第十二教訓
将来の苦しみを恐れることについて、かつ救われたいと望む者は、決して自分の救いに不注意であってはいけないことについて
かつて私が足を痛めて苦しんでいた時、ある兄弟たちが私のもとに来て、私の病気の原因を話してくれるようにと頼んだ。思うにこれには二つの目的がある。少しでも私を慰め、病気から気を紛らわすため、そして私が彼らと何か有益なことを話す機会を作るためである。しかし私はその時、病気のせいで彼らが望んでいることを話せなかったので、今このことをあなたたちに聞いてもらう必要がある。なぜなら悲しみが通り過ぎた後、悲しみの話をするのは心地良いことだからである。海でも嵐が起こると、船にいる人々はみな不平をこぼす。嵐が通り過ぎると、みな互いに起こったことを、喜びをもって楽しげに語り合う。兄弟たちよ、私がいつもあなた方に言っているように、全てのことを神に託して、次のように言うのは良いことである。「神の御心がなければ何も起こらないし、もちろん神はこれが良いことで、ためになると知っておられるがゆえに、このように行われたのである。たとえこのことに何か外面的な理由があるとしても。」たとえば、私が旅人と一緒に食事をし、彼をもてなすために少しばかり自分を強いたがゆえに、私のおなかは重くなり、私の足に水腫ができた。それで私は病気になった、と言うこともできただろう。他にもさまざまな原因がある。というのは、原因は探そうとすれば、いつでも見つかるからである。逆に最も信頼できて有益なのは、次のように言うことである。「真に神はこれがより我々のためになると知っておられるのだ。それでこのことが起こったのだ。」なぜなら神がなさることで、善でないものは何もないからだ。逆に「全ては善く、極めて善かった。(創世記一章三十一節)」ゆえに誰も起こることを悲しんではいけないのであり、上述したように、全てを神の摂理に任せ、心安らかにしなければならない。ある種の人々は悲しいことが起こると、たいそう脆弱になって、命自体も拒絶してしまい、悲しみから逃れるためだけに、死んだ方が良いと思ってしまう。しかしこれは小心と多くの無知から来るものだ。なぜならこのような人々は、肉体から霊(たましい)が抜け出した後に遭遇する、恐ろしい困難を知らないからである。
兄弟たちよ、この世にいながら我々が罰を受けるのは、偉大なる神の仁愛である。しかし我々は来世で行われている事柄を知らないで、現世の方を辛いと思う。しかしこれは正しくない。聖師父語録に語られていることを、ご存知ないのであろうか。ある極めて熱心な兄弟が長老に尋ねた。「どうして私の霊は死を望むのでしょうか。」長老は彼に答えた。「それはあなたが悲しみを避け、来世の悲しみは現世のものよりはるかに辛いということを、知らないからです。」と。他の兄弟も長老に尋ねた。「なぜ自分の修室にいながら、私は自分自身への配慮を怠ってしまうのでしょうか」長老は彼に答えた。「それはあなたがまだ望むべき安息も、将来の苦しみも、知らないからです。なぜなら、もしあなたが十分にこのことを知っていたら、たとえあなたの修室が蛆虫でいっぱいになって、首まで蛆虫(うじむし)の中に立っていたとしても、あなたは弱らずに耐え忍ぶでしょう」と。しかし我々は眠っていながら、救われようとする。ゆえに悲しみの中で疲弊してしまうのである。その時我々は、来世で小さな安息を得るために、ここ〔現世〕で少し苦しむことになるということを、いかに神に感謝し、いかに幸いだと思わなければならないのだろうか。エヴァグリイは語った。「まだ欲望から清まっていないのに、早く死なせてくれと神に祈る者は、大工に時期尚早に病人の棺を頼んでいる人に似ている。」なぜなら、霊が体の中にある時、霊は欲望との戦いをなすが、人が食べ、飲み、眠り、対話し、自分の好きな友人たちと歩いたりするということから、ある種の慰めを得ている。霊が体から出る時、霊はただ一人、自分の欲望とだけ残される。ゆえに常に欲望に苦しめられるのである。欲望で満たされた霊は、沸き立つ欲望に焦がされ、欲望に悩まされる。ゆえに霊は神を思い出すことすらできない。なぜなら神の記憶自体が霊を慰めるからである。聖詠に言われている通りである。「我神を憶ひて、我歓ぶ。(第七十六聖詠四節)」しかし欲望のゆえに霊は神を記憶することもできない。
