第十教訓 神の道を理性的に、注意深く歩まねばならぬことについて
兄弟たちよ、自分自身について慮(おもんぱか)り、注意深くあろう。もし我々が無為に時を過ごすなら、この時を誰が我々に与えようか。真に我々はこれらの日々を探し求めるが、それらは見つからないだろう。師父アルセニイは常に自分に言っていた。「アルセニイよ、お前は何のためにこの世から出て行ったのか」と。一方我々はこのような滅びに至る怠りの中で我々がその時望んでいたことすら知らないでいる。ゆえに我々は進歩しないだけではなく、常に悲しむことになるのだ。これは我々が心に注意を向けないことから来る。真にもし我々が少しでも修行しようと望むならば、我々は多くのことを悲しまないだろうし、困難を経験しないだろう。というのは、もし初めに自分を強いるのなら、修行を続けていくうちに少しずつ進歩していき、その後平静に善行を行うようになるからだ。というのは、神は人が自分を強(し)いているのを見て、彼に助けを送られるからだ。ゆえに我々も自分を強いて、善き初めを立てるようにし、熱心に善を望むようにしよう。というのは我々がまだ完全に至らなかったとしても、それを望んでいること自体が、すでに我々の救いの初めだからである。この願望から我々は神の助けによって始め、修行し、修行を通して善行を獲得するための助けを得るからである。ゆえにある師父は言った。「血を与えよ、そして神(しん)〔霊(れい)〕を受け取れ」と。つまり、修行せよ、そうすれば善行への習慣を得るだろう、ということである。
私がこの世の学問を学んでいた時、それは初め私にとって極めて困難なものに思えた。私が本を手に取る時というのは、人が獣に触れに行く時のような状態だった。しかし私が自分を強い続けると、神が私を助けられたので、勤勉から私は次のような習慣を得るようになった。つまり読書に熱中する余り、何を食べ、何を飲み、どのように眠ったかということに気づかなかったのである。私は交際好きで、自分の友人を愛していたが、決して自分の友人の誰かを昼食に誘ったりしなかったし、読書の時は彼らと対話すらしなかった。哲学教師の講義が終わると、体を水で洗った。なぜなら極度の読書で体が乾燥して、毎日水で己を爽快な気分にさせる必要があったからだ。家に帰っても何を食べるかを知らなかった。なぜなら自分の食物に関して慮る自由な時間を見出せなかったからだ。しかし私には食事の支度をしてくれる忠実な人物がいて、その人は自分の好きなものを私に用意してくれた。私は寝台の自分の脇に本を置いて、用意されたものを食べ、しばしば読書に没頭した。同様に眠っている間も本は私の机の上、私のすぐそばにあった。そして少し眠ると読書を続けるためにすぐさま飛び起きた。再び夕方、晩課の後で家に帰ると、蝋燭に火を灯し、夜半まで読書を続けた。概して読書から休息の甘美さを知ることは決してなかった。
それゆえ、私が修道院に入った時、自分自身に言い聞かせた。「この世の知恵を学ぶ際にも、あのような願望と、読書に邁進しようというあのような熱意が沸き起こり、それが習慣となったのだから、善行を学ぶに際してはなおさらだ。」そしてこの例から私は多くの力と熱意をくみ取ることができた。ゆえにもし善行を身に付けたいのならば、その人は怠慢や散漫であってはならない。なぜなら、大工仕事を身に付けたいと望む人が他の手仕事に従事しないように、霊的な行いを学びたいと思う人々も、何か他のことに従事してはならず、逆に、昼夜いかにその行いを獲得するかということを、学ばなければならないからだ。さもないとこの行いにつく人々は単に成功しないだけでなく、非理性的に自分を疲れさせて、自身を壊滅させる。なぜなら自分に注意せずに、修行しない人は、簡単に善行の道から逸れてしまうからである。ゆえに善行とは真ん中である。つまりある聖なる長老が「王道を歩みなさい、そして道のりの行程を数えなさい」と言っている王道だからである。ゆえに善行は、私が述べたように、過分、不過分の間の真ん中なのである。ゆえに聖書の中で次のように言われているのである。「あなたたちは、右にも左にもそれてはならない。そうではなくて王道を歩みなさい。(申命記五章三十二節、十七章十一節)」かつ聖ワシリイはこう言っている。