悲しまずに生きなさい 1 オプチナの聖アンブローシー

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アンブローシー長老は帝政ロシア時代の最も著名な長老の一人で、彼のもとには毎日ロシア全土から悩みや悲しみを抱えた多くの民衆が助言を求めてやって来ました。その中には著名な作家ドストエフスキーなどもいました。長老は一人ひとりの状況に応じて助言を与え、彼らの悲しみを和らげました。以下は長老が民衆に与えた助言の一部をまとめたものです。
読んでいただく上での注意点として以下のことを補足します。

補足1:西方教会(プロテスタント、カトリック)では、救いとは、イエス・キリストの身代わりの死と、その後起こった復活を信じることによって与えられる、私たちの罪からの贖いを意味する場合が多いようです。一方で、東方教会(正教会)では、救いとは罪の贖いを得た上で、神との深い一致に至ることを意味します。そこには、私たちの罪から派生する心身の病や傷の癒しも含まれています。

補足2:悪慾(情念)と訳したロシア語(страсть)は、単に悪い欲望(淫欲、大食、大酒、惰眠、怠惰、虚栄心、名誉欲、権勢欲、金銭欲など)のみならず、傲慢、貪欲、偶像崇拝、神ならぬものへの過剰な執着、他人の物を欲しがる心、妬み、恨み、憎しみ、いらだち、憤怒、悪意、無慈悲、残酷、親不孝な考え、嘘、二枚舌、裏切り、邪推、不信仰、不平不満、落胆、絶望など、諸々の悪しき思い全般を指しています。

補足3:「思い煩い」と訳したロシア語(смущение)は、心の中が動揺していること、平安でない状態を表す言葉で、狼狽、困惑などと訳すこともできます。

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人間的な意見によれば、救いの道はなめらかで、静かで、平安であるべきであるかのようですが、聖書の言葉によれば、この道は悲哀に満ち、窮屈で、狭き道です。

聖書の戒めが要求しているのは、第一にすべての試練を謙遜に忍耐し、辛抱することです。次のように言われている通りです。「あなたの忍耐によってあなたの魂を獲得しなさい。」「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」誰をも裁くことなく、誰をも非難することなく、逆にすべての人を神の裁きに任せ、彼等の自由意志に任せるためです。なぜなら、生者と死者の「裁判官」はただお一人で、この方の前で私たち一人一人が自分の行状からお褒めを受けるか恥を受けるからです。

より内的生活に傾きがちな人はおもに、何よりもすべての人、すべてのことを神の裁きに委ねるということについて慮るべきです。

救いに導く主要な手段は、人に与えられた多様な苦難を忍耐することです。

救われたい人は使徒の次のような戒めを記憶し、忘れてはなりません。「互いに重荷を担いなさい。このようにしてハリストスの戒めを実行しなさい。」他にも戒めはたくさんありますが、一つとしてこのような付け足しはありません。つまり、「このようにしてハリストスの戒めを実行しなさい」という付け足しです。この戒めには多くの意義があります。そして他のものにもましてこの実践を心がけなければなりません。

多くの人は最も簡単な形で良好な霊的生活を望んでいます。しかしただ少数の稀な人々だけが実際善なる自分の願望を果たすのです。まさに堅固に聖書の次の言葉を保持する者たちだけが。「多くの苦難を通って私たちは天国に入ることが定められている」という言葉を。そして神の助けを呼び求めながら、彼等に襲い掛かる苦難、病、様々な不都合を不平をこぼすことなく耐え忍ぶよう心掛けています。

隣人に対する慈悲と寛容、彼等の欠点を赦すことは救いへの最も短い道です。

弱く、罪深い私たちに一つ必要なことは、誠実に自分の弱さと魂の病を認めて悔い、神と人々の前で偽善的ではなく遜り、罪のために私たちに送られた様々な苦難と病を不平をこぼさず忍耐強く耐えることです。このようにすれば疑う余地なく神の慈しみを受けることができます。

ハリストスの子供と呼ばれることを望む人は、忍耐強く不平をこぼさず、ハリストスが被ったものすべてを被らなければなりません。そしてハリストスが己を十字架につけた人たちのために祈ったように、侮辱する者のために祈らなければなりません。

