第十一教訓
欲望が霊(たましい)の悪癖になる前に、できるだけ早く欲望を阻止しなければならないことについて
兄弟よ、知性によって物事の本質を理解するように、そして怠慢にならないようにしなさい。なぜなら小さな怠慢によって我々は大きな危険に陥ることがあるからだ。最近のことだが、私はある兄弟の所に行った。すると彼は病気で衰弱していた。彼と話してわかったことだが、彼はたった七日間熱にうなされていて、その後四十日経ったが、まだ力が湧いてこなかった。兄弟よ、自分の本来でない状態に陥った者がいかに苦しむかおわかりだろう。他の者は自分の体の具合が少し悪くなったということをまったく意に介せず、もし体がいささか苦しむことになったり、特に彼が病弱なら、完全に回復するまでに大変多くの苦労と時間が必要となるということを知らない。この謙遜なる者は七日間病んでいた。そして何日経っても彼はまだ安息を見出せず、体力がつかなかった。同様のことが霊(たましい)にも言える。他の者は少し罪を犯したが、自分を改めるまでに、自分の血を注ぎ出しながら、その後多くの時間を要した。我々はさまざまな原因で肉体的な病に陥る。ある時は医者が経験を積んでおらず、ある薬の代わりに他の薬を処方する。または病人が自分を律することがなく、医者の指示に従わない。霊に関することはこれとは多少異なる。我々は医者の見立てが悪く、しかるべき薬を処方しなかったとは言えない。なぜなら霊の医者はハリストスだからだ。ハリストスは全てをご存知で、欲望の一つ一つに対してしかるべき治療法を与えるからである。虚栄心に対してハリストスは謙遜についての戒めを与えた。淫欲に対しては節制の戒めを与えた。金銭欲に対しては憐れみの戒めを与えた。要するに全ての欲望に対してそれに対する戒めが治療法として与えられているのである。ゆえに「医者」の見立てが悪いとは言えない。同様に薬が古くて効き目がないとは言えないのである。なぜならハリストスの戒めは決して古びることがなく、戒めを実行すればするほど、戒めは新しくなるからである。ゆえに不作法な霊の他に、霊の健康を害するものは何もない。
ゆえに兄弟たちよ、時がある間に、自分に注意し、修行しようではないか。なぜ我々は己に注意を払わないのであろうか。誘惑の時に助けを得るために、何か少しでも善を行おうではないか。なぜ我々は自分の命を滅ぼすのであろうか。我々はどんなにたくさん聞いても、自分に注意を払わず、全てを軽視する。いかに我々の兄弟たちが、我々の仲間から誘惑され、自分に注意を払わないかを見ようではないか。その時我々が少しずつ死に近づいているということが、どのようにしたらわかるだろうか。我々が座して対話した時から今に至るまで、我々はその人生の二、三時間過ごし、死に近づいていった。そして時間を失うことを見ても、恐れない。ある長老が次のように言った言葉を覚えているだろうか。長老は言った。「もし誰かが金や銀を無くしたとしたら、彼はその代わりに他の物を見つけることができる。もし無為や怠りのうちに生活して時間を失うなら、失った時間の代わりに他の物を見つけることはできない。」実に我々はこの時の一時間でもいいからと探すが、それを見出すことはない。どれだけの人が神の言葉を聞こうと願っているか。しかし望んでいるものを得ることはない。一方我々はどれほど聞いても、聞いたことを軽視し、奮起することがない。私が我々の霊の無感覚に驚いていることを神はご存知だ。つまり我々は救われることができるのだが、それを望まないのだ。つまり我々の欲望がまだ小さいうちに、我々はその欲望を切り捨てることができるのだが、このことに配慮しないで、悪しき最後に到達するために、欲望が我々に対して強くなるのを許すのである。なぜなら、私が何度もあなた方に言っているように、引き抜きやすいといって小さなアシの根をむしり取るのと、大きな木を根こそぎ引き抜くのとでは異なるからである。
