第四教訓 神への畏れについて

聖イオアン(ヨハネ) はその手紙の中で言っている。「完全な愛は恐れを締め出します。(第一イオアン 四章十八節)」このことを通して聖なる使徒は我々に何を言いたいのであろうか。彼は我々にどのような愛について、どのような恐れについて言っているのであろうか。なぜなら預言者ダワィド(ダビデ)は聖詠(詩編)の中でこう言っているからだ。「凡そ主の聖人よ、主を畏れよ、(第三十三聖詠十節)」そしてその他同様の多くの叙述を聖書の中に見出す。ゆえに、もしあれほどまでに主を愛した聖人たちが主を畏れているのなら、どうして聖イオアンは「完全な愛は恐れを締め出す」と言っているのであろうか。聖人はこのことによって我々に二つの畏れがあることを示したいのだ。一つは最初の畏れ、二つ目は完全な畏れである。一つは言うなれば、敬虔になり始めた人に特有の畏れ、もう一つは完全な愛にまで到達した完全なる聖人たちの畏れである。たとえば、苦しみへの恐れから神の御旨(みむね)を実行する者は、上述したように初心者である。なぜなら彼は善を善そのもののためにやるのではなく、罰への恐れから行うからである。他の者は神の御旨を、神を喜ばせようという目的で、神を愛する神への愛から行う。この人は本質的な善が何であるかを知っていて、神と共にいるということが何を意味するかを知ったのである。この人は聖人が「完全な」と名付けている真の愛を持っている。そしてこの愛は彼を完全な畏れに至らしめる。というのは、このような者が神を畏れ、神の御旨を実行するのは、すでに罰への恐れからや苦しみを避けるためではないからだ。逆に彼は上述したように、神と共にいる甘美さそのものを味わって、そこから落ちること、それを失うことを恐れているのだ。この愛から生じる完全なる畏れは最初の畏れを追い払う。こういうわけで使徒は「完全な愛は恐れを締め出す」と言っているのだ。

