第五教訓 自分の理性に頼ってはいけないことについて

叡智なるソロモンは箴言の中で次のように言っている。「指導がなければ、葉のように枯れ落ちる。救いには多くの助言が必要である。(箴言十一章十四節)」兄弟たちよ、この叙述の力がおわかりだろうか。聖書が何を我々に教えているかがおわかりだろうか。聖書は我々に自分自身を頼りにせず、自分を理性的な者と思わず、自分自身で自分をコントロールすることができると信じないように教え諭している。なぜなら我々は助けを必要としており、神において我々を教導する者を必要としているからである。神の道において教導師を持たない人々ほど不幸で滅びに近い者はいない。「指導がなければ、葉のように枯れ落ちる」と言われていることは何を意味しているのであろうか。葉というのは、最初は常に青々としていて、はつらつとしていて美しい。しかしその後次第に枯れて落ち、最後には疎んじられて踏みにじられる。このように誰によっても指導されない人も、最初は斎や警醒や沈黙や従順や他の善行において熱心であっても、その後この熱心さが次第に覚めて来ると、彼には彼を指導して、支え、この熱心さに火をつける人が誰もいないので、葉のように感覚的にではなく干からび、倒れ、最後には敵の支配下、敵の僕(しもべ)となり、敵のなすがままになってしまうのである。

自分の思い、行動を告白して、全てを助言と共に行う人について、聖書はこう言っている「救いには多くの助言が必要である」と。一人一人の人に助言をもらうように「多くの人々の助言」とは言っていない。逆に確かに信頼を寄せている人に全てにおいて助言をもらわなければならないと言っているのである。そしてあることは語り、他のことは黙っているのではなく、全てを告白して全てにおいて助言をもらうようにしなければならない。これが多くの助言をもらうことについての信頼できる救いである。なぜならもし人が彼に関する全てを告白しなければ、特に彼が悪い習慣に捕らわれている場合、または彼が悪い集団の中にいる場合、悪魔は彼の中に一つの何かの願望、もしくは自己正当化を見つけ、このことによって彼を失墜させるからである。

