第七教訓 隣人ではなく、自分を責めなければならないことについて

兄弟よ、次のことがどこから来ているか研究しよう。ある時ある人は誰かが自分を悲しませる言葉を聞くが、それに注意を払わず、あたかもそれがまったく聴こえないがごとく動揺なしにそれを耐え忍ぶ。またある時には言葉を聞くや否やすぐさま動揺する。この違いの原因はどのようなものであろうか。この違いの原因は一つだろうか、それとも多くの原因があるのだろうか。私はこれには多くの原因があると見ている。しかし言うなれば他の原因を生む一つの原因がある。あなた方にこれがいかに起こるかを告げよう。第一にある人は祈祷や善行の後に、言うなれば神(しん)の〔霊的に〕善き状態にあり、ゆえに自分の兄弟に寛容になり、兄弟の言葉によって動揺しないということがある。同様にある人は誰かに執着的な愛を抱いていて、ゆえに悲しむことなく彼から受けたことの全てを受け流す。同様にある人は自分を悲しませようとする者を軽蔑しているがゆえに侮辱に注意を払わず、侮辱する人を人間だと思わず、ゆえに彼が話すことや行うこと全てを何とも思わない。何かあなた方が驚くようなことをこれから話そう。

まだ私が修道院から離れる前のことである。修道院に一人の兄弟がいた。私は彼が動揺したり悲しんでいたり、誰かに対して怒っているのを見たことが一度もなかった。その時、私が気づいたところでは、兄弟の多くがしばしば彼に不愉快なことをし、悲しませていた。一方この若者は彼ら一人一人から受ける悲しみを、あたかも誰も彼を動揺させることがまったくないかのように耐え忍んでいた。私は常に彼の非凡ならぬ悪意のなさに驚いていて、いかに彼がこの善行を獲得したかを知りたいと願った。一度私は彼を脇に呼び出して、彼にお辞儀し、兄弟から悲しみを受けたり、誰かからの侮辱を耐え忍んだりしながら、彼がこのような寛忍を示すというのは、いかなる思いを常にその心に抱いているからなのか話してくれるように頼んだ。彼は私を軽蔑するようにきっぱりと答えた。「私が彼らの欠点に注意を払ったり、人々から侮辱を受けているとでもいうようにしたりしなければならないというのか。こいつらは吠える犬じゃないか。」このことを聞くと、私は頭を下げ、自分に言った。「この兄弟は正しい道から外れた。」と。そして十字をかいて、神が私と彼を覆って下さるようにと神に祈りながら、彼から立ち去った。

ゆえに上述したようにある人は隣人を軽蔑することで動揺に陥らない。一方これは明らかな滅びである。もしも誰かが彼を悲しませる兄弟に対して動揺しているのなら、それは彼がこの時、神(しん)の良き状態にいないか、彼に対して敵意を持っていることから来るのだ。これにもすでに述べられたように多くの他の原因がある。しかしあらゆる動揺の主たる原因は、もし我々がしっかりと探求するなら、我々が自分自身を責めないことにある。そこからがっかりしたり、我々が決して安息を得られなかったり、ということが起こるのだ。凡その聖人たちからこれ以外の他の道はないと聞いても驚くに値しない。我々はこの道を避けて平安を得た者は誰もいないということを知っている。一方我々は平静を得ることを願っていながら、決して自分自身を責めないで正しい道を行こうとしている。実際に、ある人が非常に多くの善行を行いながらこの道を保持しなければ、そのことによって自分の全ての努力を失いつつ、彼は侮辱を感じ、他人を侮辱することを決してやめないだろう。反対に自分自身を責める者はいかなる喜びといかなる静けさを持っていることだろう。師父ピーメンが言うところに依れば、自分を責める者はどこへ行こうとも、彼にどのような害や辱めや他の何かの悲しみが降りかかろうとも、彼は予め自分をあらゆる悲しみに相応しい者と思い、決して動揺しない。このような状態以上に悲しみがない状態はあるだろうか。

しかしある人は言うかもしれない。もし兄弟が私を辱めたとする。しかし私は自分自身を検証して、この辱めの原因に値することを、彼に対して何もしていないことがわかったとする。この場合、どうして自分を責めることができるのか、と。実に神への畏れをもって自分を検証する者は、さまざまな方法で、行いや言葉や外見によって、自分がその原因を与えたということを発見するだろう。言われているように、もし彼が今現在相手に何らかの原因を与えなかったとしても、おそらく他の時にあれやこれやのことで彼を辱めたり、おそらく誰か他の兄弟を悲しませたりしているため、彼は苦しまなくてはならないのだ。また、しばしば何か他の罪のために苦しまなければならない。ゆえに上述したように神への畏れを持って自分自身を検証し、厳格に自分の良心を省みる者は、すぐさま自分が悪いということを発見する。

