第九教訓 嘘をついてはいけないことについて

兄弟たち、私は皆さんに嘘について少し思い起こしてもらいたい。というのは、あなたたちはあまり自分の舌を制していないからだ。この舌から我々は簡単に多くの悪へと引き付けられるのである。我が兄弟たちよ、私がいつも言っているように、あらゆることについて善や悪への習慣を持つことができる。そこで我々が嘘に盗まれないように多くの注意を払う必要がある。というのは、嘘つきは神との交わりを持っていないからだ。嘘は神と無縁のものである。聖書に次のように書かれている通りである。「嘘は凶悪者〔悪魔〕から出ており、凶悪者は嘘であり、かつ嘘の父である。(イオアン(ヨハネ)八章四十四節)」このように悪魔は嘘の父と名付けられており、真理は神である。なぜなら神ご自身が次のように語られているからだ。「わたしは道であり、真理であり、命である。(同十四章六節)」ゆえに我々は、嘘によって「誰」から離れ、誰と結びつくかおわかりだろう。それでもし私たちが真に救われたいのなら、我々は力を尽くし、また熱意をもって、真理を愛し、あらゆる嘘から自分を守らなければならない。嘘が我々を真理と命から切り離さないためである。

嘘に三種類ある。一つは思いで嘘をつくことである。二つ目は言葉によって嘘をつくことである。そして三つ目は自分の生活自体で嘘をつくことである。思いで嘘をつく人とは、自分の仮定を真理だと鵜呑(うの)みしてしまう人のことである。つまり隣人に対して簡単に猜疑心を持つ人のことである。このような者は誰かが自分の兄弟と話しているのを見ると、自分勝手に推測し、「彼は私について話しているのだ」と言う。対話が終わると彼はまた推測し、彼のために対話を終えたのだと思う。もし誰かが言葉を発せば、彼はその言葉が彼を辱めるために言われたのだと猜疑心を持つ。一般に一つ一つの行いにおいて彼はこのように絶えず隣人を見張って言う。「彼は私のためにこれを行ったのだ。彼は私のためにこれを言ったのだ。彼はあれこれのためにこれを行ったのだ」と。このような者は思いによって嘘をついているのである。なぜなら彼は真理についてはまったく話さずに、全てを単に猜疑心から言うからである。ここから次のようなことが生じる。即ち、好奇心、悪口、立ち聞き、敵意、批判などである。また誰かがあることを思って、それがたまたま現実となったとする。するとその後彼は、彼が言っているように、自分を改めたいと思い、すでにその時には絶えずあらゆることを指摘し「もし誰かが私のことについて言ったならば、私は私の罪が何であるか知らなければならない。その罪のために兄弟が私を裁いているからだ。そして私は更生しなければならない」と思う。第一にすでにこの始まりが凶悪なる者から出ている。というのは、彼は嘘によって始めたからである。つまり真実を知らずに、知らないことを考え出しているのである。「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。(マトフェイ(マタイ)七章八節)」もしも彼が実際に更生することを欲しているのならば、兄弟が彼に「これはするな」とか「なぜお前はこれをしたのだ」と言った時、彼は困惑してはならず、兄弟に伏拝し、感謝しなければならない。そしてその時彼は更生するだろう。なぜならもし神が彼の思いが何であるか見ているのなら、神は決して彼を迷いのうちに捨て置くことなく、彼を更生させる誰か強い人を送るだろうからだ。一方で「私は自分を更生させるために自分の推測を信ずる。この目的で立ち聞きしたり、好奇心を示したりするのだ」と言うのなら、これはつまり我々に罠を仕掛けようとしている悪魔から吹き込まれた自己正当化である。