悪魔は、罪を犯したくない人を見る時、彼に何か明らかな罪を吹き込むほど、彼が悪の業において長(た)けていないため、彼に「淫欲を行いに行きなさい」とか「盗みに行きなさい」とかは言わない。なぜなら悪魔は、我々がこれらの行いをしたくないということを、知っているからだ。悪魔は、我々がしたくないことを、我々にそそのかす必要はないと思っている。逆に上述したように、我々のうちに願望や自己正当化を見出し、そのことにより善良なふりをして我々を害するのである。ゆえに再び言われている。「凶悪なる者は正しい者と結びつく時に悪を行う。(箴言)」と。凶悪なる者とは悪魔のことである。そして悪魔は正しい者と結合する時に悪を行う。つまり我々の自己正当化と結合する時に、である。その時悪魔はより強きものとなり、その時より多くの害を与え、より多くの悪行をなすのである。なぜなら我々が自分の意志を持っていて、我々を正当化する時、その時、我々は一見善行を行いながら自分自身に網を張り、どのように滅びるかということすら知らないからだ。なぜなら、もし我々が自分自身を信じていて、自分の意志を持っているのなら、いかにして我々は神の意志を悟り、それを探すことができるだろうか。ゆえに師父ピーメンは次にように語った。我々の意志は人と神との間にある青銅の壁である、と。この叙述の力がおわかりだろうか。さらに彼は付け加えている。我々の意志はあたかも、神の意志に反し、神の意志と反対のことを行う石のようである、と。ゆえにもし人が自分の意志を捨てる時、その時彼は言うことができる。「我が神と偕に城垣(じょうえん)に升(のぼ)る。嗚呼(ああ)神よ、其道は玷(きず)なし。(第十七聖詠三十、三十一節)」このように言われているのは極めて尊敬に値することだ。なぜなら、人が自分の意志を棄てる時、その時やっと人間は神の玷なき道を見るからだ。自分の意志に服従している時は、神の玷なき道を見ることはない。しかしもし何か教訓に関することを聞いた時、彼はすぐさまそれを非難し、卑しめ、それから顔を背け、反対のことをするのである。なぜなら、もし彼が自分の意志を保持しているのなら、いかに彼は何かを耐え忍び、何かの助言に聴き従うというのだろう。さらに長老は自己正当化について言っている。「もし自己正当化が意志を助けるのなら、人は完全に堕落する。」いかに聖師父たちの言葉が一貫しているかは驚くべきことだ。真に、正当化が意志と結びついた時、この時は完全な死であり、大いなる危険であり、大いなる恐怖である。その時不幸な者は最終的に倒れる。なぜなら誰がこのような者に、彼自身に必要なことを他の人が彼自身以上に知っているということを、信じさせることができようか。その時、彼は完全に自分の意志、自分の考えに委ねるようになり、最終的に敵は望むままに彼を堕落させる。ゆえに言われている。「凶悪なる者は正しい者と結びつく時に悪を行い、教訓の声を憎む」と。なぜなら凶悪なる者は教訓自体を嫌うだけでなく、教訓に奉事する何かが話されている時、教訓を発する声をも聞くことができず、憎みさえするからである。有益なことを質問する人がその助言に従って行い始める前に、かつ聞いたことを実行するか否か敵が悟る前に、敵は有益なことを誰かに質問したり、聞いたりすること自体をすでに憎んでいる。敵はこのような言葉を発する声、音自体も憎み、嫌悪感を抱いている。なぜだというのか。有益なことを尋ねたり、行ったりするや否や、すぐさま彼の悪行が明るみに出るということを、敵は知っているからだ。〔教導師に〕知らされること以上に敵が憎み恐れることはない。というのも、その時敵は欲するがごとくに、狡猾に振る舞うことができないからだ。なぜなら、質問し、自分についての全てを打ち明け、「これはしろ、これはするな」「これはよろしい、これはよろしくない」「これは自己正当化だ、これは我がままだ」と経験者から聞き、同様に「今はこれをする時だ」と聞き、また別の機会に「今がその時だ」ということを聞くことによって霊(たましい)が固められるのなら、その時、悪魔はどのような方法で人間を害するか、またいかにして人間を失墜させるかを見出せない。というのも、上述したように彼はいつも相談して助言をもらい、全ての面から自分を守るからである。このようにして「救いには多くの助言が必要だ」という言葉が彼のうちに実現する。凶悪なる者はこのことを望んでおらず、憎んでいる。なぜなら、悪魔は悪を行うことを望み、指導者がいない人のことを何よりも喜んでいるからだ。なぜであろうか。なぜなら彼らは葉のように枯れ落ちるからである。凶悪なる者が愛し、彼(悪魔)が師父マカリイに語ったある兄弟のことを思い出してほしい。「私の所には、私を見るとリールのように踊りまわる一人の兄弟がいる」と。凶悪なる者はそのように教導師なしに生活し、彼らを助け、神において彼らを指導することができる人に自分を委ねない者を愛し、常にそのような者を喜ぶのである。聖人はかぼちゃの入れ物にのせたさまざまな食事を運んでいる悪魔の異象を見たが、果たしてその時悪魔は全ての兄弟たちに近づいただろうか*1。果たして悪魔は全ての人々を訪問したのであろうか。彼らは各人、悪魔の罠を理解して、自分の霊的指導司祭の所に生き、自分の考えを打ち明けた。そして誘惑の時に助けを得た。それで、凶悪なる者は彼らを打ち負かすことができなかった。その時凶悪なる者は、一人の不幸なる者を見つけた。彼は自分自身に従い、誰からも助けをもらっていなかった。ゆえに凶悪なる者はおもちゃと遊ぶように彼に対応し、出て行って彼に感謝し、他の者を呪った。敵が師父マカリイにこのこととその兄弟の名前を告げると、彼の滅びの原因が、彼が自分の思いを告白しなかったことにあるということがわかった。つまり、この兄弟は自分の思いについて誰かに告白するという習慣がなかったのである。ゆえに敵は意のままに彼を操った。そして聖なる長老に「兄弟よ、調子はどうかね」と質問された兄弟は、次のように答えた。「あなたのお祈りのおかげで順調です。」そして再び聖人が「いろいろな考えが襲ってこないかね」と質問した時、「今のところ、順調です」と答えた。聖人が巧妙に彼の考えを告白させるまで、彼は何も告白したくなかった。その後聖人は神の言葉を彼に伝え、彼を堅固にして帰った。

