悲しまずに生きなさい 4 オプチナの聖アンブローシー長老の教訓

様々な人種や民族が、たとえ唯一なる神聖なる真理に関して様々な形で迷っていても、神によって守られているのには訳があります。様々な時代に存在するすべての民族のうちで、ある一定数の人々がキリスト教に向かっているからです。一方で、もしある人種や血族が不敬虔で、彼らからただ一人の義人も生じないのなら、その時は聖詠の言葉にあるように、この不敬虔なる種族は絶たれます。

世界創造や民族の運命、人々の救いに関わることすべてを、全能なる主は、選ばれた聖なる人々、預言者や使徒に明かし、ご自分の神聖なる理解の光で照らされました。一方これらのことすべては彼らによって人々に伝えられ、聖書に記述されました。つまり旧約、新約聖書の中に、です。

慰めは、ただ主の戒めと主に喜ばれる事柄の中にだけ見出しなさい。

あなたが計画しているように常に物事が進むわけではありません。多くの場合、待たされたり、様々な障害にぶつかったりします。それはある人々においては忍耐と堪忍を学ぶため、一方で他の人々においては早まって、敢えて誰かを不適切に裁いたりしないためです。

常に喜ばしい生活は、喜ばしくない結果に導きます。これは自然の中にも見受けられます。常に心地よい春というわけではなく、常に実り多い夏というわけでもなく、逆に雨が多い秋であったり、冷たい雪の冬であったりします。様々な混乱や病、その他の多くの不幸もあります。すべてこれは、人間が思慮分別、忍耐、謙遜を学ぶために与えられているのです。順調な時には大部分の人は自制心を失いますが、様々な苦しみの中で人は自分の救いについて、より注意深くなるのです。

この世ではすべてのことが大きな間違いと共に行われるものです。なぜなら敵がすべての人を誘惑しているからです。そして神は、このことを通して、人の意思を試すために誘惑を許可します。しかし神は、完成した物事、特に物質的な事柄をご覧になるのではなく、人が事を成し遂げようが、成し遂げまいが、どのような意図で人が行っているかということをご覧になるのです。

私もあなたも神の意志に委ねなければなりません。神は強い方で、私たちの為になるように物事を整え、特に、聖書に次のように書かれているように私たちを養育します。「爾の重任を主に負はしめよ、彼は爾を扶けん。」(第54聖詠23節)

あなたの言葉によれば、あなたは状況が定まらないことの続きを書いていますね。状況は私たちの魂の状態からは定まらないのです。私たちの救いの業が要求しているのは、人がどこで生きようと、すべての場所で神の戒めを実行し、神のみ旨に従順になることです。他の何かではなく、このことによってのみ魂の平安が得られるのです。一方あなたは、いつも外面的な状況から内面の平安と魂の安息を得ようとしています。

神はしばしば人間の過ちを為になるように整えます。克肖者聖大アントニイは言いました。「過ぎ去ったことは後悔しないこと」と。つまりあんな風にとかこんな風にとか、行われたことをいたずらに悲しまないで、ただ物事をしかるべく前向きに用いるように努めなさい。

あなたの人生が平穏無事であることを望んでいるのなら、単なる人間の習慣によってではなく、神の戒めに従って生きるように努めなさい。

過去の過ちを後悔しないことを誰か誇りますか。この過ちのために私たちは暫時の苦難を耐えています。それは永遠の苦しみから逃れるためです。私たちのことを慮っておられる主はこのように整えるのです、つまり、私たちの清めと霊的な学習のために私たちを様々な試練に遭わせるのです。それは私たちの中に経験豊かな、生きた信仰と恥を得ざる恃みを奮起させるためです。

もし、すべての事柄について「願わくは爾の旨は行われん」と神に祈らなければならないのなら、永遠の救いを得るために私たちに与えられた命に関して、この祈りは何にもまして適切です。

もし誰かが完全に神の意志通りにしようとせず、神の意志に委ねようとせず、ある種の外見だけよい願望を持つことを自分に許すなら、その人は次第に小心と短気に陥るでしょう。それを避けるために師父ドロフェイは「なるようになればいい」という思いを抱くように助言しています。

外面的に暮らしに困らない人々のことを妬む必要はありません。あなたたちの見本は目の前にあります。つまり豊かな状態にある人は魂の平安を持っていないということです。このために必要なのは外面的な状況ではなく、確固として神を恃むことです。もしあなたたちに暮らしの保障が必要なら、主はあなたたちに富をお与えになったことでしょう。しかし、見たところこれはあなたたちのためにならないのです。

死はすべてのものにとって終わりです。この終わりに向けてわたしたちはすべてを勘定し、見積もらなければなりません。もしありとあらゆる困難な状況の中で、この決算報告の終わりについて思い出すなら、すぐに余計な心配事や度を超えた苦しみ、より正確に言えば魂の悔やみから免れるでしょう。