しかし完全なる畏れに到達することが可能なのは最初の畏れによってのみである。なぜなら聖大ワシリイが言っているように、我々が神を喜ばせることができる方法は三つあるからである。苦しみを恐れることによって。この時我々は奴隷の状態にいる。または報いを求めることによって。この時は自分自身の利益のために神の命令を行う。ゆえに我々は雇い人に例えられる。もしくは善自体のために善を行うことによって。この時我々は息子の状態にいる。なぜなら息子は理性において成人に達すると、罰を恐れるためではなく、父親から報いを得るためではなく、父親に対して特別の愛を持っていて、父を尊敬しているがため、父を愛して、父の財産は全て彼に属するものだということを確信しているがために、自分の父の意志を実行するからである。このような者は次の言葉を聞くことになる。「ですからあなたはもはや奴隷ではなく、子で、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)による神の相続人でもあるのです。(ガラティヤ四章七節)」もちろんこのような者は上述したように、すでに最初の畏れによって神を恐れるということはなく、聖アントニイが「私はすでに神を恐れないで神を愛する」と言ったように神を愛するのである。そして主は、アウラアム(アブラハム)が神への犠牲として自分の子供〔イサアク〕を連れてきた時に彼に言った。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。(創世記二十二章十二節)」と。これは愛から生まれる完全な畏れを意味している。なぜなら神は、アウラアムがすでにこれほど多くの従順を神に対して行った時、つまり全て自分の物を捨てて、敬神の痕跡もない偶像に仕えていた民のいる他の地に赴き、さらに自分の息子を神への犠牲にするという恐ろしい誘惑を課した時に「今、分かったからだ。」と言っているかのようだからである。そしてこの後神はアウラアムに、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」と言ったのである。神がここで、すでに苦しみへの畏れからや賞賛を受けるために神の意志を実行するのではなく、何度も言及しているように、彼らが神を愛しながら、愛する神の意志に何らかの形で背くことを恐れる聖人に固有な完全な畏れのことを言っているのは明らかである。ゆえに使徒〔イオアン〕は「愛は恐れを締め出す」と、言っているのだ。なぜなら彼らはすでに恐れから行動しているのではなく、愛しているがゆえに畏れているからである。ここに完全なる畏れがある。しかしすでに上述したように、もし人が先に最初の畏れを獲得していないのであれば、完全なる畏れに到達することはできない。なぜなら「智慧の初めは主への畏れである。(箴言一章七節)」と、言われているからである。そしてさらに「神への畏れは初めであり、終わりである。(シラフの子イイススの知恵書一章十四節、十八節)」と、言われている。最初の畏れは初めと呼ばれていて、その後に聖人たちの完全な畏れが来る。最初の畏れは我々の霊(たましい)の状態に固有のものである。それは、つや出しが銅を守るように、霊をあらゆる悪から守る。なぜなら「主への畏れによってあらゆる悪から免れる。(箴言)」と、言われているからである。ゆえに主を畏れる奴隷のように罰への恐怖から悪から遠ざかる者は、次第に善なることを自由意志で行うようになってくる。そして少しずつ雇い人のように自分の善なる行いにある種の報酬を期待するようになってくる。もし彼が、上述したように奴隷のように恐怖から絶えず悪を避け、雇い人のように報いへの期待から善を行うようになれば、神の恩寵によって善に留まり、その度合いに応じて神と一体になりつつ、彼は善の味わいを享受するようになり、何が真の善であるかを理解し始め、すでに善と離れたくなくなる。なぜなら使徒が言っているように(ロマ(ローマ)八章三十五節)、誰がそのような者をハリストスの愛から引き離すことができようか。その時彼は息子の位に到達し、善自体のために善を愛し、愛しているがゆえに畏れるのである。これは偉大なる完全なる畏れである。ゆえに預言者は我々に、一方の畏れと他の畏れを区別することを教えている。「小子よ、来りて我に聴け、主を畏るる畏(おそれ)を爾等(なんじら)に訓(おし)へん。人生くるを望み、又壽(ながら)へて幸福を見んことを欲するか、(第三十三聖詠十二、十三節)」いかにその各々の言葉が力を持っているか、預言者の一つ一つの言葉に注意を向けてほしい。最初に彼は「私の所に来なさい」と言って、我々を善行へと向けている。その後「子よ」と付け加えている。聖人たちが「子」と名付けているのは、聖人たちの言葉によって罪から善行に向き直った人々のことである。使徒が言っている通りである。「わたしの子供たち、ハリストスがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(ガラティヤ四章十九節)」その後我々を呼び、このような向き直りに準備させて、預言者は「主を畏るる畏を爾等に訓へん」と言っているのである。

聖人たちの勇みがおわかりだろうか。我々は、何か善なることが言いたい時、常に「私たちは神への畏れや何か他の善行についてあなたたちとお話ししようと思うのですが、いかがですか」と言う。聖なる預言者はそうではなく、勇みをもって言っている。「小子よ、来りて我に聴け、主を畏るる畏を爾等に訓へん。人生くるを望み、又壽へて幸福を見んことを欲するか、」その後あたかも次のような何かの答えを聞いたかのようである。「私は望みます。いかに善なる日々を生き、見ることができるか私に教えて下さい」と。そして預言者は教え諭して「爾の舌を悪より、爾の口を譌(いつわり)の言(ことば)より止(とど)めよ。(第三十三聖詠十四節)」と言っている。ゆえに預言者はまず神への畏れによって悪の仕業を絶っているのである。

