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2024年1月から10月の説教

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フェオグノスト府主教の説教

2024年1月「愛とは自分を忘れること」

 

父と子と聖神の御名によりて

主がお与えになった戒めは、まさに「蛇のように賢く、鳩のように単純であれ」というものですが、そんなことが可能でしょうか。

はたして、善と悪、光と闇、熱いものと冷たいものを一緒にすることは可能でしょうか。

両者は相容れません。

しかし、主は言われました。

「蛇のように賢く、鳩のように単純でありなさい」と。

これは可能でしょうか。

私たちが自分自身を忘れる時にそれは可能なのです。

人が自分自身を忘れる時、神はその人を覚えておられるのです。

そして、今日の福音朗読の中で私たちが聞いたことは、偶然ではありません。

「王や支配者の前で裁きを受けるとき、あなたがたは何を答えようか考えてはなりません。あなたがたに敵対する者たちが抵抗できないような叡智があなたがたに与えられます。」

自分を忘れることを学ぶことは、愛することを学ぶことです。

隣人のために、神のために自分を忘れる時、それが愛なのです。

愛とは気まぐれではなく、自分の欲求を満たすことでもありません。

愛とは自分を忘れることであり、自分のためのスペースが少なければ少ないほど、神と

のためのスペースが広くなります。

だからこそ、この言葉は真理であり、不変なのです。

「蛇のように賢く、鳩のように単純であれ」。

しかし、そのためには、己を忘れ、隣人のため、神のために生きなければなりません。

そんなことが可能でしょうか。

私たちは皆、我を忘れる瞬間を経験します。それは、自分のことを忘れる時、言い尽くされぬ力を感じます。

私たちが自分で自分を守っている時は、私たちは常に弱く、他者を守っている時は常に力強いのです。

そして、自分で自分を守っている時は自分のことを考え、他者を守っているときは自分のことを忘れ、隣人のことを考え、神のことを考えます。

まさにこのシンプルな生命を肯定する思考が、私たちに生きる力を与えてくれて、私たちはつまりそういうことだ、と信じなければならないのです。

なぜなら、自己を忘れてこそ、すべての偉大なことが成し遂げられるからです。

人が自分のことを忘れている時、主が彼を覚えていてくださるからです。

使徒パワェルが言うように、「もはや私が生きているのではなく、ハリストスが私のうちに生きておられる」のです。

ですから自己を忘れることは単に修行ではなく、善行ではありません。

自己を忘れることとは、聖神の恩寵を自分に引き寄せる唯一の方法なのです。

私たちが自分を忘れる時、この恩寵は私たちの中で話しだし、そして、私たちは実際に強くなります。

それはもはや私たちではなく、主が私たちの中にいるからです。

皆さんの聖なる祈りに感謝します。ハリストスの聖機密を受けられた方々、領聖おめでとうございます。主に感謝しましょう!

 

 

 

2024年1月20日 「前駆授洗イオアン会衆祭」

 

父と子と聖神の名によりて。

二千年前、授洗イオアンはその説教で、彼は神の国は近づいたと言いました。

しかし、二千年もの間、私たちはこの神の国を目にしていません。

戦争、混乱、争い、敵意、中傷。では、それは何なのか。

授洗イオアンは正しくなかったのでしょうか。間違っていたのでしょうか。いいえ、そうではありません。

確かに、神の国は目前に迫ってきましたが、私たちはそれに出会うために踏み出さなければならないのです。

というのは神の国は私たちの内にあるからです。それがこの秘密の答であり、授洗イオアンの説教の奥義なのです。

克肖者たちや、聖人たちとは、この世にいながら神の国が啓示された人たちです。

致命者、成聖者、義人たちとは、神の国に向かって自らを開き、神の国を自分の中に受け入れる準備ができていた人々です。人間は、残念ながら、自分の周囲の世界を変えようとしますが、誰も自分を変えようとはしません。

