第六教訓 隣人を裁いてはいけないことについて
兄弟よ、もし我々が聖なる長老の言葉を覚えていて、常にその言葉を学んでいたら、我々は自分についてたやすく不注意に陥らないだろう。なぜなら長老たちが言ったように、もし我々が小さなことや、我々にとって些細なことと思われることについて怠慢にならなければ、大きな重い罪に陥らないだろうからだ。私は常にあなた方に言っているが、これらの取るに足らない罪から、また「あれこれのことにどのような重要性があるというのだ」と言っているようなことから、霊(たましい)に悪癖が生まれ、人は大きなことをも怠るようになるからだ。隣人を裁くということが、いかに重い罪か、あなた方はご存知だろうか。これよりも重い罪があるだろうか。これほどまでに神が憎んでいることはあるだろうか。なぜこれほどまでに神が厭われるのだろうか。師父たちが言ったように、人を裁くことよりも悪いものは何もない。しかし一見些細なことにおいて怠慢になることから、人は大いなる悪に染まるようになるのだ。なぜなら人が少しでも隣人を軽蔑することを自分に許し、「もしこの兄弟の言うことを聞いたとしたら、それがどんな重要性を持つというのか。もし私もこのような一言を言うとしたら、それがどんな重要性を持つというのか。もし私がこの兄弟や旅人の行うことを見るとしたら、それがどんな重要性を持つというのだ。」ということから、智は注意深さを怠り、自分の罪を見ないで、隣人の罪に注意を向けるようになる。そしてこのことから後に、我々は隣人を裁き、讒言(ざんげん)し、卑しめるようになり、最終的には自らも自分が裁いているとおりになるのだ。なぜなら人が自分の罪に注意を向けず、聖師父たちが言うように「死者なる自分を嘆かないこと」から、人は一向に善きことには進歩せず、逆に常に隣人の行いに注意を向けるからだ。悪口や裁き、隣人を卑しめることほど神を怒らせ、人を暴露し、神から見捨てられる状態に追い込むことは何もない。
讒言したり非難したりする行いと、裁くことと、卑しめることとは別である。非難することは誰かについて言うことを意味している。つまり、誰それが嘘をついたり、怒ったり、淫欲に陥ったり、何か同様なことをした、と言うのである。このような者は兄弟を讒言(ざんげん)した。つまり執拗に、彼の罪について言った。一方裁くとはつまり、誰それが嘘つきだ、怒りっぽい、淫欲な者だと言うことだ。このような者は彼の霊の状態自体をも裁き、彼の全生活について、彼はああだ、こうだと言って、判決を言い渡し、あのようなものだと人を裁くのである。これは重い罪である。なぜなら「彼は怒った」というのと「彼は怒りっぽい」というのでは異なり、私が上述したように後者の場合このようにして彼の全生活について判決を言い渡すからである。裁きの罪は他のあらゆる罪以上に非常に重い罪であるため、ハリストスは言われた。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。(ルカ六章四十二節)」隣人の罪はおが屑に例えられているが、裁きは丸太に例えられている。これほどあらゆる罪に勝り、裁きの罪は重いものである。
かのファリセイ(ファリサイ)は祈り、自分の善行を神に感謝しつつ、嘘をつかず、真実を言った。しかしこのことのために裁かれたのではない。なぜなら、我々は何か善いことをする栄誉に与った時、神に感謝しなくてはならないからだ。というのは、神はこのことにおいて我々を助け、共に働いて下さったからだ。上述したようにファリセイが裁かれたのは自分の善行を数え上げながら神に感謝したということのためではない。また「他の人のようではなく」と言ったことのために裁かれたのでもない。そうではなくて、彼が税吏に向かって、「この税吏のような者でもなく」と言った時、彼は裁きの罪に陥った。というのは個人を裁き、税吏の霊の状態自体を裁いたからである。端的に言えば、彼は税吏の全生活を裁いたのである。ゆえに税吏はファリセイよりも義とされて出て行った。(ルカ十八章十一節)