おそらく、忍耐し、待ち、自分と他人について労すること以外に平穏に達することはできません。何故なら隣人への愛なしには救われることはできないからです。

もし私たちの本当の生活が苦行以外の何物でもなく、一方で戦いのない苦行はなく、戦いの中で人は神の助けなしには弱く、力なき者ならば、私たちは憂鬱に陥るかわりに、暗闇の力に「勝利した方」に呼びかけなければなりません。「主よ、我と争う者と争い」給え、と。

多くのことについて、多くを慮る必要はありません。そうではなく、最も主要なことを慮らなければなりません。つまり自分を死に備えることについてです。

あなたは手のひらにあるかのように自分の救いを見ることを望んでいます。しかしこのようにはっきりと見ることで、人は傲慢になったり、怠惰になったりします。一方、ためにならないことは、ちょうど時宜を得ないもののように、人々に与えられません。つまり自分の死を次期尚早に知ることのように。

私たちは「多くの苦難を経て天国へ入らなければならない」ということをしばしば忘れています。それゆえ、地上の幸福や、生活の慮りや、この世の物質への執着の中での一時的な喜びを探してしまいます。
故に至善なる主は至って叡智なるその摂理によってこの結び目を解き、思いがけぬ困窮や苦難に導きます。それは、私たちが周囲を見回して、自分の魂の視線を、一時的ではなく、永遠の福楽(永遠の生命)を得ることに向けるためです。永遠の福楽(永遠の生命)は揺らぐことなく、決して変わることはありません。

私は助言します。あなたに憂鬱や喜ばしくない魂の状態をもたらす予感は全く信じないように、と。そうではなく、神が備え整えることを信じて下さい。神は常に有益で救いに導くものを私たちのために備え整えて下さいます。

主は私たちのすべての善なる願いをかなえて下さるわけではありません。ただ私たちの魂の為になることだけです。もし私たちが子供たちを教育するときに、どのような教えがどのような年齢にふさわしいか吟味するのなら、心をご存知の主はいっそう何がどのような時に私たちに与えられるのが為になるかをご存知なのです。

悪は常に前の方をちょろちょろ駆け回っていました。ですが恐らく主がお許しになった箇所を除いては、悪が打ち勝つことはなかったのです。そして、私たちの魂の益になり、キリスト教的な忍耐を試すために主は許されるのです。

神が与え給うことが成就するのです。神はすべてを、ただ有益で、魂のためになり、救いに導くように備え整えます。ただ私たちの側からは小心にならずに、神の御旨に従順に、送られた苦難や病を忍耐する、ということが求められているのです。その時、神と人々の前で遜り、誰をもあえて懐疑をかけたり、裁いたりしてはなりません。

主はすべてを、私たちの魂の益になるように、私たちの忍耐と謙遜と神の意志への従順を試すために許されます。何故ならこの三つなしには私たちは何もためになることを得ることはないからです。

痛悔はするのですが、告解機密ですべてを言わなかったり、恥ずかしさのあまりある罪は隠して、言わずにおいたり、というハリスティアニンがいます。このような人々は使徒の言葉によれば聖機密を受けるのにふさわしくなく、不当なる領聖によって様々な衰弱や病に服することになり、多くの人が死んでいくのです。

教会の奉事に立ちながら話したり周囲を見回したりすることは、単にふさわしくないことであるのみならず、不注意と厚かましさによって主を怒らせます。

頻繁にいかなるときもイイススの祈りに走りつくように努めなさい。同様に教会でも、特に誦経の声が聞こえない時に。

もしもハリスティアニンが、ハリストスの戒めの実行について慮る度合いに応じて、信仰と恃みをもって、常にイイススの祈りと十字架の印によって自分を守るのなら、この世の苦しく危険な状況だけでなく、死後の魔関をも恐れず、安全に通り抜けるでしょう。

もし「神・言」が要求しているように完全に生きることが出来ないのなら、少なくとも自分の過ちや罪において、力相応の改めを伴う、誠実で謙遜なる痛悔を捧げるように努力しましょう。最後の審判で悔い改めない罪人のうちに入らないように。

もし福音書の教えのように強いて遜るのなら、少しずつ神の助けによってあなたから短気や小心は遠ざかるでしょう。

肉体的な可視的な礼儀正しさによって我々の内的な思いは善なる状態に導かれます。ちょうど主が最初に人間の体を土から創り、その後かの不死の魂を吹き込んだように。このように外面的な教育と可視的な礼儀正しさは魂の善なる状態に先行するのです。それは目や耳を守ること、特に舌を制することから始まるのです。