自分の舌を悪から止めるとは次のことを意味している。つまり何らかの形で隣人の良心を傷つけたり、悪口を吐いたり、苛立(いらだ)たせたりしないことである。一方自分の口によって「偽りの言葉」を言わないというのは隣人を欺かないことを意味している。その後預言者は「悪を避けて」と付け加えている。最初に彼はある種の個人的な罪について言った。つまり悪言、欺瞞。その後一般にあらゆる悪について言っている。「悪を避けて」つまり一般にあらゆる悪、罪に導くあらゆる行いを避けることである。再びこのことを言って、預言者はこのことに留まり、さらに「善を行い」と付け加えている。なぜなら悪は行わないが、善も行わないということもあるからである。また同様に侮辱はしないが、憐れみも施さないということもある。またある者は憎まないが愛さない。このように「悪を避けて善を行え」と預言者が言っていることは的を射ている。このように預言者は我々が上述した、三つの霊の状態の緩やかな移行を我々に示している。神への畏れによって、人は悪を避けることを学ぶ。そしてその時はすでに善なることを始めることを命令されている。なぜなら人が悪から解放され、悪から遠ざかる時に、人は聖人に教え導かれて自然に善なることを行うからである。このことを言うのはあまりにも素晴らしいので、首尾一貫して人は「和平を尋ねて之に従へ。(第三十三聖詠十五節)」の教訓を続ける。ただ「尋ねて」とだけ言わず、これに到達するために熱心に努力するのである。注意深くあなたの智でこの叙述を検証し、聖人たちがいかに正確にこれを守ったかに注目してほしい。誰かが悪から遠ざかり、その後神の助けによって善なることを行うように努力すると、すぐに彼に対して敵の戦いが始まる。そして彼は苦行しながら、労し、心を砕き、奴隷について上述したように悪の状態に再び戻ることを恐れ、逆に言及したように、雇い人のように善なることに対する賞を期待するのである。このように敵からの誘惑を耐え忍び、それと戦い、それに反抗しながらも、人は大いなる悲しみと偉大なる努力によって善なることを行う。しかし人が神の助けを得て、善に対するある種の習慣を獲得すると、その時彼は安息を知り、平安を味わい、戦いの悲しみが何を意味しているのか、喜びと平安の楽しみが何を意味しているのかを感じる。そしてその後、彼はすでに平安を求め、平安に到達し、完全に平安を自分のうちに獲得し、それが宿るように熱心にそれに向けて努力するのである。

この霊的成長レベルまで到達する栄誉を得た福たる霊とはどのようなものだろうか。このような者は何度も言及しているように、息子の位にあるのである。なぜなら真に「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(マトフエイ五章九節)」からである。誰が善自体の楽しみの他に何か他のことのために霊に善を行うように強いることができるだろうか。この喜びを経験した人以外の誰がこの喜びを知ることができるだろうか。その時、このような者は何度か上述したように、完全な畏れをも知るようになる。こうして我々は今、聖人たちの完全な畏れとは何か、我々の霊の状態に固有の最初の畏れとは何か、神への畏れによって我々が何から始まり、何に到達するかを聞いた。今我々はどのように我々のうちに神への畏れが宿るか知りたいと願い、何が我々を神への畏れから離すかを言いたいと思う。

師父たちはもし死の記憶と〔来世の〕苦しみの記憶を持ち、人が毎晩どのように一日を過ごしたか、毎朝どのように夜を過ごしたかについて自分を検証し、人間関係において勇みがなく、最後に神を畏れる人との近しい交わりがあるというのなら、人は神の畏れを獲得する、と言っている。なぜならこう言われているからだ。ある一人の兄弟がある長老に尋ねた。「父よ、神を畏れるために私は何をしなければなりませんか。」長老は彼に答えた。「行って、神を畏れる人と共に生活しなさい。彼が神を畏れているということ自体によって彼はあなたにも神への畏れを教えるだろう」と。神への畏れを己から追い払うのは、これと反対のことをすることによって、死の記憶も苦しみの記憶も持たないことによって、である。つまり自分自身に注意を払わず、いかに時を過ごしているか自分を検証しないことによってである。逆に怠慢に生き、神を畏れない人々と共に生活し、勇みから身を守らないことによってである。つまり後者は全てに劣る。これは完全なる滅亡である。なぜなら厚かましさほど神への畏れを霊から追い出すものはないからだ。ゆえに師父アガフォンに厚かましさについて質問した時、彼は答えた。「それは強い熱風に似ている。熱風が吹くと、皆逃げる、そして熱風は木のあらゆる実を損なう」と。兄弟よ、この欲望の力がおわかりだろうか。この欲望の凶暴さがおわかりだろうか。そして再び「厚かましさというのはそれほどに有害なのですか」と質問した時、師父アガフォンは答えた。「厚かましさよりも害ある欲望はない。なぜならそれは全ての欲望の母だからだ」と。