私が何度も述べているように、隣人を裁き、軽蔑し、卑しめること以上に悪いことは何もない。なぜ我々はより自分自身を、我々が確実に知っている我々の罪を、そのために神の前で答えなければならない我々の罪をより裁かないのか。なぜ自分を神の裁きの上に置くのか。神の被造物から何を要求しているのか。偉大なかの長老に起こったことを聞いて、我々は震えおののくべきではないのか。この長老はある兄弟が淫欲の罪に陥ったことを知った時、言った。「彼は何と悪いことをしたのか。」もしくはあなた方は聖師父語録にいかに彼について恐ろしい出来事が語られているか知らないのか。聖天使が長老に罪を犯した者の霊(たましい)を持ってきて、長老に言った。「ご覧なさい、あなたが裁いた人は死にました。あなたは彼をどこに置こうと命じますか、天国ですか、苦しみの場所ですか。」この重荷以上に恐ろしいものはあるだろうか。というのも、天使が長老へ言ったのはこういう意味に他ならないからだ。「あなたは義人と罪人の裁判官です。ですからこの謙遜なる霊についても何と命じるか言って下さい。あなたは彼の霊を憐れみますか、それとも苦しみに引き渡しますか。」聖なる長老はこのことに驚愕(きょうがく)し、その残りの全生涯を、呻(うめ)きと涙と多大なる労働のうちに過ごし、神が彼の罪を赦して下さるように祈った。そしてようやく聖なる天使の足下に自分の顔を伏してから、長老は赦しを受けた。なぜなら天使に言われたからである。「このように神はあなたに裁きの罪がいかに重いかを示して下さいました。それはあなたがこれ以上裁きの罪に陥らないためです。」これはすでに彼が赦しを受けたことを意味した。しかし長老の霊は死ぬまでこれ以上慰めを得ようとも、自分の涙を留めようともしなかった。
我々は我々の隣人から何を望んでいるのだろうか。他人の重荷から何を欲するというのか。兄弟よ、我々には慮(おもんぱか)ることがある。各人が自分と自分の罪に気を付けるということである。神お一人だけに、人を義とし、人を裁く権利は属している。神は各人の霊の状態、力、教育、賜物、体格、才能を知っていて、これに応じて神お一人が自分で知っているように各人を裁くのである。なぜなら神が主教の仕事、行政官の仕事、修道院長の仕事、弟子、老人、若者、病人、健康な人を裁く裁き方は異なっているからである。誰がこの裁きの全てを知ることができようか。これができるのは全ての人を創り、万物を創り、全てご存知の神のみである。
覚えているのだが、ある時次のような出来事が起こったと私は聞いた。ある町に捕虜を積んだ船が到着した。一方この町には極めて自分に対して注意深い一人の聖なる処女が住んでいた。彼女はその船が着いたと聞くと、大変喜んだ。というのは幼い少女を買おうと願っていたからである。そして「少女を引き取って、この世の悪癖をまったく知らないように思うままに育てよう」と思った。彼女はその船の持ち主に人を送って、自分のもとへ呼び、彼のもとに二人の少女がいることを知った。彼女たちはまさしく彼女が欲しいと思っていたような少女だった。そしてすぐさま彼女は二人のうちの一人の代金を支払って、少女を自分のもとに引き取った。船の持ち主がこの聖なる女性がいた場所から立ち去り、少し離れた所に来ると、一人の淫婦で完全に堕落した女性が彼と出会った。淫婦は彼と共にいるもう一人の少女を見ると、自分のもとに引き取りたいと思った。彼と契約すると、代金を支払って、少女を引き取り、彼女と共に去って行った。神の奥義がおわかりだろうか。神の裁きがおわかりだろうか。このことを誰が説明できようか。このように聖なる処女は幼子を引き取って、神への畏れの中で教育し、彼女にあらゆる善行を教え諭し、彼女に修道生活を教えた。端的に言えば、聖なる神の戒めのあらゆる芳香の中で育てたのである。淫婦はこの不幸なる者を引き取り、彼女を悪魔の道具とした。というのも、なぜこのような女性が、少女が自分の霊を滅ぼさないようにと少女を教育することができるだろうか。ゆえに我々はこのような恐ろしい運命に何を言うことができようか。二人とも幼かった。二人とも自分がどこに行くのか知らずに売られた。一人は神の御手の中に引き取られ、他方は悪魔の手中に落ちた。神が双方から同様の答えを要求すると思うか。それがいかに可能だというのか。もしも二人とも淫欲か他の罪に陥ったとしたら、二人が同じ罪に陥ったとしても、彼女たちは同様の裁きに処せられるだろうか。これが可能だろうか。一人の少女は神の裁きと神の国について知っていて、日夜、神の言葉を学んだ。他方の不幸な少女は一度も善良なものを見たことも聞いたこともなく、逆に常にあらゆる汚らわしいもの、あらゆる悪魔的なものを見聞きしていた。どうして二人が一つの裁きで裁かれることがあろうか。