一人の偉大なる長老が自分の弟子たちと、ある場所をゆっくりと歩いていた。そこには大小さまざまな糸杉が植えられていた。長老は自分の弟子の一人に言った。「この糸杉を引き抜きなさい。」その糸杉は小さかった。そこで兄弟はすぐさま片手でそれを引き抜いた。その後長老は兄弟に、最初の木より大きい糸杉を見せて言った。「これも引き抜きなさい。」兄弟は糸杉を両手で揺らして、ぐいと引き抜いた。その後長老は弟子に他のより大きい糸杉を指し示した。兄弟は大変努力して、その糸杉も引き抜いた。その後長老はさらに大きい別の糸杉を指し示した。兄弟は努力に努力を重ね、最初は糸杉を大きく揺らし、労して汗をかき、最後にこの糸杉をも引き抜いた。その後長老は彼にさらに大きい糸杉を見せた。しかし兄弟は大変努力し、汗を滴らせたが、それを引き抜くことはできなかった。長老はこの弟子の力では無理だと見て取ると、他の兄弟にも立ち上がり、彼を助けるように命じた。それで二人は一緒にようやく糸杉を引き抜くことに成功した。その時長老は兄弟たちに言った。「兄弟たちよ、欲望にも同じことが言えるのだ。欲望が小さいうちは、もし望むなら、簡単に欲望を根こそぎにすることができる。もしもまだ小さいからと言って欲望について怠慢になったら、欲望は強まる。欲望が強まれば強まるほど、我々はより多くの努力が必要になる。欲望が我々のうちに大変強まった時には、努力しても、もし神において我々を助けてくれる聖人たちの助けを得なければ、我々は一人の力では自身から欲望を根こそぎにすることができない」と。
聖なる長老たちの言葉がいかに多様な意味を持っているかおわかりだろうか。そして預言者も同様に我々に聖詠で次のように言いながらこのことを教えている。「ワワィロン(バビロン)の女(むすめ)、残害の者よ、爾(なんじ)が我等に行ひし事を爾に報いん者は福(さいわい)なり。爾の嬰児(みどりご)を執(と)りて石に撃(う)たん者は福なり。(第百三十六聖詠八、九節)」ここで言われていることを秩序正しく検討しよう。ダワィドは混乱、困惑のことをバビロンと名付けている。なぜならバビロンという言葉はバベルに由来しているからである。シヘムも同意義である。敵意はバビロンの娘と呼ばれている。なぜなら霊は最初から憤慨していて、その後罪を生むからである。残害の者と名付けられているのは、以前も話したように、悪意はどのような本質も、組織も有せず、逆に我々の怠慢をその存在の基となし、我々が善行に熱心になることによって、滅ぼされるからである。のち聖なるダワィドはあたかもこのことを バビロンの娘に対してのように言っている。「爾が我等に行ひし事を爾に報いん者は福なり。」我々が何を与え、何を受け、何を報いたいか検討してみよう。我々は意志を与え、罪を受け取った。この格言はバビロンの娘に報復する者を幸いなりと唱えている。ここで報復する、とは「もうこれ以上罪を犯さない」ということである。「爾の嬰児を執りて石に撃たん者は福なり。」あなたによって生まれたもの、つまり悪い考えを最初からまったく受け入れない者、かつ自分のうちに悪い考えが成長する場を与えず、悪を行動に移さない者は幸いである。逆にまだ考えが若いうち、考えが強まり、その人に向かって襲いかかってくる前に、その考えを取って石にぶつけて砕く者は幸いなのである。この石とはハリストスのことである。(コリンフ(コリント)前十章四節)そしてハリストスにすがって悪い考えを撲滅するのだ。長老の言っていることも聖書の内容も全てが一致している。そしてまだ欲望が小さく、欲望から不幸や悲しみを経験する前に、自分の欲望を捨てる苦行者を幸いなりとするのである。
そこで兄弟よ、憐れみを受けるように努め、少し修行して、大いなる安息を見出そうではないか。師父たちはどのようにして人が少しずつ自分を清めなければならないかについて語っている。毎晩どのように昼間を過ごし、毎朝どのように夜を過ごしたか、人は自分を検証しなければならない。そして、どこで彼は罪を犯してしまったか、神の前で痛悔しなければならない。実に我々は多く罪を犯しており、我々は忘れやすい存在であるがゆえに、六時間ごとに、どのように我々は時を過ごし、どのような罪を犯したか、自分を検証しなければならない。かつ我々一人一人が自分に次のように言わなければならない。自分の兄弟を怒らせるようなことを我々は言わなかったか、否かである。兄弟が何かの仕事をしているのを見た時、私は彼を裁かなかっただろうか。彼を卑しめ、彼に悪口を言わなかったであろうか。修道院の食糧係が私に食事を与えなかった時、何か彼に頼んだり、彼を裁いたり、彼に対して不満を述べたりしなかったであろうか。もし食事がおいしくなかったら、私は何か言わなかっただろうか。食事係を非難して彼を悲しませなかったであろうか。もしくは悲しんで、自分自身に対して愚痴をこぼさなかったであろうか。もしくはそれが私にとって良くないと思われた時、私は心の中で愚痴をこぼさないだろうか。なぜなら智によって愚痴を言うこと、これも罪だからである。