師父が厚かましさは全ての欲望の母だと言ったのは、非常に的を射た賢い回答だ。というのは、厚かましさは神への畏れを霊から追い払うからだ。なぜなら、「神への畏れによって全ての人は悪からそれる。(箴言)」というのなら、もちろん神への畏れがない所には、ありとあらゆる欲望があるからだ。願わくは神は我らの霊を破壊的欲望である「厚かましさ」から免れしめんことを。

厚かましさにもいろいろある。言葉においても、触覚においても、視線によっても厚かましくあることができる。厚かましさからある者は無駄話に陥り、この世的なことを語って、滑稽なことをし、他の人々をも無作法な笑いに誘う。人が必要もなしに他人に触る時も、誰か笑っている人に手を挙げる時も、誰かを押す時も、人の手から何かを取る時も、破廉恥に誰かを見る時も、厚かましいのである。つまり全てこれらを行うのは厚かましさで、これらは全て、霊(たましい)に神への畏れがないことから生じ、ここから人は次第に完全な怠慢に移行するのである。ゆえに、神が律法の戒めを与えた時、神は「イズライリ(イスラエル) の息子たちよ、敬虔を行いなさい。(レビ記十五章三十一節)」と、言われた。なぜなら敬虔と恥じらいなしには人は神ご自身を敬うことも、一つの戒めも守ることもないからである。厚かましさよりも害あるものはない。こういうわけで、厚かましさは「全ての欲望の母」で、敬虔と神への畏れを追い出し、軽視を生む。我々が互いに厚かましく、片方が他方に対して敬虔の気持ちがないことから、我々は互いを非難し、辱める。あなたのうちの誰かが有益でないことを見て、彼は立ち去り、このことを裁き、そのことを自分の他の兄弟の心にも入れ、自分自身が害を受けるだけでなく、自分の兄弟の心にも悪なる毒を入れて害するということがある。そしてその兄弟の智は、祈りや他の善行で占められていたということがしばしばあるが、この人は来て、その兄弟を無駄話に誘い、ただ彼から有益なことを奪うだけでなく、誘惑に導くのである。自分自身だけでなく、隣人をも害するほど罪深く、滅亡的なことはない。

ゆえに兄弟たちよ、敬虔を保ち、自分と他人を害することを恐れ、互いを尊敬し、互いの顔を見ることでさえも警戒するというのは良いことだ。なぜなら、互いの顔を見るというのも長老の一人が言っていたように厚かましさの一種だからである。誰かが彼の兄弟が罪を犯しているのを見ることになったら、彼を軽蔑せず、彼が滅びるのを容認してこのことを秘密にしておいてはならず、同様に非難したり、彼に悪口を言ったりしてはならない。逆に同情と神への畏れの気持ちをもって、彼を更生させられる人に言うか、それを見た本人が愛と謙遜をもって彼に次のように言えばよい。「すみません、我が兄弟よ、もし私が間違っていなければですが、私たちがこのことを行うのはよろしくありません。」そしてもし彼が聞かなければ、彼が信頼を寄せているとわかっている他の人に言うか、罪の重さによっては、彼の長老や師父に言って、彼らが彼を更生させるようにしなさい。そうすれば安心していられる。逆に、我々が述べたように、無駄話や悪口や非難のためではなく、彼の罪を暴露しないため、裁かないため、彼を更生させるふりをして、心のうちに何か先に上述したようなことを隠していないため、自分の兄弟を更生させるために言いなさい。なぜなら、もし誰かが彼の師父自身に言ったとして、それが隣人の更生のために言うのではなく、自分の害を避けるためでもなかったなら、真にそれは罪であるからだ。なぜならそれは悪口であるからだ。しかし彼は、自分の心に何か執着的な動きがないかどうか、心を試さなければならない。そして、もしそれがあるのなら言わない方がいい。もしも彼が自分を注意深く省みて、同情からや利益のために言いたいとわかりながら、内的にある種の欲望の思いによって困惑しているのなら、彼は謙遜に自分のことについても、隣人のことについても師父に次のように言うべきである。「私の良心が証するところでは、私は兄弟の更生のために言いたいのですが、内部に何か入り混じった思いがあるのを感じています。この兄弟に対して過去に嫌悪感を持ったことがあるからなのか、これが、兄弟が更生しないように兄弟について私が言うことを妨げている誘惑なのかわかりません。」その時師父は彼に、彼が言うべきか否か告げるだろう。他の人は自分の兄弟の利益のためにではなく、また自分自身の害を恐れるからではなく、何かの悪を覚えているからではなく話すが、話すのはただ単に無駄話のためである。しかしなぜそのような悪口を言わなければならないのか。しばしば兄弟は彼について言われていることを知って困惑し、ここから悲しみとより大きい弊害が生まれる。我々が上述したように、もし誰かが唯一兄弟の利益のために言うのであれば、その時神は困惑が起きないようにされ、悲しみや弊害が起きないようにされるのである。

