第八教訓 恨みについて

師父たちは言っている。修道士に怒りや、同様に誰かを悲しませることはつきものではないと。また「怒りを克服した者は、悪魔を克服したのである。一方この欲望に打ち負かされる者は修道生活にはまったく無縁のものである」と。我々が苛立ちや怒りを捨てないだけでなく、恨みに身を委ねる時、我々は自分について何と言わなければならないだろう。我々は何をなさなければならず、このような哀れな非人間的な心持ちをいかにして嘆かずにいられるだろうか。ゆえに、兄弟よ、自分に注意し、神の助けによってこの滅びに導く欲望の苦しみから逃れられるように努めようではないか。

兄弟間で混乱が起きたり、満足いかないことが起こったりする時、彼らのうちの一人が赦しを求めて相手に頭を下げる。しかしその後も悲しみ続け、兄弟に反する考えを持ち続ける。 このような者はこのことを軽視してはならず、逆にそれを直ちに阻止しなければならない。なぜならこれは恨みだからだ。一方私が上述したように、恨みは人から多くの注意を要求する。それは恨みに失墜し、滅びないようにするためだ。赦しを求めて頭を下げ、戒めのためにそれを行った者は、現時点では怒りを癒(いや)したが、恨みに対してはまだ修行しておらず、ゆえに兄弟に対して悲しみ続けている。というのは恨みと怒りと苛立ちと困惑とは別物だからだ。あなたたちがこのことをより良く理解するために例を挙げよう。火を熾(おこ)す者はまず小さな炭を取る。これは悲しみをもたらす兄弟の言葉だ。ここではまだ小さな炭にすぎない。というのもあなたの兄弟の言葉が何だと言うのだ。もしあなたがこれに耐えれば、あなたは炭火を消したことになる。もし、「なぜ、彼は私にこれを言うのだ。私は彼にあれこれのことを言うであろう。もし彼が私を悲しませたくないなら、彼はこのことを言わなかったであろう。だから私は必ず、彼に悲しみを与える」というふうに思うのなら、あなたは火を焚きつけるような木切れまたは何か他のものをくべたのだ。そして煙が立つ。これは困惑のことだ。心を動揺させたり、苛立たせたりする考えの動きや興奮自体が困惑である。苛立ちとは悲しみを加えた人に対して復讐心が起こることであり、復讐心は厚かましさとなる。福たる師父マルコが次のように述べた通りである。「考えによって養われた悪意は心を苛立たせ、祈りと希望によって殺されつつ砕かれる。*1」と。もしあなたがあなたの兄弟のわずかな言葉に耐えたなら、私が先に上述したように、困惑が起こる前にこの小さな炭火を消したことになる。しかしもし望むなら、この困惑がまだ大きくないうちに、沈黙と祈りと心から一つの伏拝をすることによって首尾よく消すことができる。もしもあなたが燻(くすぶ)り続けているのなら、つまり思い出によって「なぜ彼は私にこのことを言ったのだ。私もあれこれのことを彼に言おう」と心を苛立たせ、興奮させているのなら、言うなれば考えの合流自体から、かつ考えの衝突から心は燃え上がるのである。そして憤りの炎が燃える。なぜなら憤りというのは聖大ワシリイが言うところに依れば、心の近くにある血液の熱だからである。このようにして憤りが起こる。これは同様に癇癪(かんしゃく)持ちとも言われている。もし望むなら、怒りが起こる前に苛立ちの火を消すこともできる。もしもあなたが人を困惑させ、また困惑し続けるのなら、それは火に薪をくべる人に例えられる。火が燃え立てば燃え立つほど、多くの燃える焼け炭ができることになる。これは怒りである。同様に「憤りのない所では敵意は沈黙している」という格言の意味について問われた時に師父ゾシマが言った通りである。何となれば、もし誰かが困惑し始め、その困惑の初め、つまり燻(くすぶ)り、火花が飛び始める初めに、かつ苛立ちが燃え上がらない前に、我々が言ったように、すぐさま自分を咎め、赦しを求めて隣人に頭を下げるのなら、彼は平安を守ることができるからだ。同様に憤りが起こった時、もし彼が沈黙せず、逆に困惑し、かつ自分を興奮させ続けるのなら、上述したように彼は薪を火にくべた人に似ていて、薪は最終的に多くの焼け炭ができるまで燃える。ゆえに燃える焼け炭は、火が消されて集められると、数年の間そのまま残り、たとえ誰かが炭に水をかけても、炭は腐らない。怒りも同様である。もし怒りが留められ、恨みの気持ちが起こってくると、人は自分の血を注ぎ出さなければ恨みから解放されない。このように私はそれぞれの区別を話した。おわかりになられただろうか。あなたは初めの困惑がどのようなものであるか、憤りとは何か、怒りとはどのようなものであるか、そして恨みとはいかなるものかを聞いた。一言がどのような悪にまで至らせるかがおわかりだろうか。なぜならもし初めに自分自身を咎めて忍耐強く兄弟の言葉を忍び、自分のために兄弟に復讐しようとせず、また一言に二言、または五つの言葉で返したりしたいと思わず、悪に悪をもって報いようとしなければ、あなたはこれらの悪から逃れられるだろう。ゆえにあなた方に言う。欲望が小さいうちに欲望を捨てなさい。その欲望があなたの中に根を下ろし、強まり、かつあなたを悩ませる前に、である。なぜならその時あなたはこれらの欲望から大いに苦しむことになるからだ。つまりこういうことである。小さな茎を抜き取るのと、大きな木を抜き取るのとでは、別だということである。