ゆえに人は誰も神から与えられる運命を知ることはできない。しかし神お一人が全ての事を知っておられ、神お一人にだけ知られているように各人の罪を裁くことがおできになるのである。実際にある兄弟は単純さゆえに罪を犯しても、その全生涯以上に神に喜ばれる一つの善行を持っていることがある。一方あなたは彼を裁き、自分の霊を苦しめている。仮に彼が躓(つまず)いたとても、あなたは彼がどれほど苦行し、罪に陥る前にどれほど血を流したか知っているだろうか。そして、彼の堕落は神の前での一種の義認であることがわかるだろう。なぜなら神は上述したように、罪に陥る前の彼の努力も悲しみもご存知で、彼を憐れんでいるからである。一方あなたはただこの罪しか知らない。その時神は彼を憐れむが、あなたは彼を裁き、自分の霊を滅ぼしている。彼がこの罪のためにどれほどの涙を神の前に流したかを果たしてあなたは知っているだろうか。あなたは、罪は見たが、彼の痛悔は見なかった。
時として我々は裁くだけでなく、隣人を卑しめる。なぜなら上述したように裁くのと卑しめるのとでは別物だからだ。卑しめるとは人が他人を裁くだけでなく軽蔑することである。つまり隣人を厭い、忌まわしいものから顔を背けるように、隣人から顔を背けるのである。これは裁きよりも悪く、はるかに滅びに近い行為である。救われたい者は隣人の欠点に注意を向けず、逆に常に自分自身の欠点を見、そうして成功するのである。このような者とは、彼の兄弟が罪を犯したのを見て、嘆息して次のように言う者だ。「私は災いだ。今日彼が罪を犯したように、私も明日罪を犯すだろう」と。堅固さがおわかりだろうか。霊の状態がおわかりだろうか。彼がいかに自分の兄弟を裁くことを回避する手段を見出したことか。なぜなら「私も明日は」と言って、彼は自分に、彼もまもなく罪を犯すかもしれないという恐怖心と配慮を植え付け、そのようにして隣人を裁くことを回避したからである。その上このことに満足せずに、彼の足下にひれ伏して言った。「少なくとも彼は自分の罪について痛悔している、一方私は然るべく痛悔していないし、痛悔に至らず、痛悔する力もない。」神聖なる霊の光照がおわかりだろうか。彼は単に隣人への裁きを回避することに成功しただけでなく、自分自身も彼の足下にひれ伏した。罪深い我々と言えば、もし何かを見聞したり、疑ったりすると、おかまいなしに裁き、厭い、卑しめている。さらに悪いことに、我々は自分自身の害に留まるだけでなく、誰か他の兄弟と出会うと、すぐさま彼に「あれこれのことが起こった」と言って、彼の心に罪を入れて、彼をも害するのである。「災いだ、自分の友人に濁った堕落を飲ませる者は(アウワクム(ハバクク)書二章十五節)」と言っている方のことを畏れていず、悪魔的な業を行い、このことについて怠慢になる。というのも悪鬼は困惑させ、害を与えること以外の何をするというのだろうか。一方我々は自分と隣人の滅びに対し悪鬼の助力者となってしまっている。なぜなら、霊を害する者は悪魔と共に働き、悪魔を助けているからだ。一方霊に益をもたらす者は聖なる天使を助けている。我々のうちに愛がないということの他にこのことに陥ることがあるだろうか。なぜならもし我々が愛を持っているのならば、隣人の欠点を遺憾と同情をもって眺めるだろうからだ。次のように言われている通りである。「愛は多くの罪を覆う。(ペトル前四章八節)」「愛は悪を思わない、全てを覆う。(コリンフ前十三章五節)」などである。
ゆえに上述したように、もし我々が愛をもっているとしたら、その愛は聖人が人間の欠点を見た時に行ったように、あらゆる罪を覆うだろう。聖人は目が不自由な人で罪が見えないというのか。聖人ほど罪を憎んでいる人がいるだろうか。しかし彼らは罪を犯している人を憎まず、裁かず、彼から顔を背けず、彼に同情を示し、彼について悲しみ、教え諭し、慰め、病気の一部として彼を癒(いや)し、彼を救うために全てのことをする。漁師は海に釣り竿を下ろして、大きな魚を捕まえた時、魚がもがき、のた打ち回るのを感じたら、すぐさま魚を引き寄せない。なぜなら、そうしなければ網が破れてしまい、漁師たちは完全に魚を逃がしてしまうからだ。逆に網を自由に伸ばし、魚を好きなように泳がせて少し弱らせる。魚が疲れて、のた打ち回るのをやめると、その時少しずつ網を引き寄せる。同様に聖人たちも大いなる忍耐と愛をもって兄弟を引き寄せ、兄弟を退けたり、厭ったりしない。できの悪い息子を持った母親のように、兄弟を厭ったり退けたりせず、愛をもって彼を飾り、すること全てを彼の慰めのために行う。このように聖人たちは常に、罪を犯した人が時と共に改まるように彼を覆い、飾り、助ける。そして他の誰も彼から害を受けず、彼自身ハリストスの愛に進歩するのである。
