十一、十二節)」ネブカドネツァルの命のために祈るとは、人が彼に起こる誘惑から来る悲しみの中で、心を弱くしてはならず、誘惑を避けず、逆に自分は誘惑を忍耐しなければならないと思って、謙虚に誘惑を耐え忍ばなければならないことを意味している。彼は、自分は重荷から解放されるに相応(ふさわ)しくないと思うべきなのだ。逆に誘惑が続き、彼に対して誘惑が強まる方が彼に相応しいと思うべきなのだ。彼は自分の中に原因があることを自覚しているだろうか。現時点では彼は自覚していないが、神においては裁きなしに、また不正に起こることは何もないということを、信じていなければならない。ある一人の兄弟が、神が彼から誘惑を取り去られたことを悲しみ泣きながら、言っていたように。「主よ、果たして少し苦しむことも、私には相応しくないのでしょうか」と。
伝えられていることによると、偉大な長老の弟子に肉欲の戦いが臨んだ。長老は弟子の労苦を見て言った。「神があなたのこの戦いを軽減してくれるように、神に祈ってあげようか」と。しかし弟子は答えた。「師父よ、私は労苦していますが、自分の中に労苦の実りがあるのもわかります。ですからむしろ神が私に忍耐を与えて下さるように祈って下さい」と。真に救われたいと望む者とはこのような人である。これが謙遜に誘惑の軛を負い、ネブカドネツァルの命のために祈ることの意味だ。こういうわけで預言者が言っているのである。「彼の命にあなたたちの救いがある」と。「自分に労苦の実りがあるのがわかります」と兄弟が言ったことは「彼の命に我々の救いがある」という格言に似ており、長老もこれを認めて言っている。「あなたが進歩し、私の上を行っているということが私は今わかった」と。なぜなら人が熱心に罪に対抗して修行し、霊に起こる欲望に満ちた考えに対して戦い始めた時、人は遜り、心を砕き、修行するからである。そして苦行の悲しみによって少しずつ清まりながら、人間の自然な状態にたどり着くのである。ゆえに我々がすでに述べたように、もし欲望に誘われている者が困惑するのならば、これは愚鈍と傲慢から来るのである。しかし彼はむしろ謙遜に自分の力を知り、神が彼に憐れみをかけて下さるまで忍耐強く祈りに留まるべきなのである。なぜなら、もし人が誘惑にあわず、欲望から来る悲しみを経験しないならば、あたかも欲望から清まったかのごとくに、修行しようとしないからである。このことを聖詠記者〔ダワィド〕(ダビデ)も言っている。「悪者は草の如く生じ、不法を行ふ者は花さけども永く亡(ほろ)ぶ、(第九十一聖詠八節)」草のように成長する罪人とは、欲望に満ちた考えのことである。なぜなら草は弱く力がないからである。ゆえに霊の中に欲望に満ちた考えが成長する時、その時「現れる」、つまり不法、つまり欲望を行うもの全てが知られるのである。「蓋(けだし)永く亡(ほろ)ぶがよい。」なぜなら修行している者にとって欲望があらわになってくる時、欲望は根絶されるからである。一貫して述べていることを理解してもらいたい。まず欲望に満ちた考えが成長し、その後欲望が生じる。その時にはすでに欲望が根絶される。これは全て修行する者に関して言えることである。自らの行いによって罪を犯し、常に欲望にふけっている我々はと言えば、欲望に対抗して修行し始めるために、いつ欲望に満ちた考えが成長するか、いつ欲望が生じるかすら知らないでいる。しかし我々は地面に倒れ、まだファラオンの屈辱的なレンガ造りに強いられたエジプトにいる。しかし我々が遜り、憐れみを探し始めるために、少なくとも我々が辛い奴隷状態にいるという認識に至るように、誰が我々を助けるだろうか。
イスラエルの子供たちがエジプトでファラオンの奴隷だった時、彼らはレンガ造りをしていた。ところでレンガを造る人々は常に頭を下に垂れて、地面を見ている。霊も同様である。もし霊を悪魔が支配し、霊が実際に罪を犯すと、自分の理性を踏みにじり、霊的なことを何も考えられなくなり、逆に常に地上のことを慮り、地上的なことを行う。その後イスラエル人は彼らが造ったレンガからファラオンのためにピトム、ラメセス、オンまたはイリオポリつまり太陽の町という三つの強固な町を建設した。これは淫欲、名誉欲、金銭欲のことである。これから全ての罪が生じる。