他の者は、平安や沈黙のうちにいると思いきや、兄弟が彼に侮辱を与える言葉を吐くと動揺する。ゆえに自分も彼を悲しませる権利があると思い、言う。「もし彼が来ないで、彼の言葉が私を動揺させなかったらなら、私は罪を犯さなかったであろうに。」これぞおかしな判断。これぞ悪魔の欺き。彼に言葉をかけた人が彼に欲望を入れたとでも言うのであろうか。彼はただすでに自分のうちにあったものを見たにすぎない。というのはもし彼が望めば、その欲望に関して悔い改めるためである。このような者は腐ったパンに似ている。外見上は良いが中身はカビが生えている。もし人がそのパンを割いた場合、その腐った所が現れる。このようにここでも彼はあたかも平安な状態にあると思われているようだったが、実は欲望が彼のうちにあって、彼はそのことを知らなかったのだ。兄弟は彼に一言言った。そして彼の内部に秘められていた膿(うみ)が現れた。このようにもし彼が憐れみを期待するなら、痛悔し、清められ、進歩するがよい。さらに彼にこのような利益をもたらした兄弟に感謝するがよい。なぜなら誘惑はすでに彼を以前のように打ち負かさず、逆に彼が進歩するほど、欲望は彼にとって軽いものと映るからだ。なぜなら霊(たましい)が成功する度合いに応じて、霊はより強くなり、霊にある誘惑を耐える力が獲得できるからだ。強い動物も、もし重い荷をつけるのであれば、静かに荷を運んで行く。そして動物が躓(つまず)く時もすぐさま起き上がり、まったく躓いたことを感じない。もしも反対に動物に力がなければ、軽い荷でも彼を苦しめ、動物が倒れる時、動物を起こすために大変な助けが必要となる。霊もこれと同じである。霊が罪を犯す度合いによって、霊は罪のために弱り、罪に身を委ねる人を疲れさせることになる。ゆえにこのような人に起こる全てのことが、彼を苦しめるのである。もし人が善において進歩するなら、進歩の度合いに応じて、彼が以前は重いと思っていたことが、彼にとってはより軽いものとなる。ゆえにもし我々が我々に起こること全てに、他人ではなく自分自身を罪あるものと見なすのなら、これは我々に多くの善をもたらし、大いなる平安と進歩を与える。さらに、神の摂理なしに我々には何も起こらないということを、我々は理解する必要がある。

もし誰かが次のように言ったとしよう。「もし物が必要で、それが手に入らない時、そして、その時その物が私に必要不可欠だった場合、いかに私は悲しまずにいられようか。」しかしそのような時でさえ人は誰かを非難したり、誰かを悲しませたりする権利はない。なぜなら、すでに言っているように、もし実際に彼に物が必要で、それが手に入らない時、彼は次のように言わなければならないからだ。「ハリストスは私が望んでいる物を受け取るべきか否か、それが私に必要かどうか私以上にご存知だ。ハリストスは私にとってこの物、この食事の代わりとなって下さるだろう。」イスラエルの子らは四十年間荒野でマンナを食べた。見たところマンナは一様だったが、一人一人にとってマンナは人が必要としている食物となった。塩辛い物が必要な人には塩辛くなり、甘い物が必要な人にとっては、マンナは甘い物となった。一言で言えば、マンナは一人一人にとってその人の要求を満たすものとなったのである。もし卵の必要な人がいても彼は卵を手にせず、逆にただ野菜だけを得ることになったら、自分の考えに言うがよい。「もし私が卵をもらうのが有益なら、神はすぐさま卵を私に送って下さるだろう。それどころか神はこの野菜自体を私のために卵の代わりに益として下さるのだ」と。そして、私が信じているところによれば、このことがこの人にとっては致命の代わりになるだろう。なぜなら真に平安に値する者には、神はこう宣言するからだ。「サラセン人のような異教徒の心にも彼の必要に応じて神は憐れみを行う」と。もしも平安に値せず、平安が彼にとって有益なものでなければ、たとえ彼が新しい天地を創ろうとも平安を見出せない。しかし時として人は自分が必要としている以上の静けさを見出すことがあり、逆に時として必要なものを受け取らないこともある。神は憐れみ深い方なので、人が必要としているものを各人に与える。しかし逆に神は人が必要としている以上のものを送ることもある。このことにより主はその有り余るほどの人間愛を示していて、人に感謝を学ばせている。もし人に必要な物が送られない時は、ご自身の言葉(マトフェイ(マタイ) 四章四節)が、人が必要としていた物の代わりとなり、人に忍耐を学ばせている。ゆえにいかなる場合も我々は上を見上げなければならない。誰かが我々に善を行ってくれる時も、誰かから悪を耐え忍ぶ時も、我々は上を見上げて、私たちに起こった全てのことを神に感謝し、常に自分自身を責め、師父たちが言っているように次のように言わなければならない。「もし何か善いことが我々に起こったら、これは神の摂理の業だ。もし悪いことが起こったら、これは我々の罪のせいだ」と。なぜなら実際に我々が耐え忍ぶことは全て、我々の罪のために耐え忍ぶからである。聖人たちがもし苦しむとしたら、神の御名のために苦しむか、多くの人々にとっての利益のために彼らの善行が現れるためか、神から与えられる彼らの冠と賞が増すためか、である。罰当たりな我々、毎日罪を犯している我々が自分についてこのように言えるだろうか。我々は自分の欲望を満足させつつ、師父によって示された正しい道である自責の道を退き、隣人を非難するという曲がった道を歩んでいる。我々は皆あらゆることにつけ自分の兄弟に罪を帰せようとし、彼に全ての重荷を負わす。皆一つの戒めさえぞんざいにして守っていないくせに、隣人からは戒めの実行を要求するのである。