そして、自分自身を変えることによってのみ、私たちは世界を変えることができます。

そして私たち一人ひとりが、平和を持ち、優しさを持ち、光を持つとき、周りの人々が変容していくことを知っています。

彼らは優しくなり、明るくなり、良くなるのです。

これが私たちの内にある神の国です。

私たちは神の国に自らを開かなければならなりません。

しかしそのためには、私たちが、神の国が私たちの中に入ってくるために準備しなければなりません。賢明なソロモンが見事に言ったように。

「叡智は邪悪なたましいに入ることはなく、罪の奴隷となった肉体に宿ることもない。」

自分自身を変えることによって、私たちは神の国へと自らを開くのです。

そして、その神の世界の一部となり、

神の国はここ、私たちの隣にあり、神の国への鍵は私たちの中にあるのです。

悔い改めとは自分自身を変えることです。

悔い改めとは、私たちの罪を列挙することではありません。

悔い改めとは、私たち自身の内なる世界を変えることです。

主が私たちに与えた戒めの下に、主が私たちに残した戒めの下に、私たちがこの世界を守り抜く時、これが霊的生活の始まりであり、終わりなのです。

祈りの数ではなく、伏拝の数でもなく、自分自身を変えることです。

そのためには努力しなければなりません。

修行者とは、自分自身を変えるために労する者のことです。この労働は1時間でも2時間でもない、生涯にわたる労働です。そして完成には限界がありません。

神は言われました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者になりなさい。」

だからこそ、落胆や疲労は罪です。

そして、自分が正しい、聖なる者だと自覚することは、より大きな罪です。聖性に近づこうという永遠の志向はありますが、そこには永遠にたどり着くことはできません。

しかし、もし私たちが努力し、その道を歩むなら、主ご自身が私たちを助けてくださいます。

授洗イオアンが説いた神の国を、私たちはすでにここに見出すのです。

救い主ハリストスはその神の国のために来られたのですから。

この単純な真理に気づくことができるよう、主が私たちを助けてくださいますように。

そして一方で、私たちがこの聖性からどれほど離れているかに絶望しないように。

それが私たちに少しでも近づいてきたときに、自分自身を欺くことのないように。常に警醒し、理性的であること、そして、信仰を失わず、忍耐を失わず、平安を失わず、常に神聖神(せいしん)と共にいて、それを保ち、その中で生きる。それが私たちの人生の目的であり、意義なのです。

皆さん、この祭日おめでとうございます。

ハリストスの聖なる機密を受けた方々、領聖おめでとうございます。

 

 

 

2024年「放蕩息子の主日、妬みについて」

 