主は善なる意図をごらんになって、力相応の可能な活動を要求されます。力以上なことや不可能なことではなく。

苛立ちは斎によってはなだめられません。そうではなく、謙遜と自責と、私たちがこのような不愉快な状態にあるのがふさわしいと自覚することによってなだめられるのです。

何がきっかけで冒涜的な考えの戦いが起こるのかは、明らかです。第一に高ぶり、第二に裁きから起きます。遜って、あなたが他の人々より優れているという自分についての考えを持たないように。誰をも非難してはなりません。罪過と秘めた意図のために自分を責めなさい。そうすれば冒涜的な考えもおさまるでしょう。

敬虔かつ聖なる生活を送ろうとする者への主たる手段は、将来の審判と永遠の苦しみへの恐れです。この恐れの力を借りてのみ、神の助けによって戒めを順守することにもなるのです。

思い煩いは善行の中のどこにも示されていません。そして誰の為にもなりません。逆に常にただ害をもたらすのです。時としてもっともらしいと思われますが、その本質はただ魂のうわごとです。うわごとを言うのは病気の時だけです。それ故、思い煩いもまた魂の病の一つに入れられるべきなのです。思い煩いは、謙遜と神の摂理と意志への従順によって癒されなければなりません。

いかにやって来る考えがもっともらしく信じるに値するものに思えても、もしそれらの考えが思い煩いに導くのならば、これは敵対者からのものだ、という明らかなる印です。聖書の言葉では、羊の毛皮をまとったオオカミと呼ばれています。正しい考えと判断は魂を安心させるのであり、憤慨させるものではありません。

時として人々は以前犯した自分の不注意から、後になって困難な状況に陥ります。このような場合は思い煩いのかわりに自責によって武装しなければなりません。そうすれば神の助けによって人は安心するでしょう。

みなさんご存知なように、最初に創られたアダムとエヴァは味覚と食べることによって楽園から追い出されました。それゆえ、敬虔な生活を始める人達に、すべての聖師父によって何よりも先ず食事の節制が課せられました。

もしも何かまたは誰かが私たちを誘惑したり動揺させたりするのなら、それは私たちが神の戒めに対して全くもって正しく接していない、ということをはっきりと示しているのです。神の戒めの中で主たるものは、誰をも裁かず、誰をも非難しないことです。
   
私たちすべてに共通する弱さとは、隣人を裁き、非難することです。この弱さは私たち多くの人にとって些細な事だと思えるのですが、実際には非常に大きなことで、私たちは神の前での大いなる裁きに処せられるのです。

ある種の人々は習慣から裁きの罪に陥ります。他の人々は恨みから、他の人は妬みや憎しみから陥ります。一方で多くの場合私たちはこの罪にうぬぼれや高ぶりから陥ります。自分がまったく変わらず罪深いのに、私たちはそれでも自分は他の人より上だ、と思ってしまうのです。

私たちは見える形での傲慢にはあまり気づかないかもしれません。しかし微細な自己愛、名誉欲はしばしば理性的でない憤り、苛立ち、嫉妬のうちに現れ、時として他人の成功を妬むことにも表れます。

私たちすべての中で弱さは一つです。それは常に自分が正しくありたいという願いです。そしてこの正しさを願うことは他人を不快にさせ、人々を神の裁きの前に断罪する者とするのです。

もしも傲慢とうぬぼれから免れたいのなら、何よりも先ず神の意志への従順が求められます。

落ち込む必要はありません。そうではなく神に恃みを置かなければなりません。神は強い方ですべてを最終的に益あるものへと導きます。

私たちはしばしば不注意から話をしますが、それによって何よりも第一に私たちが裁かれることになります。多くを語るのは大変簡単で快適ですが、このような状態で痛悔を捧げるのは極めて不適切です。

妬みという悪慾(情念)は、どのような喜ばしい祭日にも、どのような喜ばしき状況下でも、妬みを持っている人を完全に喜ばせることはできません。常に蛆虫のように彼の魂と心を混乱させる悲しみでむしばむのです。それゆえ、妬み深い人は隣人の平安や成功を自分の不幸とし、他の人を自分より優れているとみなすことは自分にとって不正なる侮辱だと思うのです。