ある時、私の所に二人の兄弟が来た。彼らは互いに双方のことを悲しませていた。年上の方の者は若い者のことをこう言った。「私が彼に何かをするように命令すると、彼は悲しみます。もし彼が私に対して信頼と愛を抱いていたならば、私の言葉を確信を持って受け止めるのにと思って私も悲しくなるのです。」年少の方の者は言った。「師父よ、お赦し下さい。彼は私に言う時、まったく神への畏れを持たないで権威的に命令するので、それで師父たちが言っているように私の心は信頼を抱けないのです」と。いかに彼らが互いを非難するかに注意を払ってほしい。彼らのうちの一人も自分を非難しないのである。同様に他の二人も互いを悲しませていた。そして互いにお辞儀をしながらも安息を得られなかった。一方は言った。「彼は心から私にお辞儀をしていない。だから私は気が休まらないのだ。なぜなら師父たちもそのように言っていたからだ。」他方は言った。「私が彼に赦しを求める時も、彼は私を愛する用意ができていないので、私は気が休まらないのです」と。皆さん、これがいかにおかしな判断かがわかるだろうか。どのような曲解かおわかりだろうか。神は、私がいかに次のことに驚いているかということをご存知だ。つまり我々の師父の言い回し自体を我々は自分の凶悪なる意志に合うように、かつ我々の霊の滅びに向けて用いる、ということを。彼らのうちの一人一人が罪を自分自身に帰さなければならず、一方は次のように言わなければならなかった。「私が心から兄弟にお辞儀をしないので、神は彼が私に好意を持たないようにされたのだ」と。もう一人は次のように言わなければならなかった。「彼が私に赦しを求める前に、まず先に私が我が兄弟を愛する用意ができていなかったから、神は彼が私に対して好意を持たないようにされたのだ」と。先に上述した二人も同様に行動しなければならなかった。一方は言わねばならなかった。「私は権威主義的に物を言うから、神は我が兄弟が私に信頼を寄せないようにされたのだ」と。もう一方の人はこう思わなければならなかった。「我が兄弟は謙遜と愛をもって私に命令しているのだが、私が不従順で神への畏れを持っていないのだ」と。そして彼らのうちの一人も自責の道を見出すことはなく、反対に罪を隣人に押し付けた。ゆえに我々は進歩しないのだ。ゆえに我々は何事からも利益を得ることがないのだ。逆に常に我々は互いに反発し合って時を過ごし、自分で自分を苦しめるのだ。各人が自己正当化している以上、上述したように各人が自分では何も戒めを守ろうとしないのに、隣人からは戒めの実行を要求するのだ。ゆえに我々は善なる知識に到達することはない。なぜなら何かを学んだだけで、すぐさま同様のことを隣人にも要求して、彼を責めて言うからだ。「彼はこれをしなければならないのに、なぜそうしないのだ」と。なぜ我々は自分自身から戒めの実行をより要求せず、戒めの不実行のことで自分を責めないのだろうか。