同様に自分に対して次のように言わなければならない。カノナルフか他の兄弟の誰かが、私に対して心地よくない言葉を発した時、私はそれに耐えることができずに、彼に反論しなかっただろうか。このように、我々は毎日、いかに日を送ったか、自分自身を検証しなければならない。同様に、各人が、いかに夜を過ごしたか、自分自身を検証しなければならない。熱心に徹夜祷のために起きたか。それとも彼を起こした人に文句を言ったか。もしくは彼に対して悪い心を持たなかったであろうか。徹夜祷に参祷するために我々を起こす人は、我々に大いなる恵みを与えてくれる、我々にとって大いなる善を施す人であるということを知らなければならない。なぜなら彼が我々を起こすのは我々が神と対話するため、自分の罪について祈るため、光照のため、霊にとって益となるものを受け取るためだからである。どうして我々はこのような恩恵を与えてくれる人に感謝しないでいられようか。実に、彼を通して我々が救いを受けるかのように彼を敬わなければならない。
これに関してあなた方に驚くべきことを話そう。これは偉大なる慧眼(けいがん)の銘を持つ長老について私が聞いた話である。教会で立っていた時、彼は次のようなものを見た。兄弟たちが聖詠を誦読し始めた時、ある光をまとった人が至聖所から出てきた。彼は聖油の入った小さな聖器物箱と筆を持っていた。彼は筆を聖器物箱に浸し、全ての兄弟の所を回り、兄弟の一人一人に、また席にいない兄弟の場所にも印をつけ、一方で他の欠席している兄弟の所は通り過ぎた。奉神礼が終わる前に、長老は再びかの人が至聖所から出てきて、同様のことをするのを見た。ある時長老はかの人を留めて、彼の足の方へ向き直り、彼が何をしているのか、彼は誰なのかを説明してくれるように祈った。かの光をまとった男性は長老に答えた。「私は神の天使です。私は、聖詠誦読の初めに教会に来て、聖詠の最後まで残っていた人々に、彼らの熱心さと、心がけと善なる恣意のために、彼らにこの印をつけるように命じられているのです。」
長老は天使に質問した。「それでは、なぜあなたは席にいなかったある兄弟たちの場所にも印をつけたのですか。」この質問に聖なる天使は長老に答えた。「熱意があり、善なる恣意を持っている兄弟の中で、極度の疲労のために、師父に祝福を頂いて教会を出たり、同様に何らかの戒めのために、自分の従順の務めを行っており、それゆえここにいなかったりした者は、教会にいなかったが、自分の印を受け取るのです。というのは、彼らは自分の意志によっては、聖歌を歌う者と共に、教会にいたことになるからです。ただ、教会にいることができたのに、その怠慢のゆえに教会に来なかったものにだけ、印をつけなくてもよいとの命令を、私は頂いているのです。というのはこのような人は、自分自身を印を受けるに値しない者としているからです。」教会の祈りの規定に兄弟を起こす者が、自分の兄弟のためにどれほどの賜物の恩人であるかがおわかりだろう。ゆえに兄弟よ、聖なる天使の印を決して失うことがないように努めなさい。もしあなた方の誰かが怠慢に陥った時、他の者がこのことを思い起こさせるのなら、憤怒してはならず、このことを想起する利益のことを思って、どんな人であれ、想起させてくれた兄弟に感謝しなければならない。
私が共住修道院にいた時、修道院長が長老たちの助言により、私を巡礼者の接待係に命じた。すこし前まで私は重い病気にかかっていた。すると次のような出来事があった。晩に巡礼客が来て、私は彼らと共に夜を過ごした。その後さらにラクダが追いがやって来て、私は彼らに仕えた。その後私が眠りに就いた後で、しばしば他の用件が舞い込んできて私を起こした。しかも徹夜祷の時間が迫ってきた。やっと眠りに就いたという時に、カノナルフはもう私を起こした。しかし労働と病気で私は疲労困憊しており、再び睡魔が襲った。こういう訳で、暑さで弱り果てた私は自分自身のこともよく思い出せず、半分眠りながら答えた。『はい、ご主人様、どうか神様があなたの愛を心に止めて下さり、あなたに報いて下さいますように。あなたが命じたので、私は参ります、ご主人様。』その後彼が出ていくと、私はまた睡魔に引き込まれてしまい、教会に行くのが遅れたことを深く悲しんだ。一方カノナルフは私を待っていることができなかったので、私は二人の兄弟に頼み込んだ。一人には、私を起こしてくれるように。他の一人には徹夜祷の時に私がまどろまないように。