イスラエルの民をエジプト及びファラオンの奴隷より導き出すために、神がモイセイ(モーセ)を遣わした時、ファラオンはさらに、イスラエルの人々を労働で苦しめて言った。「お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ。(出エジプト記五章十七節)」同様に悪魔も、神が人々の霊に同情し、これを憐れみ、ご自分の言葉によって、またはご自分の僕の誰かを通して、霊を欲望の重荷から軽減されようとしているのを見る時、悪魔は霊をより欲望で苦しめ、より強く争う。しかし師父たちはこのことを知って、その教えによって人を強め、人が病気になることを許さない。ある人は言った。「あなたは堕落したか。立ち上がりなさい。もしまた堕落しても、また立ち上がりなさい」などである。他の人も同様に言っている。「善行を得ようと望んでいる人々の砦(とりで)とは、もし堕落しても小心にならずに絶望することなく、再び戦うことである」と。一言で言えば、師父たちのうちの各人が、ある人はこう、他の人はこう、という具合にさまざまな形で、修行している者、敵によって悲しんでいる者たちに手を差し伸べているのである。なぜなら彼らはこのことを聖書から学んだからである。聖書にはこう言われている。「倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。(イエレミヤ(エレミヤ)書八章四節)」「主は言われる。『子らよ、わたしに立ち帰れ、あなたたちの傷心を癒す(同三章二十二節)』」などである。
神の手がファラオンとその家臣の上に重くのしかかり、ファラオンがイスラエルの子らを解放しようと決めた時、ファラオンはモイセイに言った。「行って、あなたがたの主なる神に仕えるがよい。ただし、羊と牛は残しておけ。(出エジプト記十章二十四節)」ファラオンは知的な考えによって、イスラエルの子らを再び自分のもとに引き寄せようと願った。このファラオンが得ようと望んだ知的な考えとは、どういう意味であろうか。モイセイはファラオンに答えた。「いいえ。あなた御自身からも、いけにえと焼き尽くす献げ物をいただいて、我々の神、主にささげたいと思っています。我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。(同十章二十五、二十六節)」モイセイがエジプトの地よりイスラエルの子らを引き出し、紅海を通り抜けるように引率した時、神は彼らを七十本ものなつめやしの木と、十二の泉がある地へと導かれるのだが、最初にマラに連れて来られた。そこで民は飲み物がなく、悲しんでいた。というのはそこの水は苦かったからである。そしてマラを通って、ようやく七十本ものなつめやしの木と十二の泉がある地〔エリム〕にイスラエルの民を導かれたのである。同様に霊も行いによって罪を犯すのをやめ、思いの海を渡った時、まず初めに修行と多くの悲しみのうちに労し、悲しみを通して聖なる安息に入らなければならないのである。「多くの悲しみによって、我々は神の国に入るように定められている。(聖使徒行實(使徒言行録) 十四章二十二節)」からである。風が雨をもたらすのと同様に、悲しみは霊に神の憐れみを引き付ける。雨が降り続くと弱い食物に作用して、植物が腐ったり、その実がダメになったりする。一方で風は徐々に乾燥させ、植物を強くする。このことは霊にも言える。怠慢、無思慮、安息によって、霊は弱まり、散漫になる。逆に誘惑によって霊は強まり、神と一体になる。預言者が言っている通りである。「主よ悲しみの中で我爾を思う。(イサイヤ書三十三章二節)」ゆえに上述したように、我々は困惑したり、誘惑の時に憂いたりしてはならない。そうではなく、悲しみのうちにあって、忍耐し、感謝し、謙遜をもって常に神に祈らなければならない。それは神が我々の弱さに憐れみをかけて下さり、神の光栄のためにあらゆる誘惑から我々を覆って下さるためである。蓋(けだし)、神に光栄、尊貴、伏拝は世々に帰す、アミン。