私が共住修道院にいたある時、次のような悪魔の誘惑があった。その誘惑とは人の動きや歩き方でその人の霊(たましい)の状態を結論づけるというものだった。次のようなことがあった。ある時、私が立っていると、私の脇を水を入れたバケツを持った女性が通りかかった。どうして惹きつけられて、彼女の眼を見たか自分でもわからないが、その時すぐに考えが私に彼女は娼婦だと示唆した。しかしこの考えが私に襲うや否や、私は大変悲しんで、このことを長老の師父イオアンに言った。「主宰よ、私が意図せず誰かの動きや歩き方に注意を払い、考えが私にその人の霊の状態について言う時、私はどうすべきでしょうか」と。長老は私にこう答えた。「どうすべきか、と言うのか。人は生まれつきの欠陥を持っていても、大いなる努力によってその欠陥を改めることがあるではないか。ゆえに見た目で誰かの霊の状態を結論づけてはいけない」と。ゆえに決して自分の推測を信じてはいけない。なぜなら曲がった正義はまっすぐなものもひん曲げるからだ。人間の意見は嘘のもので、それに委ねる者を害する。ゆえに、考えが私に太陽のことを、これは太陽だと言っても、もしくは闇についてこれは闇だと言っても、その時から私はその考えを信じなかった。というのは自分の意見を信ずることほど、悪いものはないからだ。もしこれが私たちの中に根付いてしまえば、実際にはない物や存在しえない物をも見たと思うことになるからだ。ここで私がまだ共住修道院にいた時に私のもとで実際に起こった驚くべき出来事について語ろうと思う。

我々のいたこの修道院に、この欲望に大変悩まされている一人の兄弟がいた。彼はたいそう自分の推測に従っていたために、自分の仮定の一つ一つを信じていた。彼は、彼の考えるようにことが運び、それ以外のことはありえないと思っていた。悪は時と共に増していき、悪魔は彼を次のような迷いにまで追い詰めた。ある時、庭に入った彼は偵察していた。というのも彼は常日頃、立ち聞きしたり、盗み見したりしていたからである。そして彼には一人の兄弟があたかもイチジクの実を盗み食いしたように思えた。この日は金曜日でまだ第二時(朝八時)にもなっていなかった。そして彼は、実際にこのことを見たのだと信じこみ、隠れ、黙って退いた。その後聖体礼儀の時になって彼はまた、たった今イチジクを盗み食いした兄弟が、ご聖体を頂く時にどうするかを見ていた。そして、兄弟が領聖につくために手を洗っているのを見た時、彼は駆け出して行って、修道院長に言った。「ご覧下さい、これこれの兄弟は他の兄弟たちと共に、神聖なる機密に与ろうとしています。でもどうか彼にご聖体を与えないで下さい。なぜなら私は今朝、この兄弟が庭からイチジクを盗んで食べたのを見たからです。」その間にこの兄弟は非常に敬虔に、感動しながらご聖体に与ろうとしていた。なぜなら、この兄弟は敬虔なる者のうちの一人だったからである。修道院長は彼を見ると、聖体を授けようとする司祭のもとに行く前に、彼を自分のもとへ呼び寄せ、そして彼を脇に寄せて尋ねた。「兄弟よ、私に言いなさい。あなたは今日何をしたかね。」すると兄弟は驚いて、修道院長に言った。「主宰よ、どこでですか。」修道院長は言葉を続けた。「あなたは朝庭に入った時、何をしたかね。」兄弟はこれに驚き、再び院長に答えた。「主宰よ、私は今日庭を見ませんでしたし、朝は修道院にすらいませんでした。それどころかたった今道中から帰ってきたばかりです。というのは徹夜祷が終わってすぐに、会計係が私をこれこれの従順を行うように遣わしたのです。」兄弟が言っている従順の場所は大変遠くにあったため兄弟は聖体礼儀の時間に間に合うように努力したのだった。修道院長は会計係を呼び出して、彼に尋ねた。「お前はこの兄弟をどこへ遣わしたのかね。」会計係は兄弟が言った通りのことを答えた。つまり彼は兄弟をどこそこの村に遣わしたというのである。修道院長は言った。「なぜお前は彼が私から祝福を受けるようにしなかったのか。」会計係は伏拝して答えた。「主宰よ、私をお赦し下さい。徹夜祷の後あなたは休んでおられたので、私は彼があなたから祝福をもらうようにさせなかったのです。」このようにして修道院長が事態を確認すると、院長はこの兄弟を放して、領聖に行かせた。そして自分の猜疑心を信じた兄弟を呼び、彼に懲罰(エピテミヤ)を課し、聖なる領聖から外した。さらに全ての兄弟たちを集めて、聖体礼儀の後、涙ながらに起こったことを彼らの前で話し、全ての人の前で彼の罪を暴露した。それはこのことによって三つの益を得るためである。第一に悪魔を辱め、このような猜疑心を蒔く者を暴露するためである。第二にこのことによって、このように兄弟を辱めることで、兄弟の罪が赦されるようにするため、かつ彼が将来神から助けを得られるようにするためである。第三に、自分の意見を決して信用しないようにと兄弟たちを堅固にするためである。このことについて多くを我々にも兄弟にも教えつつ、修道院長は「猜疑心ほど害のあるものはない」と言い、このことを起こった例で証明した。師父たちは、我々が自分の猜疑心を信じることの害から我々をあらかじめ守るように、これに類する多くのことを語っている。そこで兄弟たちよ、自分で作り上げた考えを決して信じることのないように努力しようではないか。なぜなら実にこの欲望ほど人間を神と自分の罪に注意を向けることから遠ざけるものはなく、彼に益のないことについて常に好奇心を示すように鼓舞させるものはないからである。ここから何も善き物は生まれないどころか、生じるのは多くの困惑だけである。ここから人は決して神への畏れを身に付ける可能性を見出さないのである。もし、我々の悪癖が原因で、我々の中に凶悪なる思考の種が蒔かれるのならば、すぐさまそれを善なる思考に変えなければならない。そうすれば、この思考はあなた方に害をもたらさない。なぜなら、もし自分の推測を信じるのならば、それは際限がなく、決して霊を平和な状態にしないからである。これが思いによる嘘である。