「心が正しい人とは、その人の考えが過分でも不過分でもなく、善行の真ん中にのみ方向づられている人のことである」と。悪それ自体は大したことではない。なぜなら悪は何らかの実体ではなく、どんな成分も持っていないからである。しかし霊(たましい)は善行から逸れると、欲望となり、罪を生む。それゆえ霊は罪に悩まされ、罪のうちにあって自分にとって自然な安息を見出せない。果たして元来木の中に蛆虫(うじむし)がいるだろうか。しかし木の中が少し腐り始めると、この腐れから蛆虫が生まれ、この蛆虫自体が木を食べる。同様に銅も、銅そのものから錆(さび)が生じ、銅自体が錆によって損なわれる。さらに衣類それ自体がシミを生み、衣類から生じたこのシミが衣類を食べてダメにする。このように霊もそれ自体が、以前にはまったく存在せず、上述したように何の成分も持っていない悪を生むのである。そして霊自体が悪に苦しむようになる。いみじくも聖グリゴリイが言っている通りである。「火は物質の所産でありながら物質を食い尽くす。これはちょうど悪が悪を食い尽くすのと同様である。」 同様のことが、体の病気についても言える。人が不規則な生活をしていて、健康に配慮をしないと、体の中に何かの過分と不過分が生じ、その後このことから人は病気になってしまう。病気になる前は、まったく病気は存在していなかったし、かつては病気が何か生まれつきのものではなかったはずである。しかも体の健康が回復すると、もう病気はまったく存在しない。そういう訳で、悪も、霊に固有なもの、かつ霊の本性においては健康に属するもの、つまり善行を失った、霊の病気である。こういう訳で我々は「善行は真ん中である」と言ったのである。たとえば勇気は恐れと厚かましさの間にある。謙遜は傲慢とおべっかの間にある。同様に敬虔は恥じらいと無恥の間にある。他の善行も同様である。ゆえに、人がこれらの善行を身に付けることができる時、その人は神に喜ばれている。たとえ彼が他の人々同様に食べたり、飲んだり、眠ったりしているのをみなに見られていたとしても、その人は彼が有している善行のゆえに神に喜ばれているのである。一方自分に注意しないで、自分を守らない人は、簡単にこの道から逸れて、右に行ったり左に行ったりしてしまう。つまり過分または不過分に陥ってしまい、己のうちに病が生じてしまい、これが悪を作り上げるのである。これが全ての聖人たちが歩んだ王道である。
行程とはさまざまな状態であり、それを一人一人が常に思い、絶えず注意しなければならない。つまり彼はどこにいるのか、何里の所まで到達したのか、どのような状態の中にいるのか、である。まさに我々は、次のような人々に似ている。これらの人々は聖なる都〔エルサレム〕に行こうとしていて、ある町から出て行った。ある者は五里進んで止まった。ある者は十里進んだ。ある者は進み、道の半ばまで達し、またある者は少なからず道程を進んだが、町から出ても、都の門外の悪臭を放つ郊外に留まっている。道程にいる人々のうち、ある人は二里行ったが、道に迷い、帰るか、または二里前に進んだが、五里後退する。他の人々は都まで到達したが、都の外に留まり、都の中には入らない。同様のことが我々にも言える。なぜなら、我々の中のある人々は、善行を身に付けようと、世を捨て、修道院に入った。そしてある人々は少し行って、留まった。他の人はより多く行った。一方他の人は善行の半分をなして留まってしまった。さらに他の人々はまったく何の善行も行わないで、この世から出たが、世俗の欲望や悪臭の中に留まった。他の人は少し善をなしたが、再びこれを破壊した。ある人はなした善行以上に多くを破壊した。他の人々は善行をなしたが、傲慢だったので、隣人を卑しめた。それゆえ、都の中に入らずに、その外に留まった。つまりこれらの人々は自分の目標に到達しなかったのである。彼らは都の門前にまで到達したが、その外側に留まったため、これらの人々は自分の意図していたものを果たさなかった。ゆえに我々一人一人が、自分はどこにいるのか、自分の町から出たが、都の外の悪臭漂う郊外に留まったのか、もしくは少し進んだのか、大分進んだのか、道程の半ばに達したのか、二里前に進んで、二里戻ったのか、または都まで到達して、エルサレムに入ったのか、都にまで到達したが、そこに入れなかったのかに、注意を向けなければならないのである。各人が自分はどこにいるのか、自分の状態を観察しなければならない。