ゆえに上述したように何か悪いことを隣人に言わないように、自分の舌を抑制するように努めなさい。そして言葉でも、行いでも、視線でも、何か他の点においても誰をも誘惑することがないように努めなさい。そしてすぐに苛立たないようにしなさい。つまりあなたのうちの誰かが自分の兄弟から快くない言葉を聞いた時、すぐに怒りによって興奮したり、彼に対して厚かましく答えたり、彼を辱めるような状態にならないようにするためである。これは救われたい者にとっては不適切なことで、苦行する者にとっても不適切なことである。神への畏れを獲得し、敬虔をもって互いを迎え、我々が上述したように、一人一人が自分の頭を自分の兄弟の前に屈めなさい。一人一人が神の前、兄弟の前で遜(へりくだ)り、自分の意志を棄てなさい。誰かが何かの善行を行いながら、自分の兄弟をより優れた者と見なし、彼に譲るのは真に良いことである。このような者は彼が譲る者の前で大きな利益を受けるだろう。私はかつて私が何か善いことをしたかどうかを知らないが、もし神が私を守って下さったとしたら、守って下さったのは私が決して自分を自分の兄弟よりも上だと思わず、常に自分の兄弟を自分より上に置いたためである、ということを知っている。

私がまだ師父セリドの修道院にいた時、師父ワルソノーフィーの弟子である長老、師父イオアンの奉事者が病気になり、師父は私に長老に仕えるように命じた。私は彼の修室のドアを、他の人が尊貴なる十字架に拝する時のような心持ちで外から接吻した。何にも増して彼に仕えることが私には喜びだった。このような聖人に仕える栄誉に浴することを望まない者がいるだろうか。彼の言葉自体も驚嘆に値するものだった。毎日私が務めを終え、長老から立ち去る祝福をもらうために長老の前で伏拝すると、長老は常に私に何か言うのだった。長老は四つの格言を繰り返すのを常としていた。そして上述したように、毎晩私が退出する時、彼は他の全てに勝って常にこの四つの格言のうちの一つを私に語った。このように彼は始めた。「私はかつて語ったが」というのは長老には全ての話の際に「兄弟よ、私はかつて語ったが」と付け加える習慣があったからだ。「願わくは神は愛を守らん。師父たちは言っている、隣人に対する良心を守ることで謙遜なる心持ちが生まれる、と。」再び別の晩に彼は私に語った。「兄弟よ、私はかつて語ったが、願わくは神は愛を守らん。師父たちは言っている。決して兄弟の意志より自分の意志を優先してはいけない、と。」別の時また彼は語った。「兄弟よ、私はかつて語ったが、願わくは神は愛を守らん。師父たちは言っている、人間的なことを全て避けなさい、そうすれば救われる、と。」そして再び彼は言った。「兄弟よ、私はかつて語ったが、願わくは神は愛を守らん。師父たちは語っている。『互いに重荷を負いなさい。このようにしてハリストスの掟を実行しなさい(ガラティヤ六章二節)』と。」毎晩私が退出する時、長老は常に私に、ちょうど誰かが旅に出かける者に教訓を与えるように、この四つの教訓のうちの一つを与えた。このようにこれらの教訓は私の全生涯の守護となった。しかし私があのような愛を聖人に対して抱いていて、長老への務めについてあれほど配慮していたにもかかわらず、私は兄弟の一人が長老に奉事したいと悲しんでいることを知るや否や、師父のもとに行って、こう言って頼んだ。「この兄弟は私より聖人に仕えるに相応しいはずです。師父よ、もしこのことがあなたの意に添いますなら。」