もしお望みならば、あなた方に例えをもって説明しよう。あなた方のうち誰かが来るとする。その時私は彼を真っ暗な修室に閉じ込めよう。三日間でもいいから飲まず、食わず、眠らず、誰とも会話せず、聖詠も歌わず、祈らず、まったく神のことを思い出さないようにする。その時、彼の中で欲望が何をなすか知るだろう。しかし彼はまだここ〔現世〕にいる。霊が体から抜け出した後、霊が欲望に引き渡され、欲望と一対一で残された時、不幸な霊は、どれほど多くを忍耐しなければならないだろう。あなたはこの世での悲しみの後、来世での悲しみがいかなるものか少しでもおわかりだろう。誰かが熱病にかかった時、何によって炎症が起こるのだろうか。このような炎症は、どのような火や、どのような物質によって引き起こされるのだろうか。もし誰かの体が胆汁気質や悪液質だとすると、この悪液質自体が体を焼いて、常に悩まし、彼の人生を悲しいものにするのではないか。同様に欲望に満ちた不幸な霊も、悲しい思い出と、うんざりするような欲望の感覚を常に持ちつつ、常に自分の悪い習慣によって苦しむことになる。そしてこの欲望が、絶え間なく霊を焼き焦がすのである。さらに兄弟たちよ、いったい誰が恐ろしいかの場所〔地獄〕で苦しむ体*1〔復活後の〕を想像することができようか。この体はただ苦しみが増すためにだけ、霊に仕えることになる。しかし体自体はなくならない。あの恐ろしい火と暗闇、容赦ない苦しめ人の使い、および他の数えきれない苦しみ。これらはしばしば聖書の中で言及されているが、これらは霊の悪い行いや、その悪い記憶に相応しいものなのである。聖人たちの言葉によれば、義人はその善なる行いに相応しい、ある種の光る場所、陽気な天使たちがあてがわれるのだが、罪人たちは恐怖に満ちた暗黒の場所に入る。なぜなら、悪魔が送り込まれる場所以上に恐ろしく、不幸な場所はあるだろうか。そして悪魔が裁かれる以上の恐ろしい苦しみはあるだろうか。しかし罪人はこの悪魔たちと共に苦しむのである。ハリストスが言っている通りである。「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。(マトフェイ二十五章四十一節)」一方、聖金口イオアンが述べているのはさらに恐ろしいことである。「もし炎の川が流れず、恐ろしい天使は登場しないが、ただ全ての人が裁きに呼ばれ、ある人々はお褒(ほ)めを頂いて栄光を受け、他の人々は、神の光栄を見ることがないように名誉を剥奪されて、遠ざけられるとする。この恥と不名誉の罰、かつこれほどの善から離れ落ちた悲しみはどのような地獄よりも悲しいものではないか。」上述したように、その時良心の暴露、行いの記憶自体が、数え切れず、表現できない悶え以上に耐えがたきものとなるであろう。なぜなら、師父たちが言っているように、霊は言葉であれ、行いであれ、思いであれ、この世であったことを全て覚えていて、その時、このことを何も忘れることができないからである。聖詠経で言われている通りである。「凡そ彼が謀(はか)る所は即日(そのひ)に消ゆ。(第百四十五聖詠四節)」これはこの世の思いについて、つまり建築物、財産、両親、子供、全ての贈与、入手について言われているのである。これらのことは霊が体から出る時に、なくなってしまい、霊は来世でこれらのことを何も思い出さず、何も慮らない。一方善行または欲望に関して霊がなしたことは全て覚えていて、霊からこれらの記憶はなくならない。しかし、もし人が誰かのためになることをし、自身でも誰かから益を受けるのなら、人は常に彼から益を受けた人、彼に益をもたらした人のことを覚えている。同様に、もし誰かから害を受け、自身誰かに害を与えたなら、常に彼に害を与えた人のことも、彼から害を被った人のことも覚えている。そして上述したように、霊はこの世で行ったことを決して忘れることなく、逆に霊が体から出た後も全てを覚えている。この際、地上のこの体から自由になったものとして、さらに良く鮮明に覚えているのである。