父と子と聖神の御名によりて。

なぜ教会は、聖なる大四旬節のために、大斎のために、これほど長い間、私たちに準備をさせるのでしょうか。というのは、聖使徒の斎の前には何の準備もなく、就寝祭の斎の前にも何の準備もなく、降誕祭の斎の前にも何の準備もしません。しかし、四旬節の前には、教会は私たちに準備をさせます。まずザクヘイについての福音書を読み、次に税吏とファリセイについての福音書を読み、放蕩息子についての福音書を読み(今日の福音朗読)、最後の審判についての福音書を読み、最後に赦罪の主日を迎えるのです。というのは、この世ではすべてが毒であり、すべてが薬でありえるのです。もし斎のやり方を間違えたら、中毒をおこしたり、自分を傷つけたりする可能性があるのです。最初の税吏とファリセイの主日で、私たちは傲慢なファリセイと悔い改めた税吏についての福音書を読みます。このたとえ話のポイントは、傲慢にならないこと、この人生で何をしたとしても、いつも言うこと、私たちは役立たずの僕であり、しなければならないことをしただけなのだ、ということです。しかしながら、今日の主日は放蕩息子の主日です。私たちはいつもこの放蕩息子に注目します。彼は財産をもってどこかへ行き、食べ物を食べ、酒を飲み、放浪し、戻って来て、神に赦されました。それがどんなに良いことか。実際には、父親と一緒にいたもう一人の息子に注意を払うべきなのです。彼については簡単にしか記述されていませんが。彼はもっと悪い状態にいたのです。ファリセイが高慢になったように、この長男は嫉妬していたのです。父親が財産の一部を下の息子に与えたことに嫉妬し、父親が次男を赦したことに嫉妬し、彼の中には妬みがあったのです。嫉妬は常に破壊的なものです。そして、白い嫉妬は存在しません。誰かは言います「私はうらやましいのよ」と。いいえ、妬みは黒いものなのです。というのは、あなたは人のことを喜ぶか、もしくはねたむかどちらかだからです。長男は妬み、陥罪は妬みから始まったのです。悪魔は楽園の最初の人々、アダムとエバを妬みました。カインは弟をねたみ、そして人類の歴史全体が妬みに犯されたのです。すべての悪の根源はねたみです。だからこそ、教会は私たちに斎の準備をさせるのです。まず第一に、私たちが何をしたにせよ、あたかも斎をしなかったかのように、傲慢になってはいけないのです。モーセは40日間何も食べず、何も飲みませんでしたが、慢心することはありませんでした。ハリストスは40日間荒野にいたし、前駆授洗イオアンも生涯荒野にいたのではないですか。そして彼らには傲慢さがありませんでした。そして、さらに言うべきことは、決して妬んではならない、ということです。妬みはおそらく最も恐ろしい破壊的なものです。妬むのは人間の特性です。福音書にとても良い例があります。復活の後、主が弟子たちの前に再び現れたとき、主はペトルに三度尋ねられました:「イオナの子シモンよ、あなたはわたしを愛しているか」ペトルは答えました:「はい、主よ、愛しています」そしてペトルは腹を立て、ハリストスの隣に愛弟子のイオアンがいるのを見て、ペトルは悲しみ、それゆえ妬みながら言いました 「主よ、この人は何ですか。」つまりなぜ彼はこんなにあなたの側にいるのか。と。主は彼に、そして私たち皆に答えられました「あなたがたに何の関係があるのか。あなたは私に従いなさい。」一人一人に己の道があり、私たちは、彼のもとでは全てがよく、一方であそこではすべてが良いわけじゃない、と考えながら人を妬みます。人の成功を喜び、自分も努力することが必要なのです。ロシアには素晴らしいことわざがあり、2つの部分から構成されています1つ目は「他人のパンに口を開けるな。」2つ目は「少し早く起きて、自分の種をまけ」。誰が私たちが働くのを妨げ、誰が私たちの人生で良いことをするのを妨げるのか。誰もいません。だからこそ、教会はこのような形で四旬節に向けて私たちを準備するのです。高慢にならず、ねたまず、自ら努力に努力を重ねるのです。主はそのような人を祝福し、その人生を倍加させ、力と富と必要なものすべてを与えられます。主は私たちが想像する以上のものを与えてくださるからであり、私たちは決して主に感謝し尽くすことはありません。しかし、心の豊かさから口は語り、私たちはいつも主の至尊、偉大なる御名をあがめ、主が私たち一人一人に必要なものを与えてくださったことを信じます。そして、妬むことなく、隣人の成功を喜び、自ら努力に努力を重ねましょう。

祭日を迎え、また、ハリストスの聖なる機密を受けた皆さん、おめでとうございます。主に感謝し、領聖後の感謝祝文を聞きましょう。

 

 

信仰と奇跡について

父と子と聖神の御名によりて。

 