しかし師父も長老自身もこのことを私に許さなかった。しかし私は兄弟に優越を帰すように精一杯できるだけのことをした。そこで九年間を過ごしたが、私が誰かに悪口を吐いたことがあるかどうか知らない。私には従順があったが、それは従順の仕事が私にないと誰にも言わせないためである。そして信じてくれ、私は大変良く覚えているのだが、ある兄弟が病院から教会まで行く道中、私の後から来て、私を謗(そし)った。私は一言も言わずに彼の前を歩いていた。このことを誰が告げたか知らないが、師父がこのことを知ると、兄弟を罰そうとした。私は行って彼の前で伏拝して言った。「主のために彼を罰さないで下さい。私が罪を犯しました。兄弟には少しも罪はありません。」そして他の兄弟も誘惑からか、その単純さからかわからない、神がその理由を知っておられるが、短期間、毎晩自分の小便を私の頭にかけた。それで私の寝台までもが濡れてしまった。同様に兄弟の他の人々が毎日やって来て、自分の寝床のほこりを私の修室の前で払い落した。そして私は多数の南京虫が私の修室に集まったのを見た。私には南京虫を退治する力がなかった。というのは暑さのためにその数たるや夥(おびただ)しかったからである。その後私が眠るために床に入ると、南京虫は私めがけて集まってきて、私はただ強い疲労感からだけ眠りに就いた。眠りから覚めると、私の体全体が刺されて傷だらけになっていた。しかし私は決して彼らのうちの誰かに「こんなことはするな」とか「なぜお前はこんなことをするのか」と言わなかった。私は、かつて兄弟を困惑させたり辱めたりする言葉を吐いたかどうか覚えていない。あなた方も「互いに重荷を負う」ことを学びなさい。他人の前で敬虔になることを学びなさい。もしあなたたちのうちの誰かが、誰かから不愉快な言葉を聞き、もし突然耐えなければならないとしても、すぐに小心になったり、すぐに怒りによって興奮したりしてはいけない。それは苦行の時に彼が軟弱で、不注意で、不堅固で、メロンのようにいかなる攻撃にも堪えることができない心を持つ者とならないためである。メロンはほんの小さな小枝が触れても、すぐに害を受けてダメになる。逆に堅固なる心を持ち、寛容を持ちなさい。あなた方の相互愛によって、起こる全てのことに打ち勝つようにしなさい。もし、庭師や財務修道士や調理師の何かの仕事か、概してあなたと共に仕えている人のうちの誰かの仕事のように、あなた方のうち誰かが従順を持っているなら、仕事を任す人とそれを実行している人は何よりもまず自分自身の心持ちを守るよう努めるように。彼らが決して神の戒めから逸れて、困惑や頑なさや執着に陥ったり、何か自分の意志を通したり、自己正当化に陥ることを自分に許さないように。逆に些細な仕事であれ、偉大な仕事であれ、どのような仕事であれ、それを軽視して、怠慢になってはいけない。なぜならば軽視は害あることだからである。もしそれが霊への害を伴うとしたら、より仕事を遂行せんがために、自分の心持ちより仕事の遂行を優先してはならない。遭遇するあらゆる仕事の際に、たとえそれが極めて必要で、几帳面さを要求する仕事であっても、あなた方が何かを論争や困惑をもってやってほしくないのである。逆にあなた方がなすあらゆる仕事は、上述したように、たとえそれが偉大なことであれ、些細なことであれ、求むべき結果の八分の一であるということを確信してほしい。一方自分の心持ちを守ることは、もしこのことから仕事を実行しないとしても、求むべき結果の八分の七なのである。