言葉で嘘をつく者とは倦怠感から徹夜祷に立つことを怠ったのに、「私は祈祷に立つことを怠りました。私をお赦し下さい。」と言う代わりに「私は熱があり、労働で極限まで疲労しました。それで祈祷に立つ力がなく、病気でした。」と言って、伏拝を一回して謙遜になるかわりに、多くの嘘の言葉を吐く人である。このような場合、彼がもし自分を責めなければ、際限なく自分の言葉を変え、非難されないように論争する。同様に自分の兄弟と何か論争している時、彼は自己正当化し続け、「しかしあなたは言った。しかしあなたは行(おこな)った。しかし私は言わなかったが、これこれのことは言った」などと言う。それは何としても謙遜にならないためだ。再び彼が何かを強いられると、彼は「私はこれを望まない」と言いたくはなく、自分の言葉を全て曲げて言う。「私には、これそれの病があるので、これは私には必要ない。一方これは私に命じられたことだ。」と。そして自分の願いが満たされるまで嘘をつき続ける。そして全ての罪が淫欲や金銭欲や名誉欲から出ているように、嘘もこの三つの原因から出る。人間は自分を責めず、謙遜にならないため、または自分の願望を叶えるため、もしくは所有欲から嘘をつくが、自分の願望が成就するまで言葉における術策や策略をやめない。このような人は決して信頼されず、逆に彼がもし正しいことを言ったとしても、誰も彼を信用しない。彼の義自体が疑わしいものとなる。時として、どうしても小さなことを隠さなければならない状態にあるという場合がある。つまり、もし誰かが小さなことを隠さなければ、大きな困惑と悲しみをもたらす事態になることがある。そしてこのような極限状況に陥り、誰かが自分がそのような苦境にあると見た時は、上述したように、大きな困惑や悲しみや侮辱が起こらないように、言葉を変えてもいい。しかし義の言葉から逸(そ)れるような必要性がどうしてもある場合は、その時人は悲しみのない状態に留まるわけにはいかず、悔い改めて、神の前で泣き、このような状況は一時的な誘惑だと思わなければならない。そしてこのような逸脱を頻繁に自分に許してはならず、多くの場合のうちの一回のみとしなければならない。なぜなら毒蛇の毒を消す薬や下剤のように、もし頻繁にそれを使用するなら、害を被るからである。しかしもし必要に迫られて一年に一度使用すれば、これらの物は人の役に立つ。このことに関してもこのように行わなければならない。必要に迫られて言葉を変えたい人は、それを頻繁にせずに、例外的な場合において、多年に一度、上述したように必要に迫られたと思う時にそのような言動を行うべきである。そして極めて稀に許されてこのような言動をする場合も、畏れ戦(おのの)きながら、神に自分の恣意(しい)と必要性を打ち明けつつ、行うべきである。その時その人は赦されるが、それでもその人は害を受ける。我々は、思いにおいて嘘をつくとはどういうことか、言葉において嘘をつくとはどういうことかを述べた。ここで自分自身の生活において嘘をつくとはどういうことかを述べたいと思う。