ある時我々はこのことについてある偉大な長老と話をしていた。長老曰(いわ)く、霊は体から抜け出ると、霊が行った欲望や罪や、共に罪を犯した相手の顔を覚えている。そこで私は長老に言った。「もしかしたらそうではないかもしれません。しかしもちろん霊は自分が育てた罪への悪癖を持つことになります。そして罪について思い出すでしょう。」我々は長いことこれを説明したいと願いつつ、この件に関して議論してきた。しかし長老は私に賛成しなかった。彼は言った。「霊は罪の種類、場所、共に罪を犯した人の顔自体も覚えています」と。真に、それが正しいのであれば、我々は、もし自分に注意を向けなければ、はるかに辛い最期、最も辛い最期を迎えることになるのだ。ゆえに我々はあなた方に常に言っているのだ。来世で善良なる考えを見出せるように、善良なる考えを育成するように努めなさい。なぜなら、人はこの世で持っているものを、この世から抜け出る時にも持っていき、来世でも持ち続けるからである。
兄弟よ、我々はこのような不幸から免れるよう配慮し、このことについて努力しようではないか。そうすれば神は我々に憐れみを施して下さる。なぜなら神は「地の四極と遠く海に居る者との恃(たの)み(第六十四聖詠六節)」だからである。地の四極におる者とは、最終的な悪にある人で、遠く海におる者とは、究極的な無知に留まる人のことだ。しかしハリストスはこれらの者の恃みなのだ。必要とされるのは小さな努力だ。憐れみを受ける者となるために努力しよう。もし畑を持っている人が畑の世話をしなかったら、畑には雑草が生える。さらに畑にはイバラやアザミが生い茂り、より畑について不注意になる。畑をきれいにしようとして畑に来る時は、人は自分の手が血だらけになるほど働かなければならない。もしそうしなければより多くの雑草が生えてくる。もしこの悪い草を一掃したいと思っても、 自分が怠けている間に草は成長してしまっている。人は必ず蒔いたものを刈り取ることになる。自分の畑をきれいにしようと望む者は、まず初めに雑草を完全に除去しなければならない。なぜなら、もし草を根こそぎ一掃せずに草の上の部分だけ刈り取るのなら、草はまた生えてくるからだ。上述したように、根もとから取り除かなければならない。そして人が草やイバラなどを取って畑を整備した時には、畑を耕し、馬鍬(まぐわ)で均(なら)し、開墾しなければならない。こうして畑が首尾よく開墾された時に初めて善き種を蒔かなくてはならない。なぜなら、このように畑をきれいにした後で、畑をほったらかしていれば、また草が生えてくるからだ。そして、土が軟らかく、きれいにされて、施肥されているのを見て、雑草は根が深く伸び、畑の中でさらに頑固に生え、増えるのである。同様のことが霊にも言える。最初に霊が有する凡その古い執着、及び悪い習慣を絶たねばならない。なぜなら悪習以上に悪いものは何も無いからだ。聖ワシリイは言っている。「自分の習慣を克服しようと苦行することは些細なこととは言えない。なぜなら、長い間かけて強まった習慣はしばしば自然本性の力を得てしまうからである。」
上述したように悪習と欲望に対抗して修行しなければならない。また欲望に対抗するだけでなく、その根である原因に対しても修行しなければならない。なぜなら根を根絶しないとまた必ずイバラが伸びるからだ。さらにもし人が欲望の原因を取り除くなら、ある種の欲望はそれ以上何もできない。妬みもそれ自体は何でもない。しかし、ある種の原因がある。その中で数えられるのは、名誉心だ。なぜなら名誉を欲する者は、名誉や優越を与えられた人を妬むからである。同様に怒りもさまざまな原因から来る。特に淫欲からである。このことをエヴァグリイも言及している。彼の書いているところに依れば、ある聖人が次のように言ったということである。「憤りの原因を除くために、楽しみを遠ざける。」全ての師父たちが語っているように、また私がしばしばあなた方に言っているように、各々の欲望は、名誉欲、金銭欲、淫欲という三つの欲望から生まれる。それで欲望だけでなく、その原因をもそぎ落とさなければならない。