悲しまずに生きなさい 3 オプチナの聖アンブローシー
主はどこでも、人をむりに拘束したくありません。そうではなくどこでも私たちの善なる意思を念頭に置いているのです。そして固有の意思を通して人々は善良だったり悪かったりします。それゆえ、私たちと共に生きていて私たちを取り巻く人々が、あたかも私たちの救いや霊的な完成を邪魔したり妨げたりするような非難は、無意味なことです。
人々から利益を受けるのは、ただ人々を裁かない時だけです。
あなたは、あなたに対する人々の不正を嘆いています。しかしもしあなたが主・ハリストスと共に統治するように努力するのなら、主が取り巻く敵たち、主の死を要求した敵たちに対してどのように行動したか、主を見つめてごらんなさい。主の敵が主に対して不正に行動しても、主は誰にも不平をこぼさなかったようです。逆に、主の敵が主にもたらした恐ろしい苦しみが起こった際にはいつも、主はただひたすら自分の天の父の意志のみを見ていたように思われます。
あなたは、みながあなたのことを卑しめようとしている、と嘆き悲しんでいるのですね。もしも卑しめようとしているのなら、つまり、あなたを遜らせたいのです。一方であなたは自分でも神に謙遜を求めているではありませんか。何故その後で人々のことを悲しむのですか。
自分の人生のための教訓は、人々の例より、ハリストスの例から多く取らなければなりません。人間は弱い存在ですから、人々の中に十分な完全さを見出すのは不可能です。それ故、私たちが望むような教訓的な模範を、ある人々が与えないというもっともらしい口実のもとに、心を乱してはなりません。
誰かの不正なる行いを見て、憤ってイライラする代わりに、知恵を用いなければなりません。それは、すべてにおいてではなくとも、主要なるもの、または可能なものにおいてでも目的に達するためです。
密告は中庸をもって受け止めるべきです。完全に信じるのでもなく、かといって全く拒むのでもなく、事が明らかになるのを待つのです。
私たちが誰かを不幸にしたり、または平穏無事にしたりすることが出来るとは思わないように。これは神とその人自身の意志にのみ属することです。もし人を創った方の前に思慮深く留まるなら。
人々は目に見えるものを見ていますが、主は人の内的な気持ちや、良心に基づく行いを見ています、他人に対するものでも自分自身に対するものでも。何かの原因で他人に利益をもたらすことができない時は、少なくとも自分自身の魂の益について慮りましょう。
正義を守らなければならない人々、それも年少ではなく、偉大で高位の人々の側からの不正なる圧力に耐えるのは辛く、大変屈辱的なものですが、生者と死者の唯一の「裁判官」の公正なる裁きの後で喜びがあるでしょう。
霊的な生活の中で大変良いことは、時宜にかなって思慮深く誤解を解き、時宜にかなって赦しを請うことです。それは、自分の魂を平穏にさせ、他人にもそのきっかけを与えるためです。
私たち一人一人はより自分自身について、すなわち自分の魂と、自分の魂にとって益となることについてより慮らなければなりません。何故なら使徒の言葉によれば、私たち一人一人は自分について神に弁明しなければならいからです。私たちの中のごたごたは、私たち皆がより他人を教え諭す傾向にあり、多くの様々な論拠によって他人を納得させるだけでなく、信念を変えさせたり、自分の考えを証明したりしようとすることからもきます。
私たちが全く罪のないことを非難され懐疑をかけられるとき、私たちは神の前、人々の前で罪を犯した出来事へと自分の思いを向けなければなりません。そして自分の罪の赦しのためには、私たちの隣人から受ける不公平や侮辱を赦さなければなりません。
手短に話します。命を得、死を避けるように賢明になりなさい。あなたが共に暮らしている人々と共に暮らし、使徒によって戒められたこと、つまり、仁慈、憐み、同情、愛を持つように心掛けなさい。愛は掟の実践です。ではどのようにしてでしょうか。同様に使徒に聞きなさい。「互いに重荷を担いなさい、このようにしてハリストスの掟を実行しなさい。」
怠惰はあらゆる悪とあらゆる悪癖の始めかつ原因です。
外面的な労働から来る疲労を卑しめたり軽蔑したりしてはいけません。この疲労はすべての聖師父によって奨励されています。というのは、罪を犯した人類に次のように戒めが与えられたからです。額に汗して体と魂を養うパンを食らうように、と。
生計を立てるための労働と骨折りを負担に思わないで下さい。ただ賢明に行い、執着的な配慮やおおよそ有害な物事に気を取られないようにしなさい。あなた自身、外面的な労働はあなたを悪癖から遠ざけるので為になる、と書いているではありませんか。
あなたは言っています、すべて自分を強いてやっている、と。しかし聖書では強いることは拒絶されないばかりではなく、奨励されています。
神のために何かを捧げる人は、人々からではなく、神から報いを受けるでしょう。
この世の福楽は一時的なものです。だれも地上の富を来世の命に持っていけません。ただ賢明に富を、施しや慈善のために使う人だけが持っていけるのではありませんか。
行いと助言によって助けることが出来ない場合、互いのために祈りあいなさい、という戒めが私たちにはあります。そして私たちは癒されるのです。
あらゆる欠乏とあらゆる自己強制は神の前で価値があります。聖書で言われているとおりです。「天の国は力づくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている(マトフェイ11,14)」、と。そして大胆にも、自分勝手に斎の規定を破る人は十字架の敵と呼ばれています。「彼等は腹を神とし、恥ずべきものを誇りとしている。(フィリップ3,49)」聖詠経にも書かれています。「腹より迷ひて」と。
健康な人は斎からさらに健康になり、さらに善良になり、それにも加えて長命になることがあります。たとえ外見はやつれて見えても。斎と節制を行うと、肉体はそれほど興奮せず、眠気にはそれほど打ち負かされず、頭に無益な考えが忍び込むことが少なくなります。そしてより霊的な書物を好んで読み、さらに理解が深まります。
大斎がきます。大斎にふさわしいのは何よりもまず分別ある(благоразумное)沈黙です。(もの言わぬ魚のようになるということではなく、ほどほどにものを言うということです。)
贅沢な食べ物を食べ、高価な飲み物を飲む人は、思いを上に上げることはできません。逆に地面を下へとさまよい、這い回るのです。
斎は時宜にかなった時と場所で称賛され、必要とされます。飲食は節度をわきまえて取るのが良く、満腹を避けなさい。満腹の兆候は小さな重荷です。他方で、余計で不適当な節制も避けなさい。両極端はよろしくなく、害となります。節度と、両極端の真ん中が人間をより霊的な行いにふさわしくします。