人間の霊の状態には三つある。欲望に従って行動しているか、欲望に対抗しているか、欲望を根絶しているかである。欲望に従っている人とは、欲望を実行して、欲望に満足している人のことである。欲望に対抗している人とは、欲望に従って行動せず、欲望を退けず、欲望が通り過ぎるように戦うが、自分のうちに欲望を秘めている人である。欲望を根絶する人とは、修行し、欲望と反対のことをする人のことである。しかしこの三つの状態には大変大きな違いがある。たとえば、何か好きな欲望の名を挙げてほしい。我々はそれを検討しよう。傲慢にしようか。淫欲にしようか。それとも虚栄心について話そうか。なぜなら、我々は極めてこの欲望に打ち負かされているからだ。虚栄心から人は自分の兄弟の言葉を聞くことができない。他の人はある言葉を聞く時、困惑したり、一つの言葉に五つや十の言葉で答えたりして、敵対して悲しむ。そして論争が収まると、人は彼に一つの言葉を話した人に対して悪い考えを抱き続け、悪を思い出し、もっと悪いことを言えばよかったと悔やみ、彼に言うために、自分の中でさらに悪い言葉を言う。そして絶えず言うのだ。「なぜ、私は彼にこれそれのことを言わなかったのだ。なぜ、彼は私にこのことを言ったのか。私も彼にこれそれのことを言おう。」そして絶えず怒っている。これが霊の一つの状態である。つまり悪が習慣になっているのである。願わくは神が我々をこのような状態から免れさせて下さるように。というのも、この状態の霊は必ず来世の苦しみに処せられるからである。なぜなら、あらゆる罪は、実際に行動に移すと地獄に落とされるからである。そしてこのような人間はたとえ悔い改めたいと思っても、聖師父が言っているように、聖なる人々の助けを得ないのならば、彼一人では欲望を克服できない。そういうわけで、私は絶えずあなた方に次のように言っているのである。欲望があなた方の習慣となる前に欲望を捨てるように努めなさい、と。他の人は言葉を聞くと、困惑して、同様に一つの言葉に対し五や十の言葉で応答し、かつ、より悪い三つの言葉を言わなかったことを悔やみ、悲しみ、悪を覚えている。しかし彼は数日後改まる。他の者はこのような状態に一週間いて、そして改まる。またある者は一日経って改まる。他の者は相手を悲しませ、論争し、自分自身困惑し、また相手も困惑させ、その後向き直る。どれほど多様な状態があるかおわかりだろう。しかし全てこれらの人々は、欲望を実行に移している間は、地獄に相応しい。
欲望に対抗している人々について語ろう。ある人は言葉を聞いた時、悲しむが、それは彼が辱められたことを悲しんでいるからではない。そうではなくて、この侮辱を彼が耐え忍ばなかったことを悲しむのだ。このような人は、修行していて欲望に対抗している人々の状態にある。他の人は修行していて、労しているが、最後に欲望の力に負ける。他の人は失礼な応答はしたくないが、習慣によって欲望に惹きつけられる。他の者は決して侮辱的なことを言いたくないが、彼を不快にさせたということで悲しむ。しかし自分が悲しんだということで自分を批判し、このことを悔いる。ある者は侮辱を悲しまないが、このことを喜びもしない。これらはみな、欲望に対抗している人々である。しかしこれらの中の二人は他の人と異なっている。修行して欲望に負ける人、習慣によって欲望に惹きつけられる人々は、欲望に沿って行動する人々の不幸に処せられる危険に瀕している。私は彼らについて、彼らが欲望に対抗している人々の数に数えられると言った。彼らは自分の恣意によって欲望を抑えたからである。そして彼らは欲望に沿って行動しようとせず、逆に悲しみ、修行する。師父たちが言ったところによれば、霊が望まないあらゆる行いは一時(いっとき)のものである。しかしこのような者は自分を試みなければならない。つまり欲望自体でないにしても欲望が目覚める何かを彼らは行ったか否か、ゆえに欲望に負けたか、欲望に惹きつけられたか否かである。これらの人は欲望を阻止しようとしているが、他の欲望の示唆を受けてである。ある者は虚栄心から沈黙する。他の者はおべっかのため、また他の何かの欲望に従って、沈黙する。これらの人々は悪によって悪を癒そうとしている。しかし師父ピーメンが言ったように、悪は絶対に悪を根絶しない。このような人々は、自分で自分を欺いているが、欲望に従う人々の部類にいる。