兄弟たち、信じてくれ。私はあたかも彼らを通して私の救いが完成されるかのように、たいそう彼らを尊敬していたので、彼らに対して深い敬虔の念を抱いていたのである。あなたも、教会の規定やおよそ善き業のためにあなたを起こす人々に対して、同様に振る舞わなければならない。ゆえに、私たちが言ったように、いかに日夜を過ごしたか、各人が自分自身を検証しなければならない。聖詠誦読や祈りに注意を向けながら立っていたか、それとも欲望に満ちた考えに捕らわれていたか。聖なる誦読に熱心に耳を傾けたか、もしくは聖詠を聞くのをやめて、散漫な気持ちで教会から出て行ったか。もしこのように毎日自分を検証し、罪を犯したことを悔い、改めようとしているのなら、彼は自分の中の悪を減らし始めたのである。もし九つの過失を行っていても、次には八つ行う。このようにして、神の助けによって少しずつ成功していきながら、自分のうちにある欲望が強まるのを防ぐのである。なぜなら、欲望が習慣になるのは大変不幸なことで、上述したように、そのような人が悔い改めようとしても、もし聖人たちの助けがなければ、彼一人では欲望を克服することができないからである。
もしお望みなら、欲望が習慣になったある兄弟のことをあなた方に話そう。あなたが聞くのは、多くの涙を誘う一件である。私が共住修道院にいる頃、兄弟たちが、思うにその素朴さから、私に自分の思いを打ち明けていた。そして修道院長も長老たちの助言によって、この仕事を引き受けるように、私に命じた。ある時、兄弟の一人が私のもとに来て言った。「父よ、私をお赦し下さい。そして私のために祈って下さい。私は盗みを働いて、盗んだものを食べてしまいます。」私は彼に問うた。「なぜそんなことをするのだ。おなかが空いているとでもいうのか。」彼は答えた。「はい。私は食堂で兄弟と一緒に食べていても満腹しません。それにお願いすることもできません。」私は彼に言った。「どうしてあなたは院長の所に行って言わないのかね。」彼は私に答えた。「恥ずかしいのです。」私は言う。「私が院長の所へ行って言ってあげようか。」彼は言う。「ご主人さま、あなたにお任せします。」そこで私は院長の所へ行って、このことを説明した。院長は私に言った。「その兄弟に愛情を注いであげなさい。そしてあなたが思うように、彼に配慮してあげなさい。」その時私は彼をつかまえて、彼がいる前で食糧係に言った。「彼に愛情を注いでやって下さい。あなたの所にこの兄弟が来たら、彼が食べたいだけの食糧を彼に与えてやって下さい。絶対に彼を拒まないで下さい。」これを聞いて食糧係は私に答えた。「あなたがおっしゃった通りにします。」このようにして数日が過ぎ、この兄弟はまた私の所に来て言った。「父よ、私をお赦し下さい。私はまた盗みを働き出しました。」私は彼に言う。「なぜだ。食糧係りは、お前がほしいだけの食糧をくれないとでもいうのか。」彼は私に答えて言った。「はい、私をお赦し下さい。食糧係は私がほしいだけくれるのですが、私は彼の前で恥ずかしいのです。」私は彼に言う。「それなら私に対しても恥ずかしいのか。」彼は答えた。「いいえ。」そこで私は彼に答えた。「それならお前が食べたくなったら、私の所に来て取ってきなさい。しかし盗んではいけない。」なぜならその時私には病院の仕事があったからである。彼は来て、好きな物を取っていった。しかし数日後彼はまた盗み始めた。悲しんでやって来て、私に言った。「私はまた盗んでしまいます。」私は彼に問うた。「我が兄弟よ、なぜなのだ。私はお前がほしい物を上げなかったとでもいうのか。」彼は答えた。「いいえ、下さいます。」彼に言う。「お前は私のもとから取るのも恥ずかしいのか。」彼は言う。「いいえ。」私は彼に言った。「それならなぜお前は盗むのか。」彼は私に答えた。「お赦し下さい。自分でもなぜだかわからないのですが、ただ単に盗んでしまうのです。」その時私は彼に言った。「せめて私には正直に言いなさい。お前は盗んだもので何をしているのかね。」彼は答えた。「私はそれをロバにやります。」実際にこの兄弟は、一斤のパンやナツメヤシの実やイチジクやタマネギ、概して彼の目に止まったもの全てを盗み、それを一つは寝台の下、他の物は他の場所へという風に隠し、最後にこれをどう使っていいかわからないうちに、盗んだものが腐っていくのを見て、それを外に出し、物の言えない動物に投げて、やっていたのである。