自分の生活で嘘をつく人とは、淫欲な人間にもかかわらず、節制者のようなふりをしたり、金銭欲が強いくせに、施しの話をしたり、憐れみを称賛したりするような人のことである。また高慢のくせに謙遜に驚いたりする人のことである。彼は善行を称賛したいがために善行に驚くのではない。なぜなら、もし彼がこの考えを持って語るとすれば、彼は初めに謙遜のうちに自分の弱さを認識せざるをえないからだ。ゆえに次のように言うことになる。「呪われた私は禍(わざわい)だ。私はあらゆる善とは反対のことをしていた」と。この時はすでに自分の弱さを認識して、彼は善行を称賛し、それに驚き始めるだろう。彼は、他人を惑わさないという目的をもってではなく善行を称賛するのだ。なぜなら彼はこの場合次のように考えなければならないからだ。「真に私は呪われた情欲に満ちた者である。それなのに何のために私は他人を惑わすのか。なぜ他人の霊に害を与え、自分に他の重荷をも担わせるのか。」そしてその時、彼は上述したような状態で罪を犯したが、しかし善にも触れたことだろう。なぜなら自分を裁くことは謙遜の業であり、隣人を容認することは憐れみの業であるからだ。しかし嘘つきは私が先に述べたように、上述したような何らかの原因によって善行に驚くのではない。逆に彼が驚くのは自分の恥を覆うために善行の名を盗んだり、あたかも彼自身が実際にそのような人間であるかのように言ったりするためであったり、またはしばしばあることだが、誰かを害したり、欺いたりするためである。なぜならどんな悪意も、どんな異端も、悪魔自身も、善行を装うこと以外には誰をも欺くことはできないからだ。使徒は、悪魔も光の天使を装うと言っている。ゆえに悪魔の手下どもが義に仕える者を装うのは驚くにはあたらない。(コリンフ(コリント)後十一章十四、十五節)このように嘘つきな人間は、謙遜にならずに、恥を恐れるか、もしくは上述したように、誰かを欺(あざむ)いて、彼を害しながら、あたかも彼自身が善行に満ちた行動をし、経験から善行を知っているかのように善行について言い、善行を褒(ほ)め、善行に驚くのである。このような者は自分の生活自体によって嘘をついている。このような者は裏表のない素朴な人間ではなく、二心を持った人間である。なぜなら彼の内面と外面が異なっていて、彼の人生が二様で凶悪だからである。このように我々は嘘について、それが凶悪であると語り、真理については、真理は神であると語った。ゆえに兄弟たちよ、凶悪なる部分を避けるために、嘘を避けようではないか。そして神と一体になるために己に真理を保持しようではないか。神は言っている。

「わたしは真理であり、(イオアン(ヨハネ) 十四章六節)」と。願わくは主、神が我々を真理に与らせて下さるように。

この神に光栄、権柄、尊貴、伏拝は世々に帰す、アミン。