私たちの主であり、神であるハリストス・イイススは、イオアンから洗礼を受けた後、荒野におられました。

そして40日間断食されました。何も食べず、水にも触れずに。

砂漠には水がなかったからです。断食が終わると、主は空腹になり、悪魔が主のところに来て、誘惑しました。

悪魔がキリストに投げかけた三つの質問すべてを言うつもりはありません。

ただ一つの質問についてだけ話します。

主が神殿の屋根の上に導かれたとき、悪魔は言いました「身を投げよ。天使がお前を捕らえ、人々は奇跡を見て、お前を信じることをお前は知っているだろう」と。

しかし主は、奇跡を必要とする信仰は疑わしいと言われました。

私たちは人生において、聖なるイコンに触れるとき、聖なる不朽体の前に膝をかがめるとき、祈りの時、何度奇跡を待つでしょうか。

しかし、その奇跡を見つけることはできません。

ある人は奇跡が見られないと信仰が弱くなります。

しかし、信仰は奇跡によって信じるのではなく、奇跡があるから信じるのではなく、信じないわけにはいかないから信じるのです。

私たちは神を信じ、この信仰によって生きるのです。

もしも私たちの人生に奇跡があるなら、私たちが生きていることが奇跡であり、私たちが見ることができ、聞くことができることが奇跡です。

私たちが来世の命を期待していること、これも奇跡です。

それ以外のことはすべて、感謝を持って受け止めなければなりません。

神はすべての人に異なる十字架、それぞれの融点、それぞれの誘惑を与えました。

それを受け入れず、避けようとするなら、私たちはすでに不信仰な人間であり、深く信仰していない人間なのです。

だからこそ、主は私たちに模範を示されたのです。

奇跡を期待して、私たちの神である主を誘惑してはならないと。

奇跡とは人生そのものです。

そして、神が私たち一人ひとりに与えてくださったものこそ、最高のものなのです。

私たちはそれを信じ、受け入れることが必要なのです。

時にはそれが十分でないように思えることもあります。しかし、人生が進むにつれて、人生を振り返ると、神がどれほど多くのものを与えてくださったかを知るのです。

もし悪と不義とがあったなら、それは神からではなく、私から、私の愚かさ、私の不誠実、私の無分別によるものです。

神はいつも善きものを与えられます。

神は常に善を行われます。

神を見て神に感謝する人は幸いです。

司祭だけが「我等の神は崇めほめらる」という発放詞で奉事を始めるのではありません。

私たち一人ひとりが、「我等の神は崇めほめらる」という言葉で一日を、人生を終えるべきなのです。

すべてに神を讃美すること、それは私たちの信仰の証となり、私たち一人ひとりが必要としている奇跡そのものとなります。

しかし、そのためには、神を信じるだけでなく、次のことが必要です。

神を信じること、神が摂理者であること、私たち一人ひとりに必要なもの、役に立つものすべてを与えてくださることを信じることです。

そして、私たちが求めるものを受け取るとる時に「我等の神は崇めほめらる」というだけでなく、私たちが求めるものを受け取らないとき、私たちがそれを好まないときにも、私たちが辛いことばかりの時も、神を讃美するのです。

すると、これは私たちの神への信仰、神への服従、私たちの謙遜の証しとなります。

皆さんの聖なる祈りに感謝します。

ハリストスの聖なる機密を受けた方々、領聖おめでとうございます。

 

 

 

2024年9月27日 十字架挙栄祭

 

父と子と聖神の御名によりて。

ポンティ・ピラト、全権大使、ローマ及び人間の皇帝。

彼はハリストスに尋問しています。彼は自分の周りに神秘があることを理解しつつも、その神秘は彼に語りかけていません。

ピラトはハリストスに問いかけました。「私に答えないのか、私にはお前を解放する権利も十字架につける権利もあるのだぞ」と。

これに対してハリストスは言っています。「私には私ひとりだけではない権利がある、もし上よりあなたに与えられていなければ」

救い主ハリストスは天の御父の御心への従順の模範を示してくださいました。

十字架の死、そして埋葬に至るまでの従順です。そして、この服従には大きな力があります。

滅んでいく人には十字架は、佯狂(ようきょう)であり、従順は理解できません。

人間の理想とはこのようなものです。知的で、傲慢で、意志が強い。

一方で従順は理解しがたいものです。しかし、まさに神の御心に服従することにこそ、大きな力があるのです。

一度それを経験した者は、我がままを忘れ、神の意志を受け入れ、主が与えたものは、あなたが持っているものの中で最高のものだと、神が与えたものを信じなければなりません。