どのような違いがあるかおわかりだろうか。このようにもしあなたが何かのことをしていて、完全に純然にそれを成し遂げたいのならば、そのこと自体を行うように努めなさい。上述したようにこれは求むべき結果の八分の一である。そして同時に自分の心持ちが害されないようにしなさい。これは八分の七を構成している。もしあなたの務めを果たすためにどうしても気になることがあって、戒めから逸れ、他人と争って、自分も他人も害するようであれば、八分の一を守るために八分の七を失う必要はない。ゆえにもしあなたが誰かがこのように行っているのを知るのなら、そのような者は非理性的に自分の務めを行っているということを知りなさい。逆に虚栄心からであれ、おべっかからであれ、のちに誰も彼を打ち負かすことができなかったということを聞くために、自分とも他人とも争い、両方を疲れさせるのである。

ああ、何と偉大な勇気であることか。兄弟よ、自分の務めを行うために、もし自分の兄弟と争い、躓(つまず)かせるのなら、これは勝利ではなく、損失であり、滅亡なのだ。これはつまり八分の一のために八分の七を失うことを意味するのだ。もし務めが不実行のまま終わっても、損失は大きくない。兄弟に必要なものを与えずに、彼と争ったり、躓かせたり、または務めを優先させて神の戒めから逸れること、これは大いなる損害である。これが八分の一と八分の七である。ゆえにあなた方に言う。もし何かの必要のためにあなた方の中から誰かを遣わして、彼が、困惑や何か他の害あることが起こるのを見るのなら、ことをやめなさい。決して自分自身で自分をも互いをも害してはいけない。ことは実行されないままで良い。ただ互いに困らせないようにしなさい。なぜならあなた方は八分の七を失い、多くの害を被ることになるからだ。これは明らかに非理性的である。私がこのことを言うのは、あなたがすぐに小心に陥って仕事をやめたり、それを軽蔑し、簡単にそれを放棄し、悲しみを避けたいがために自分の良心を踏みにじったりするためではないし、ましてや不従順になり、あなたたちの各人が「私にはこれはできない。これは私にとって害あることで、このことが私の気分を害する」というためではない。なぜならこのようにすれば、あなた方は決してどんな務めも行わないし、神の戒めも守ることができないからである。逆に全力を尽くして愛をもってあらゆるあなたの務めを行うように努めなさい。謙遜をもって互いの前に頭を屈め、互いを尊敬し、互いに請いなさい。なぜなら謙遜な心持ちより強いものはないからである。しかしもし誰かが、彼自身か彼の隣人が悲しんでいるのを見る時は、誘惑を招くことをやめ、互いに譲り、害を被るほどに自分を主張してはいけない。なぜなら何度も言っているように、ことはあなたが望んでいるように行われなくても良いからである。逆に起こるべくして起こり、必要に迫られて行われたことの方が、たとえ敬虔そうに見えることでも、あなたの熱意や自己正当化からあなた方が互いを困惑し、悲しませ、このことによって小さいことのために多くのことを失うことより良いからである。しばしば起こることだが、ある人は一方も他方も失い、まったく何も成し遂げない。なぜならこれは争い好きの人に固有のものだからである。最初から私たちが行う全ての業(わざ)はそれから利益を受けるために行うのである。もし我々が互いの前で遜らず、逆に互いを困惑させ悲しませるのなら、どのような利益があるというのだろうか。聖師父語録にこのように書かれているのを果たしてあなた方は知らないのであろうか。「命も死も隣人にかかっている」と。兄弟よ、常にこのことを学びなさい。そして聖なる長老の言葉に従い、愛と神への畏れを持って自分とあなたの兄弟の利益を求めるように努めなさい。このようにしてあなたに起こる全てのことから利益を得、神の助けによって成功することができる。願わくは人を愛する我らの神ご自身が我らにご自身への畏れを与えて下さるように。なぜなら「神を畏れ、彼の戒めを守れ。(コヘレトの言葉十二章十三節)」と言われているからである。なぜならこれは全ての人に要求されていることだからである。願わくは我らの神ご自身に光栄と権柄(けんぺい)は世々に帰す、アミン。