一人一人の人間の運命は、一人一人の魂の状態に応じて、神に依存しています。

現代においてはいつになく、敬虔に生きようとする人たちはあらゆる不都合と困難に囲まれているように思われます。

すべては主、神からのものです。病気療法も薬自体も。人が医学療法に走りつくのが罪なのではありません。そうではなく、病人が癒しを得るためのすべての希望をただ医者と医学療法にのみおき、すべてが至って善なる全能なる神によるのだ、ということを忘れていることが罪なのです。ただ神お一人が、人々を生き生きとさせることも、元気を失わせることも、望まれるのです。

私たちは涙の谷に生きているのです。ですから時として転がり落ち、また時として泣きながら時を過ごさなければなりません。

負い目は罪よりも悪いものです。罪がある時は、人は悔い改めます。そして神は赦されます。一方負い目はただ現在だけでなく、来世の命でもその人を苦しめます。願わくは主がこれから免れさせてくださいますように。

満ち足りて、物が豊かにあると、人々は腐敗します。格言に言われているように、脂肪から動物も狂暴になる、と。

もしも、正しいことのために神のために苦しまなければならないのなら、これを否認する必要はありません。わたしたちはこの世の命のために生きているのではなく、来世の命のために生きているのですから。

この世の人生が涙の谷と呼ばれるのには理由があります。服従している人も、貧しい人も泣きます。上司も金持ちもため息をつきます。この世で苦しみや悲しみなしにいる人は誰もいません。このことすべてを理解して、思いと心を神の至って善なる摂理に向けましょう。この摂理は私たちを今日まで養い、すべて必要なものをくださいました。自分の悲しみを神に捧げなさい。

自分の運命が整うことについて多くを心配してはいけません。ただ救われたいという確固たる願いをもち、そして神に委託しない。時が来るまで、神の助けを待ちなさい。

神の憐みは、力に応じてハリストスの戒めを実行し、悔い改めることを慮っているハリスティアニンを取り巻き、守っています。単にこの世の人生のすべての日々だけでなく、来世の命に移るその時でさえも、そうなのです。それは終わりなき永遠の世で天の主の家に住むためです。

主はその仁愛と憐みにゆえに、私たちに天、天国での永遠の福楽を与えたいと願っておられます。一方で、私たちは己の盲目により、この世の暫時の幸福と平穏をより望むものなのです。それで、主は人類に対するその仁慈と愛ゆえに、私たちを様々な苦しみや病や他の不幸によって教え諭されるのです。

天の国は私たちの中にある、と言われています。私たちはそれを自分の中に探すことを捨て、外側を向き、他人の欠点を批判しがちです。私たちの物事がうまくいかないのはここから来るのです、霊的な事柄に関しても、経済的なことに関しても。

この世の教育は人を善にではなく、ただ偽善や、凶悪や、狡猾さや緻密な不誠実に研ぎ澄まされたものとします。キリスト教の善は、偽りではなく、魂と心からの単純素朴さを要求します。

知恵がない人は最大限に遜らなければなりません。一方でもし人が謙遜ならば、困難な状況においてどのように理性的に行動すべきか、主は彼を光照されます。

名誉を探し求めたい人は、ただ不名誉とこれに伴う苦しみだけを得ます。

私たちの側からの過ちはすべて、神の至って善なる摂理の意志に服従しないことのうちにあります。神の摂理は私たちに、魂のためになる道を、状況を通して示します。一方で、すべて私たちは何か自分の安息の道を探すものです。それはただ空想の中でしか存在せず、実際にはそれはこの世にはありません。「諸聖人と共に安息し給え」と歌われる時、すべての人ではなく、ある種の人だけが安息するのです。

人間のこの世での宿命は、苦難、労働、病、修行、悲哀、ためらい、窮屈、あれこれのものの欠乏、悲しみを受けること、動揺、悪慾(情念)が沸き起こること、悪慾(情念)との闘い、克服、疲労、または失望、そしてその類のものです。

多くの人間の業とは次のようなものです。私たちはあることを考え、想定しますが、結果はそれとは異なることがあります。ただ一つのことにおいては、誤りはありません。もし人がすべての目の前のことにおいて神の意志を実行するように心がけるなら、そのことにおいて、人がたとえ目に見える成功をおさめなかったとしても、至って善なる主は私たちの意図を、業そのものと見なしてくださるのです。

ためになることが心地よいことと共に来るのはまれで、むしろ心地よくないものが心地よいものより頻繁に益をもたらします。なぜなら心地よいものからだと、人々はすぐにまどろんでしまうからです。

将来のことは神お一人だけがご存知です。それゆえ、どのように状況が整うかについて言ってはなりません。人々は想定しますが、運命を計るのはただ神お一人です。