偉大な力とは従順です。今日はコンスタンチノープルの大主教聖金口イオアンの記憶日ですが、誰よりも真理を擁護し、不義を糾弾した彼は、コンスタンチノープルから追放され、厳しい試練にさらされ、追放される途中で永眠しました。

彼の最後の言葉は何だったでしょうか。「Δόξα τω Θεώ για όλα すべてを神に光栄。」

彼は不平を言いませんでした。恨まず、皇帝を呪わず、貴族を呪いませんでした。

これは彼らではなく、彼らはただ神の摂理の道具に過ぎないと金口イオアンは悟り、神に感謝したのです。

従順は感謝なしには考えられません。

従順であっても感謝しない場合、それは従順ではなく頑固です。

しかし人が従順で感謝しているとき、ここには偉大なる力があります。

私たちの克肖捧神なる神父たちはまさに感謝を伴った従順の模範を示しました。

「苦難に従えば、苦難もあなたに従う」という素晴らしい民間のことわざがあります。

神が与えてくださるものを受け入れ、感謝をもって受け入れることが必要であり、そこに大きな力があるのです。

それは私たちの信仰、服従、感謝の証となります。すべてを神に光栄!

主に感謝し、領聖後の祈りを聞きましょう。

 

 

 

2024年9月 十字架挙栄祭後の主日

 

父と子と聖神の御名によりて!