その後、痛悔と涙をもって、自分の習慣にしっかりと肥やしを与えなければならない。その時にやっと、ようやく善行という善き種を蒔き始めなければならない。なぜなら、我々が畑について語ったように、畑をきれいにして耕した後、もしそこに善き種を蒔かなかったら、草が生えてくる。そして畑が整備されて、さらに軟らかいのを見て、草は地中により深く根を下ろすからだ。同様のことが人間にも言える。人間が自分の習慣を改め、自分の以前の行いを悔いながら、もし善い行いを実践し、善行を獲得しようとしないなら、聖書で言われていることが、その人にも起こる。つまり「汚れた霊(れい)は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。そこで『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊(れい)を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。(マトフェイ十二章四十三~四十五節)」なぜなら霊(たましい)が一定の状態に保たれることはありえないからである。そうではなく、霊は常に成功して良くなるか、悪くなるかのいずれかなのである。ゆえに救われたいと望む者は、悪を行わないだけでなく、善も行わなければならないのである。聖詠に次のように書かれているごとくである。「悪を避けて善を行ひ。(第三十三聖詠十五節)」ただ「悪を避けて」とは言わず、「善を行ひ」と言われている。もし誰かが人を侮辱する癖があるのなら、ただ侮辱しないだけではなく、正義に基づいて行動しなければならない。もし放蕩なのであれば、淫欲にふけらないだけでなく、節度ある人とならなければならない。もし怒りっぽいのであれば、怒らないだけでなく、柔和さを身に付けなければならない。もし驕(おご)り高ぶっている人がいるのなら、高ぶらないだけでなく、遜(へりくだ)らなければならない。これが「悪を避けて善を行ひ」の意味するところである。なぜなら欲望の一つ一つに、それに反する善行があるからである。傲慢には謙遜、金銭欲には憐れみ、淫欲には節制、小心には忍耐、怒りには柔和、憎しみには愛。一言で言うなら、上述したように、欲望の一つ一つにそれに対する善行があるのである。
このことについて、私はあなた方に何度も述べてきた。我々が善行を追い払い、その代わりに欲望を受け取ったごとく、欲望を追い出すだけではなく、善行を受け取るべく、努力しなければならない。そして善行が本来の位置に宿るようにしなければならない。なぜなら我々には神から自然的に与えられた善行があるからだ。というのは神が人間を造られた時、人間の中に善行を吹き入れたからである。神は言われた。
「我々の像と肖に似せて人間を造ろう。(創世記一章二十六節)」「像に似せて」と言われているのは、神が霊を不死なるものかつ自分自身を律するものとして造られたからであり「肖に似せて」というのは善行に関することだからである。なぜなら主はこう言っているからである。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。(ルカ六章三十六節)」そして他の箇所では次のように書かれ ている。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。(ペトル前一章十六節)」同様に、使徒は言っている。「互いに親切にし、( エフェス(エフェソ) 四章三十二節)」かつ聖詠にはこう書かれている。「主は悉くの者に仁慈なり。(第百四十四聖詠九節)」などである。これが「肖に似せて」という意味である。つまり神は自然に我々に善行を与えたのである。欲望は我々の本性に属さないものだ。なぜなら欲望には何の本質も組成もないからである。ちょうど闇が本質において何の組成も持ってはおらず、空気の状態であり、聖ワシリイが、闇とは光が欠如した状態であると言っているように、欲望も同様である。欲望は我々にとって不自然であるが、霊(たましい)は好色のために善行から離れると、そのうちに欲望を宿らせ、己に対する欲望を強める。ゆえに畑について語られているように、完全に清めが終わったら、すぐに善なる種を蒔かなければならない。それが善き実を結ぶためである。