自分たちが歌っていること自体、自分たち自身がわからないということほど驚きに値することはない。なぜなら我々は毎日己を呪いながら歌っていて、そのことを理解しないからだ。我々は歌っていることを理解する必要があるのではないか。我々は常に言う。「若(も)し我々に悪を報いし者に復讐せば、我は我が敵により無力に倒れる。(第七聖詠五節)」「倒れる」とは何を意味しているのであろうか。人が立っている間は、彼は自分の敵に対抗する力を持っている。彼は撃退することもあれば、彼が撃退されることもある。彼が打ち負かすこともあれば、彼が打ち負かされる時もある。しかし彼はまだ立っている。もしも彼が堕落すれば、地べたに横たわりながら、いかにして彼は自分の敵と戦うことができようか。我々は自分自身について、ただ単に自分の敵によって堕落しないように祈るだけでなく、敵のせいで「無力に倒れるように」祈っている。では「我が敵により無力に倒れる」ということは何を意味しているのであろうか。我々は倒れるということが、対抗する力がないというよりは地面に伏すという意味を持っているということを述べた。一方無力というのは何らかの方法によって起き上がるための善行を何も持っていないことを意味している。なぜなら立ち上がる力がある者は、自分に対する配慮を加え、何らかの形で再び戦いに出向くからである。その後我々は言う。「願はくは敵は我が霊(たましい)を追ひて、之を執(とら)へ、(第七聖詠六節)」ただ単に「追ふ」だけでなく「敵は我が霊を執へる」ように、と。もし我々に悪を与える人に悪をもって報いるならば、願わくは、我々は彼に従い、あらゆること、全てのことについて彼に服従し、彼は我々を制覇するように。そしてこのことについて祈るだけでなく、「我が生命(いのち)を地に蹂(ふみにじ)る」ように。「我々の生命」とは何であろうか。我々の生命は善行である。そして我々は敵が我々の生命を地に踏みにじるように祈る。願わくは完全に地上の者となろう、そして我々の驕(おご)りも地に釘打たれるがよい。そして「我が栄(さかえ)を塵に擲(なげう)たん。(第七聖詠六節)」聖なる戒めの遵守によって、霊が獲得した知識がないのなら、我々の栄は何になるのだ。ゆえに我々は、使徒が言っているように、敵が「我々の栄」を「我々の恥」に変えてくれるように頼んでいる。それは我々の栄を塵のうちに住まわせるように、また我々の生命と光栄を地のものにするように、である。我々が神において驕り高ぶらないためである。逆に全て身体的、肉体的なことについて、神は次のように言われている。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。(創世記六章三節)」我々がこのこと全てを歌った時、もし悪に対して悪で報いるのなら、我々は自分自身を呪っているのである。一方我々は何と頻繁に悪に対して悪で報い、このことを配慮せず、注意せずにこのことに留まるのだろうか。