いつものように、敵は再び来て、この兄弟を堕落させようとした。しかし辱められてしまった。なぜなら彼は、堅固で改まっていたからだ。すでにこれ以上彼を嘲笑することができなかったので、何も成功せずに離れて行った。この兄弟によっても辱められた凶悪者は去って行った。ゆえに聖人が再び悪魔に「あなたの友であるこの兄弟はどのように過ごしているかね」と尋ねた時、悪魔はすでに彼を友とは呼ばず、敵と呼んで、彼を呪って言った。「彼は堕落した。彼は私に従わないどころか、全ての人に勝って凶暴になった。」なぜ敵が人を堅固にする言葉を憎むかがおわかりだろうか。なぜなら敵は常に我らの滅びを望んでいるからだ。なぜ敵が自分を恃みとする者を愛するかがおわかりだろうか。なぜなら彼らは悪魔を助けており、自分自身に罠を仕掛けるからだ。自分の心を信頼する以上に修道士が堕落する方法を私は知らない。ある人々は言う。あれこれの理由で人は堕落した、と。一方私が上述したように、人が自分自身に従っていること以外の他の方法で、人が堕落することはない。あなたは堕落した人を見たか。彼は自分自身に従ったと知りなさい。これより危険で滅びにつながるものはない。神は私を守って下さり、私は常にこの不幸を恐れていた。私が修道院にいた時、私は全ての自分の考えを長老の師父イオアンに打ち明けた。そして上述したように、決して彼の助言なしに、何かを行う決心をしなかった。時として考えは私に「長老は同じことをあなたに言うのではないか。なぜ彼を煩わすのか。」と言ったが、私は考えに答えた。「お前とお前の判断、お前の理性、お前の驕(おご)り、お前の知識はアナフェマだ。なぜならお前が知っていることは、悪魔から知らされていることだからだ。」そして私は行って長老に尋ねた。すると、時として長老は私の脳裏にあったことを答えた。その時考えは私に言った。「ほらご覧、これは私がお前に言ったことではないか。お前はいたずらに長老を煩わせたのではないか。」しかし私は考えに対して答えた。「今これは良きものとなった。今は聖神から来たものだからだ。お前の示唆は凶悪なるもので、悪魔からのものだ。欲望に満ちた霊の状態の業だった。」このように私は長老に質問することなしに決して自分の考えに服従することを自分に許さなかった。そして兄弟よ、信じてくれ、私は大いなる安息、完全に思い煩いがない状態にいたので、以前私が話したように、これについて悲しみさえした。なぜなら「我々は多くの悲しみを通して天国に入らなければならない。(聖使徒行實(使徒言行録)十四章二十二節)」と書いてあるからだ。そして私に何の悲しみもないのを見て、この静けさの理由がわからずに、長老がこれを私に説明してくれるまで、私は大いに当惑した。長老は言った。「悲しまなくてよいのです。師父への従順に自分を委ねている人は誰でも、この平安と悲しみのない状態を保つのです」と。

兄弟よ、あなたも自分を頼りとせず、質問するようにしなさい。この行いの中で悲しみがないとはどんなものか、どのような喜び、どのような静けさがあるか知りなさい。しかし、私には決して悲しみがなかった、と言ったので、その時に私に起こったことについて聞いてほしい。