同様に畑に蒔く人は、種を蒔くやそれを隠し、地中深くに埋めなければならない。そうしないと鳥が飛んできて種をついばみ、種がダメになってしまうからである。種を蒔く人は、種を隠したら、神が雨を降らせ、芽が出るまで神の憐れみを待たなければならない。たとえ農夫が極限の努力をし、畑をきれいにし、耕し、種蒔きしたとしても、もし神が農夫が蒔いたものに雨を送らなければ、農夫の努力は全て徒労に終わる。我々も同様である。もし何か善いことをしたら、それを謙遜で隠し、神が我々の努力を省みて下さるように神に祈りながら、我々の弱さを神に委託しなければならない。なぜなら、そうでなければ努力は徒労に終わるからである。雨の後、再びすでに種が芽を出した時も、時々雨が降って、畑を潤さないと、発芽した種は干からびてダメになってしまう。なぜなら、種には雨が必要で、植物も強くなる間、同様に時折雨が必要だからである。しかしその時も配慮を怠ってはならない。時として種が成長し、穂が実るようになった後で、青虫や雹(ひょう)や、何か同様のものが実をダメにしてしまうということもある。同様のことが霊にも言える。霊を私が言及した全ての欲望から清めようと努力し、あらゆる善行を得ようと努めている時、人は常に取り残されて滅びないように、神の憐れみと庇護に走りつかねばならない。なぜなら、種について上述したように、種は発芽した後、成長し、実を結ぶ。もしも時折雨が降って種を潤さないとすると、種は干からびてダメになる。同様のことが人間にも言える。これほど多くのことを行った後で、もし神がたとえ一時でもご自分の庇護を人から取り上げて人を捨て置くと、人は滅んでしまう。一方神が人を捨て置くのは、人が自分の状況に反して、何かをやった時である。たとえば、敬虔だったのに放縦(ほうじゅう)な生活に傾いたり、謙遜だったのに厚かましいことをしたり、という具合である。人が放縦で厚かましく生きていたり、驕り高ぶったりした時、神は不品行な生活を送る人を捨て置く。ならばなおさら敬虔な人が不品行な行いをしたり、謙遜な人が驕り高ぶったりする時に、神は彼を捨て置くのである。これは自分の状態に反して罪を犯すことを意味している。こうして人は捨て置かれるのだ。ゆえに聖ワシリイが敬虔な人の罪と罪人の罪を裁くのは異なるのである。このことから自分を守る人は、たとえ小さな善を行っても、それを虚栄心や、おべっかや、何かの人間的な動機からしないように、気を付けなければならない。それは我々が青虫や雹やこれに類似するものなどについて述べたように、この些細なことのために、彼がした全てを損なわないためである。同様に、畑で実が何も害を受けずに、収穫の時まで守られる時、その時でさえ農夫は配慮を怠ってはいけない。なぜなら誰かが自分の収穫物を刈り取り、自分の全ての仕事を終えた後で、悪い人が来て、憎しみから農作物の下に火を焚きつけ、全ての実と彼の仕事を台無しにすることもあるからである。ゆえに農夫が自分の畑をきれいにして、その実を穀倉に入れ終わった時も、農夫は配慮を怠ることはできない。人間も同様である。もし我々が述べたこと全てからうまく免れている時、その時でさえ、配慮を怠ってはいけないのである。なぜなら、全てこれらの後で、悪魔は自己正当化や高ぶりによって人間を欺く機会を窺い、不信や悪しき異端の考えを吹き込み、せっかくの苦労が徒労に帰すだけでなく、人を神から遠ざけるからである。行いでは達成できないことが、考え一つで起こる。なぜなら、人が考えを受け入れて、その考えに伏するや否や、その考え一つで人間は神から遠ざかりうる、ということがあるからだ。ゆえに真に救いを望む人は、最後に息を引き取るまで、配慮を怠ってはならない。それゆえ多くの苦労と配慮が必要となり、神がご自身の恩寵で我々を覆い救って下さるように、絶えず神に祈る必要がある。神ご自身の聖なる御名の光栄によりてなり、アミン。
*1 コリンフ前五章一~六節。