ある時兄弟たちが困惑して聖アンモンの所に来た。兄弟たちは聖人に「師父よ、来て、見て下さい、誰それの兄弟の部屋に女の人がいます」と言った。この時、聖人は何と言ったであろうか。かの聖なる霊はどのような憐れみを示し、どのような愛を持っていたであろうか。兄弟が女性を木の桶の中に隠しているのを見て取った聖人は、桶の上に座って兄弟たちに部屋中を探すことを命じた。兄弟たちが何も見つけられなかった時、聖人は彼らに言った。「願わくは神は爾(なんじ)らを赦さん」と。そしてこのようにして聖人は彼らを辱め、彼らを堅固にし、簡単に隣人への中傷を信じてはいけないことを教え、兄弟たちに大いなる利益をもたらしたのである。一方かの兄弟を更生し、単に神において彼を覆っただけでなく、時宜に適った時に彼を諭した。というのは他の兄弟たち全てを外に出してから、かの兄弟の手を取り、言ったのである。「兄弟よ、自分の霊のことを慮りなさい」と。兄弟はすぐさま恥じ入り、感じ入った。すぐさま彼の霊に長老の人間愛と同情が作用したのである。
ゆえに我々も愛を獲得し、隣人への寛容を獲得しよう。それは自分を滅びに導く悪口や裁きや卑しめから守るためである。そして自分自身の肢体だと思って、互いに助け合おう。手や足や他のどこかの肢体に傷を持っている者で、自分を厭い、たとえ膿(うみ)が出たとしても自分の肢体を切り離す者がいるだろうか。すぐさま傷を消毒し、洗い、軟膏を塗り、包帯を巻き、聖水をふりかけ、祈り、師父ゾシマが言っているように、聖人たちに彼への祈りを恃むのではないか。一言で言えば、誰も自分の肢体をぞんざいに捨て置かず、たとえ悪臭を放っていたとしても、それから顔を背けない。逆にそれを治すためにできるだけのことをする。このように我々も互いに同情し合い、自分でも、他の強い人の力を借りてでも、互いに助け合わなければならない。そして自分とお互いを助けるために全てを慮り、行わなければならない。なぜなら我々は互いに肢体だからである。使徒が言っているがごとしである。「私たちは皆一つの体であり、各自は互いに部分なのです。(ロマ十二章五節)」「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、(コリンフ前十二章二十六節)」あなたは共同生活を何だと感じるだろう。彼らは一つの体ではないか。共同生活を営んでいる全ての人は互いに部分ではないか。運営する人々、教導する人々は頭である。監視する人々、更正する人々は目である。言葉を用いる人々は口である。聞く人々は耳である。行う人々は手である。足は使わされる人々、務めを行う人々である。あなたは頭か。教導しなさい。目か。監視し、見張りなさい。口か。話し、用いなさい。耳か。聞きなさい。手か。行いなさい。足か。勤めなさい。願わくは各人がその力に応じて体に奉仕するように。そして絶えず互いに助け合うようにしなさい。あるいは兄弟の心に神の言葉を入れながら教えることによって、あるいは悲しみの時に慰めることによって、あるいは務めの行いに助けを与えることによって。一言で言えば、上述したようにあなた方は各人がその力に応じて互いの一致を心がけるように、ということである。なぜなら隣人と結びつけばつくほど、彼も神とより結びつくからである。
あなたが言われていることの力をよりはっきりと理解できるように、師父から伝わっている比喩を紹介しよう。地に書かれた円を想像しなさい。円の真ん中は中心と呼ばれていて、中心から円周に向けて引かれている直線は半径と呼ばれている。ここで私が言うことに注意を向けてほしい。この円を世界、一方、円の中心は神、半径つまり円周から中心に向けて引かれている直線は人間生活の道の本質であると想像しなさい。ゆえに聖人が神に近づこうとして円の中心に入るほど、入る度合いに応じて、神にも、互いにも近づく。神に近づけば近づくほど互いにも近づき、互いに近づけば近づくほど神にも近づく。このようにして中心から離れていくことも悟りなさい。神から離れ、外に帰る時、中心から彼らが離れる度合いに応じて神から離れ、同様に互いからも離れる。互いに離れれば、離れるほど、神からも離れる。これが愛の性質である。我々が外にいて神を愛さなければ、それだけ各人は隣人からも離れている。もし神を愛すれば、神への愛で神に近づくだけ隣人とも愛で一致する。隣人と一致すればするほど神とも一致するのである。願わくは主神が我々に有益なことを聞くことを給い、それを実行させて下さるように。というのは聞いたことを実行することについて努力し、配慮する度合いに応じて、神は常に我々を照らされ、ご自分の意志を教えられるからである。彼に光栄と権柄は世々に帰す。アミン。