「師父よ、あなたがこの道において見出したことの中で主たるものは何ですか」と尋ねられた時、ある長老は「全てのことにつけ自分を責めることだ」と答えた。この長老がいかに振る舞ったか思い出してほしい。このことを質問した人も褒めて、長老に言った。「これ以外の他の道はありません」と。同様に師父ピーメンも言った。「呻(うめ)きをもって全ての善行がこの家に入る。その中でもある一つの善行がなければ人は自分を支えることは難しい。」そして「それはどのような善行ですか」とピーメンに尋ねた時、彼は答えた。「人が全てにおいて自分を責めることである」と。さらに聖アントニイは言った。「人間の偉大なる善行というのは神の顔の前で自分の全ての罪を自分で担い、息を引き取る最後まで誘惑に備えることだ」と。私たちは至る所で発見したのだが、師父たちはこのことを守り、神に全てのことを、最も些細なことをさえ委ねて、平安を得た。この聖なる長老はこのようなものだった。長老が病気の時、兄弟が食事に蜂蜜の代わりに大変有害な亜麻仁油を入れたのである。しかし長老は何も言わず、黙って一口、二口と食べ、彼に奉仕する兄弟を少しも責めず、彼が不注意だったとは決して言わなかった。このことを言わなかっただけでなく、何かの言葉で彼を悲しませることすらなかった。兄弟が自分がしたことを知って、悲しみ始め、「師父よ、私はあなたを殺したのです。そしてあなたは黙ることによって私に罪を負わせました」と言うと、長老は大いなる柔和さをもって彼に答えた。「子よ、悲しまなくてよい。もし私が蜂蜜を食べることが神の御心だったなら、お前は私に蜂蜜を注いだであろう」と。このようにして長老はこのことを神に委託した。修道士よ、神がこのことにどのような関係があるというのだろうか。兄弟は誤った。一方あなたは「もし神の御心だったら」という。神がこのことにどう関与しているというのか。しかし長老は言った。「真にもし私が蜂蜜を食べるのが神の御心だったら、兄弟は私に蜂蜜を注いだであろう」と。このように長老はこれほどの病気にかかっていて、何日も食べ物を食べていなかったが、兄弟を悲しませず、ことを神に任せて安心した。長老が言ったことは的を射ている。長老が蜂蜜を食べることが神の御旨に叶っているなら、神は悪臭を放つ亜麻仁油を、蜂蜜に変えることもできただろう、ということを長老は知っていたのだ。私たちは隣人が怠慢だとか、良心に従って行動していないとか非難しながら、あらゆることにおいて隣人に詰め寄る。一つの言葉を聞いただけで、すぐさま曲解して言う。「もしも彼が私を動揺させたくなかったら、彼はこのことを言わなかっただろうに。」シムイについて預言者ダワィド(ダビデ) がいかに語ったか思い出してほしい。「シムイをそのままにしておけ。そして彼が呪うままにしておけ。なぜなら主が彼にダワィドを呪うように言ったからである。(サムイル(サムエル)記下十六章十節)」殺害者が預言者を呪うようにと主は殺人者に言っているのであろうか。いかに主は彼にこれを言ったのであろうか。しかし預言者は霊的理性を持ち、誘惑、特に悲しみ、窮乏の時期に襲いかかる誘惑ほど霊に神の憐れみをひきつけるものは何もないということを知っていたので、言った。「主が彼に言っているように、ダワィドを呪うままにしておくがよい。何のためだというのか。もしかしたら神は我が謙遜を省み、私に呪いの代わりに善をお戻しになるかもしれない。(同十六章十一、十二節)」と。預言者がいかに理性的に振る舞ったかがおわかりだろうか。ゆえにダワィドは呪いの復讐をしようとしていた者どもを止め、次のように言った。「ツェルヤの子供たちよ、私とあなたにどんな関係があるというのか。主が彼に語ったように、彼が私を呪うままにさせなさい。(同十六章十節)」私たちは、主が預言者ダワィドに言ったように、兄弟に言いたくない。逆にもし悲しませるような言葉を聞いたら、犬のように振る舞う。犬は誰かが石を投げると、石を投げた人を置いて、走って石を噛(か)みに行く。我々もこのように行う。我々の罪の清めのために、我々に不幸が襲いかかることを許される神を差し置いて、隣人に向かって言う。「なぜ彼はこのことを私に言ったのか」と。その時いかに我々は同様「なぜ彼はこのことを私にしたのか。」その時いかに我々は同様の場面から大きな益を得ることができるというのだろうか。我々は反対のことを行い、神の摂理によって全てのことが各人に益をもたらすようにされているということを悟らずに、自分自身を害するのだ。

願わくは主神が諸聖人たちの祈りによって我々に教え諭して下さるように。蓋(けだし) 彼に凡その光栄、尊貴、伏拝は世々に帰す、アミン。