欲望が習慣になるというのはどういうことか、これでおわかりだろうか。これがどのような同情に値し、どのような苦しみになるか、おわかりだろうか。彼はこれが悪であることを知っていた。彼は悪いことをしていると知り、悲しみ、泣いていた。しかしこの不幸なものは悪い習慣に捕らわれていた。そして、この習慣は以前の怠慢から、彼のうちに形成されたものだった。師父ニステロイがいみじくも言っている。「欲望に捕らわれている者は、欲望の奴隷なのである。」願わくは善なる神が、我々をこの悪い習慣から免れさせて下さるように。それは我々が次のように言われないためである。「我墓に降らば、我が血は何の益かあらん、(第二十九聖詠十節)」どのようにして人が習慣を身に付けるのかについては、すでに何度もあなた方に言ってきた。なぜならば一度怒りを発した者が、怒りっぽい人と名付けられるのではなく、一度淫欲に陥った者が、淫らな人と呼ばれるのではない。また一度だけ隣人に憐れみを施した人が、憐れみ深いと呼ばれるのでもない。逆に善行にせよ、悪癖にせよ、それをしばしば実行することで霊(たましい)はある種の習慣を持つようになり、その後この習慣が霊を苦しめたり、落ち着かせたりするのである。どのように善行が霊を落ち着かせ、どのように悪癖が霊を苦しめるかについては、我々は一度ならず述べてきた。つまり善行は自然的なものであり、私たちの中にある。なぜなら善行の種は、滅ぼされないからだ。それで私が言ったように、善なる行いを多くすればするほど、より多くの善行の習慣を身に付けることになる。つまり自分の本性の性質を自分自身に返し、以前の自分の健康な状態にまで昇華するのである。それはちょうど目の病気から以前の視力に戻り、他の何かの病気から以前の自然的な健康状態に戻るのと同様である。ところが悪癖についてはそれとは異なる。悪癖を実行していくと、我々は本性とは異なる、かつ本性と相反するある種の習慣を持つようになる。つまりある種の破壊的な病の習慣を持つようになるのである。それゆえ、もし望んだとしても、ハリストスの憐れみを我らに傾けうる、多くの助け、多くの祈祷、多くの涙なしには我々は癒しを受けないであろう。同様のことが体においても見て取ることができる。というのはその本性において黒胆汁を作る、ある種の食べ物があるからだ。たとえばキャベツ、レンズマメ、その他これに類するものである。しかし一回や二回キャベツやレンズマメやこれに類するものを食べただけで、熱病になるわけではなく、それを頻繁に食することが原因なのである。もしもその後人の中に黒胆汁が強まれば、熱病になり、患者を苦しめ、その他数えきれないくらい多くの病が併発する。これと同じことが霊にも言える。もし誰かが罪の中に留まっていれば、霊には悪い習慣が生まれ、霊を苦しめる。しかし知っておかなければならないのは、霊が時々何かの欲望に惹きつけられていると、一度でもその欲望を実行に移すことで、すぐに習慣に陥る危険性が出てくるのである。同様のことが体にも言える。ある人は以前の怠慢から胆汁気質だが、上述した食べ物の一つによって、彼の中にすぐ黒胆汁が溜まり、熱病の原因になるのだ。ゆえに人がこの悪い習慣に陥らないためには多くの注意と努力と恐れが必要になる。
兄弟たちよ、信じてくれ。もし誰かがたった一つの欲望を習慣にしたとする。すると彼は苦しむことになる。他の人が十の善行をしても、一つの悪癖を持っていると、その悪癖から出た一つの行いが、十の善行に打ち勝つのである。鷲(わし)が全身網の外にいたとする。その中でたった一つの爪が引っ掛かると、この小さなものから、鷲の全ての力が失われる。なぜなら、たとえ鷲の全身が網の外にあっても、爪が網に引っ掛かると、すでに鷲は網の中にいるのではないか。狩人は望みさえすれば、鷲を捕まえることができるのではないか。霊も同様である。欲望がたった一つでも習慣になれば、敵は思い立ちさえすれば、霊を失墜させる。というのは、霊はその欲望のゆえに敵の手中にあるからだ。こういう訳で、私はいつもあなた方に言っているのだ。何かの欲望が習慣になることがないようにしなさい。そうではなく、誘惑に陥ることのないように、苦行し、神に日夜祈りなさい。もし我々が人として打ち負かされ罪に陥ったら、すぐさま起き上がるようにし、罪を悔い、神の慈憐の前で泣き、警醒して苦行しよう。神は、我々の善き恣意、謙遜、我々の嘆きを見て、助けの手を差し伸べて下さり、我々に憐れみを施して下さる。この神に凡その光栄、尊貴、伏拝は帰す、アミン。