私がまだその修道院にいた時、私に一度大いなる堪え難い悲しみが襲った。そして私はたいそう苦しみ、圧迫されていたので、自分の命をも差し出す覚悟でいた。この悲しみは悪魔の狡猾さから来ていた。妬みのために悪魔からもたらされたこのような誘惑は人間にとっては辛いものだが、一時のものである。それは暗闇に満ちた、重苦しい、慰めのないものである。どこからも安息が訪れず、四方から圧迫され、四方から迫害された。しかし、まもなく霊に神の恩寵(おんちょう)が訪れた。なぜなら、神の恩寵が訪れなければ、誰も決してこれを耐え忍ぶことはできないからである。そして私は上述したようにこのような誘惑と圧迫の中にいた。ある日私はへとへとに疲れきって、これについて神に祈りながら修道院の外庭に立っていた。すると突然私は教会の内部に目を止め、中に一見主教のようなある男性を見かけた。主教はご聖体を捧げ持って至聖所に入って行った。私は決して必要もなしに、また命令も受けずに、見知らぬ、やって来た男性に近づいたことはなかった。しかし、その時あたかも何かが私を引き付けたがごとく、私は彼の後をついて行った。至聖所に入ると、彼は長い間手を上に挙げた姿勢で立っていて、私は畏れをもって祈りながら、彼の後ろに立っていた。なぜなら彼の外見から私に畏れと恐怖が襲ったからである。祈りが終わると彼は私の方を向き、私の所に来た。彼が私に近づくにつれて悲しみと恐怖が私から遠のくのを感じた。その後、彼は私の前に立ち、自分の手を伸ばして、私の胸に触れ、胸を自分の指で叩(たた)きながら、言った。「我切に主を恃みしに、彼我に傾きて、我が籲(よ)ぶ声を耹(き)き納(い)れ給へり。我を畏るべき阱(おとしあな)より、泥(ひぢりこ)の澤(さは)より出して、我が足を磐(いは)の上に立て、我が歩を固めたり、我が口に新たなる歌を納れて、我等の神を讃美せしめ給へり。(第三十九聖詠二~四節)」全てこれらの句を彼は三回ずつ唱え、上述したように、私の胸を叩き、そして出て行った。この後すぐに私の心には甘美たる光、喜び、慰め、そして大いなる楽しみが宿った。私は立っていたが、すでに以前のようにではなかった。彼が出て行った時、私は彼を見つけようと、急いで後を追ったが、彼は見つからなかった。というのは、彼は見えなくなってしまったからである。この時から神の憐れみにより、悲しみや恐れが私を悩ますと感じたことはもはやなかった。逆に主が私をかの聖なる長老の祈りのために、今までずっと守って下さった。兄弟よ、これを私があなた方に言うのは、自分自身に従わない者が、どのような静けさと思い煩いのない状態を保つか、自分を恃みとせず、自分の考えを信じず、逆に関わること全てにおいて、神と神において彼を教え諭すことができる人々に恃みを置いた人が、どのような安全さとどのような堅固さをもって生きているかを、あなた方が知るためである。ゆえに兄弟よ、あなた方も質問することを学びなさい。自分自身に恃みを置かず、あなたの考えがあなたに語ることを信じないことを学びなさい。謙遜とは善いものである。ここに安息と喜びがある。なぜ無為に自分を嘆くのか。この方法に依らずして救われることはないのだ。

しかし他の者は思うかもしれない。もし質問する人がいなければ、その時人はどうすべきか、と。実際、もし誰かが真実に、心から神の御旨を行おうとするのならば、神は決して彼を置き去りにはせず、ご自分のご意志によってありとあらゆる方法で彼を教え導かれる。真に自分の心を神の戒めに沿って向ける人がいれば、神は己の御旨を彼に告げるために幼い子供をも光照されるだろう。もし神の御旨を誠実に行いたくない人がいれば、たとえ彼は預言者の所へ行っても、彼の堕落した心に応じて、神は預言者の心に彼に答えるべきことを託されるだろう。聖書に書いてある通りである。「もし預言者が惑わされて言葉を語ることがあるなら、主なるわたし自身がその預言者を惑わしたのである。(イエゼキイリ(エゼキエル)書十四章九節)」ゆえに、我々は全力をもって、己を神の意志に向かわせなくてはならず、自分の心を信じてはいけない。しかし、もし善いことで、私たちが誰か聖なる人からそれは本当に善いことだと聞くことになった場合、我々はそれを善きものとして認めなければならない。しかしそれを素晴らしく成し遂げているとか、それがすぐさま素晴らしく成し遂げられなければならない、と自分自身を信じてはならない。逆に我々は、自分の力に応じてそれを行わなければならず、いかに我々がそれを行ったかを、再び言わなければならない。そして我々がそれを良く成し遂げたかどうかを知らなくてはならない。その後も配慮を怠ってはならない。逆に神の裁きを待ちなさい。聖なる師父アガフォンに問うた時、彼が次のように言っている通りに。「師父よ、あなたでも恐れるのですか。」彼は答えた。「私は自分の力の及ぶ限り神の御旨を行った。しかし私の業が神に喜ばれているか私は知らない。なぜなら神の裁きと人の裁きは異なるからだ。」願わくは主神が、自分自身を恃みとする人々を襲う不幸から我々を覆って下さるように。願わくは神の御名に叶う我らの師父の道を守って下さるように。蓋、彼に凡その光栄、尊貴、伏拝は世々に帰す、アミン。

 

*1 悪魔は見えずして兄弟たちに悪い考えを吹き込んでいる