最後に欲望を根絶している人々についても述べようと思う。ある人は、悲しみを与えられると喜ぶ。しかしそれは賞を期待してのことである。この人は欲望を根絶している人々の部類にいるが、理性的ではない。他の人は悲しみを受けながら喜んでいる。そして、彼自身に原因があるのだから、悲しみを忍耐しなければならないと思う。この人は理性的に欲望を根絶している。悲しみを受け、罪を自分に帰せ、我々に起こること全ては我々個人に原因があると思うことは理性的なことだからであり、「主よ、我に謙遜を与え給え」と神に祈る者は、神が彼を侮辱する者を送って下さるようにと神に頼んでいる、ということを知っていなければならないからだ。ゆえに、誰かが彼を侮辱している時、彼自身が自分を責め、次のように思いながら自分を卑しめなければならない。つまり、他の人が彼を外から謙遜にさせる時、彼自身が内的に遜らなければならない、ということだ。他の人は悲しみを与えられて喜ぶだけではなく、自分自身に原因があると思い、逆に彼に悲しみを与えている人の困惑について同情する。願わくは神が我々をこのような状態にまで導いて下さるように。
この三つの状態にいかに違いがあるかおわかりだろう。それゆえ、上述したように、我々の各人が、自分はどのような状態にいるのかを見分けなければならない。果たして彼は自由意志で欲望に従っているのか、欲望に満足しているのか。もしくは欲望に従うことを望まないが、欲望に負けているのか。もしくは習慣的に欲望に従い、欲望を行うが、彼は悲しみ、このように行ったことを後悔しているのか。もしくは理性的に欲望を阻止しようと修行しているのか。もしくは他の欲望のために、ある一つの欲望に対抗して修行しているのか。上述したように、他の人は虚栄心から、または人に媚(こび)を売るために、または概して何かの人間的な考えによって沈黙しているのか。彼は欲望を根絶し始めたが、その時彼は理性的に欲望を根絶しているのか、または欲望に対抗しているのか。各人がどこにいるのか、どの道程にいるのかを知るように。なぜなら我々は自分を、毎日と言わず、毎年と言わず、毎月と言わず、毎週と言わず、試みなければならないからである。そして、先週私はこの欲望によって悩んだが、今私はどのようであろう、と問わなければならない。同様に毎年自分に尋ねなければならない。去年私はこの欲望に負けていたが、現在の自分はどんなであろう、と。このように常に自分を検証しなければならない。少しでも進歩したか、それとも前と同じ状態にいるのか、もしくは前より悪くなったのか。願わくは神は、もし我々が欲望を根絶することに成功できなかったとしても、少なくとも、欲望に従って行動せずに欲望に対抗できるような力を我々に与えて下さるように。なぜなら欲望に従い、欲望に対抗しないというのは、実に大変辛いことであるからだ。欲望に従い、欲望に満足している人は誰に似ているか、あなたに例えを話そう。彼は自分の敵の矢に打ち負かされて、その矢を自分の手で取って、自分の心臓を突き刺す人に例えられる。欲望に対抗している人は、自分の敵の矢を浴びせられたが、鎧(よろい)を着ていたので傷を受けなかった人に似ている。欲望を根絶している人は、自分の敵の矢を浴びせられても、それを折り、または自分の敵の心臓にその矢を返す人に例えられる。聖詠経に記されているがごとくである。「其(その)劒(つるぎ)は反(かへ)りて其心を貫き、其弓は折られん。(第三十六聖詠十五節)」
ゆえに兄弟よ、もし敵の武器を彼らの心に返せないというのなら、少なくとも矢を受けず、我々の心を矢が突き刺すことがないように、我々も努めようではないか。敵の矢に傷つけられないように、鎧をまとおうではないか。願わくは善なる神が我々を矢から守って下さるように。願わくは神が我々に注意力を与え、神の道に我々を向けて下さるように。蓋(けだし)神に凡その光栄、尊貴、伏拝は世々に帰す、アミン。