悪に悪で報いることは行いばかりでなく、言葉や外見でもありうる。ある者は、行いでは悪に悪で報いなかったが、上述したように、誰かが動きや眼差しで自分の兄弟を困惑させるがゆえに、言葉や態度で報いる。なぜなら目つきや体の動きだけで自分の兄弟を困惑させることもできるからである。これも同様に悪に悪をもって報いることである。他の者は悪に対して行いや言葉や態度や動きで復讐しないようにしたが、心の中では自分の兄弟に対して不満を抱いていて、彼のことを悲しむ。霊の状態がいかに異なっているかがおわかりだろう。他の者は自分の兄弟に対して悲しみを持っていないが、誰かが何らかのことでこの兄弟を悲しませたか、罵ったか、卑しめたと聞くと、彼は喜ぶ。これはつまり、彼はこのようにして自分の心の中で悪に悪をもって返したのである。他の人は自分の心の中に悪意を養わないで、彼を悲しませる人が辱められたと聞いても喜ばず、もし彼に悲しみが襲いかかってきたら、と悲しみさえする。しかし彼が順調な時には喜ばない。逆にもし彼を称賛し、喜ばせているのを見たら、彼は悲しむ。これも最も軽い方ではあるが、恨みの一種である。我々は皆一人一人が自分の兄弟の安息を喜び、全てを彼に敬意を払うために行わなければならない。

我々は最初の言葉で、自分の兄弟にお辞儀をしながら、さらに彼のことを悲しみ続けている人について話した。つまりこういうことである。彼はお辞儀をし、これにより怒りを癒した、と言われている。しかしまだ恨みに対しては戦っていない。他の者はもし誰かを悲しませることになった時、彼らは互いにお辞儀をして、互いの間で和解し、彼に対して心の中で何も悪い思いを持っていないまま平和に暮らしている。しかしある一定の時間が過ぎた後、また彼に何か悲しみを与えるような言葉を言うと、彼は以前のことを思い出して、二番目の侮辱だけでなく、一番目の侮辱によっても困惑するようになる。この人は傷を持っていてその傷の上に軟膏(なんこう)を付けている人に似ている。たとえ彼が現時点において傷を癒したとしても、傷は癒えたが、傷口はまだ痛む。もし誰かが彼に石を投げたら、この傷口から全身が損なわれ、すぐさま血が流れて来るだろう。同様のことをこの人も耐えているのである。彼には傷があった。そして彼は軟膏を塗った。つまり兄弟に頭を下げ、最初の人のように傷を癒(いや)した。つまり、怒りを癒したわけである。そしてやはり恨みを取り除くために努力し始め、自分の心の中に一つも悪い考えがないように努め始めた。なぜならこれは傷が癒えることを意味しているからである。しかし傷は完全に癒えなかった。つまり、まだ傷を覆っている部分である恨みの痕跡があったのだ。もし人が少しでも軽い損傷を受けたのなら、そこから傷全体が新しくなるだろう。

ゆえに完全に内的な膿をきれいにするように、努力しなければならない。痛んでいる部分が完全に癒えて、一つも醜悪さが残らないようにし、概してこの場所に傷があったことがわからないようにするためである。どのようにこれに達すればよいのか。悲しみを与えた人のために心から祈り、言うのである。「神よ、我が兄弟の祈祷のために、我が兄弟と我を助け給え」と。そうすれば人は自分の兄弟のために祈ることができるようになる。これは同情と愛の印であるからだ。つまりこうして兄弟の祈りのゆえに自分に助けを求めて遜(へりくだ)るのである。一方同情と愛と謙遜がある所に苛立ちや恨みや他の欲望が入り込む余地があるだろうか。師父ゾシマは言った。「もし悪魔が自分のその悪鬼ども全てと共に己の悪意から来る凡その狡猾さをもって向かったとしても、悪魔の狡猾さはハリストスの戒めから来る謙遜によって消し去られ、打ち砕かれる」と。一方他の長老は言った。「敵のために祈る者には恨みがない」と。つまり、これを行いで実行しなさい。そうすれば聞いたことを良く悟ることだろう。なぜなら、真に、もしこのことを行わないのなら、言葉だけでこのことを学ぶことはできないからだ。技術を学ぶのに言葉だけでそれを理解する人がいるだろうか。いや、まず先に彼は働いては、うまくいかずにダメにし、働いては自分の業を打ち消すのである。そして少しずつ、労働と忍耐によって彼の労働と思いをご覧になっている神の助けによって技術を学ぶのである。一方我々は技術の中の技術を言葉だけで学ぼうとしており、業に取り掛かろうとしない。これが可能であろうか。であるから兄弟よ、我々は自分に気を配り、まだ時がある間に熱心に努力しようではないか。願わくは神はあなたが聞いたことをあなたに思い出させ実行させて下さるように。願わくはこのことが主の審判の日に我々にとって裁きとならないように。神に光栄と尊貴と伏拝は世々に帰す、アミン。

 

*1  恨みを持つ悪い考えによって悪意が強められると、心の中には苛立ちと怒りが生じる。もし人が祈りと希望によって悪意を殺すのなら、心には感動と罪への嘆きが沸き起こる、との意味。