民衆は賢明に指摘しています。海の波と人々の噂は同じようなものだ、と。

つまり、波のない海を想像することはできないし、変化のない人のうわさを想像することはできません。

噂は常に変化するものであり、この噂に従ったり、その噂に奉仕したりする者は不誠実です。

例えば、福音書の中で、人間の意見、噂についてこう書かれているのは、なんと素晴らしいことでしょう。

今日、福音経の朗読の中で読まれたのは、私たちの主イイスス・ハリストスが故郷のナザレに来て、会堂に入り、聖書を読み、解釈し始めたことです。

すると、皆が歓喜の声を上げて、彼の恩寵から出る知恵に驚嘆しました。

つまり、彼から知恵が放出しており、人々はそれを喜んだのです。しかし、まもなくして

ハリストスが語られた言葉が気に入らなかった時、

彼らは皆、怒りに満ちて、彼を山から投げ落とそうとしました。

他の例をあげましょう、さらに大きな例です。

主がエルサレムに来られたとき、民衆がどのように言ったか。

「いと高き方にオサンナ、主の御名によって来られる者はあがめ褒めらる。」

しかし幾日とたたないうちに、同じ民衆がこう叫んだのです。

「十字架につけろ、十字架につけろ。」

私たちの全生涯もこのようなものです。

人の噂や海の潮の流れは気まぐれです。しかし、これらの例は私たちにもう一つのことを教えています。

私たちの主イイスス・ハリストスは、決して激怒されたことはなく、攻撃的でもありませんでした。

彼にはいつも平安があり、静寂がありました。そして、ナザレで、怒り狂った民衆が彼を山の頂上に引きずり込んで、彼を落とそうとした時も、

聖書には素晴らしく単純にこう書かれています。「しかし、彼は彼らの間を通り過ぎた」と。

静寂と平安と静けさのうちに、「彼らの間を通り過ぎられた」のです。

私たちのすべての憤りや攻撃性は、相手の悪意を強めるだけです。

静寂は偉大な力であり、古代ギリシャにおいて幸福の女神には静けさ「ティホ」という名がつけられていました。

静寂であり、静寂の中に主がいるのです。

そして預言者イリヤが神に会う準備をしていたとき、彼は天使から警告を受けました。

風は吹き荒れ、岩は砕かれ、火は燃えさかるが、主はそこにおられない。

その後、静寂が訪れ、その静寂の中に主がおられる。

今日の世界にある嵐の中で私たちの内に静寂があるということはいかに大切なことでしょう

私たちの中に静寂があるときのみ、私たちは真の意味で、祈ることができ、変わることができ、嵐を鎮めることができるのです。

私たちが嵐に嵐をかぶせると、嵐はますます激しさを増し、私たちや隣人たちを破壊してしまいます。

ですから、何かを変えたいのなら、まず自分自身を変えなければなりません、

この悪を止めたいのであれば、内なる静寂に耳を傾け、その静寂の中で神に耳を傾けるのです。

願わくは、神は私たちがこの静寂を愛し、いつも平和でいられるように助けてくださいますように。

まさに静寂と柔和さの中にこそ主がおられるのです。

「わたしに学びなさい、私は柔和で謙遜な者だから、あなた方の魂に安息を得るでしょう。わたしのくびきはよく、わたしの重荷は軽いからである。」

皆さま、そしてハリストスの聖機密を受けた方々、祭日おめでとうございます。

 

 

 

2024年10月20日 「聖致命者セルギイとワクフ 神への従順について」

 

父と子と聖神(せいしん)の御名によりて

今日、正教会は聖致命者セルギイとワクフを祈りつつ記憶します。

彼らは地上の王の戦士でしたが、天の王(神)の戦士となりました。そして致命者セルギイはラドネジの修道院長克肖捧神なる我らが神父セルギイの天の守護聖人となりました。

彼らには次のような共通点があります。

致命者セルギイと同様、克肖者セルギイは自分のいる場所、自分の民族、そして天の王、神に仕えました。

すべてが彼の中で一体となり、結合され、一体不可分でした。克肖者セルギイはシンプルであると同時に神秘的でもあります。

おそらく、最もシンプルなものは神秘的でしょう。そして神秘的なものは実際にシンプルなのです。克肖者セルギイは偉大な業績を夢見たわけでもなく、偉大な目標や使命を準備したわけでもありません。

彼は主なる神に単純に従っていたのであり、将来の計画を立てることもなく、誰かを救うこともなく、ただ彼自身でありました。

そして主は彼を目にとめ、彼を通して非常に多くの人々を救い、また今でも救っています。

人間は往々にして、自分自身について多くの夢を見たり、何かを考えたりします。

しかし、実際人間は自分自身においては無であり、その名前も無なのです。

高慢なローマの貴族であるピラトが、ハリストスに向かって、憤慨して驚いたように言ったように。

「私に答えないのか、私はお前を十字架につける権利も、釈放する権利もあるのだぞ」

それに対してハリストスは言われました、おそらく微笑みながら。「高みから与えられるのでなければ、わたしに対してあなたの権威は一つもない。」と。

信仰とは、神の摂理があると固く信じることです。しかしこれは受動的な存在ではなく、神の御心に完全に委ねることです。

克肖者ペレスヴェトとオスリャビャ。彼らは兵役を終え、痛悔と祈りの内に自分の日々を終えるために、静かな修道院に来ました。

しかし、主は彼らを見つけ、召されました。

ドミトリー・ドンスコイの軍隊の第一陣に加わり、偉大な、運命づけられた大勝利を収めました。

二つの極端を避けることは非常に重要です。一つの極端は、神があなたを何か偉大なことのために準備しているということです。

もう一方の極端は、誰もあなたを必要としていないということです。

あなたは主があなたに用意されたように準備しなければならず、私たちは自分の思い通りになるように祈るのではありません。

主は私たちに教えてくださいました。「主よ、私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」。

克肖者セルギイ、致命者セルギイとヴァクフは、私たちにこのことを教えてくれました。それは人生の神秘です。

一方で神の御心に完全に献身し、他方で自分の計画を完全に放棄し、捨て去ることです。

もしあなたがかつてこう言ったとします「主よ、私はあなたを信じ、あなたに従います、」

その時は、単に一度人生のすべての計画を捨てるだけでなく、神ご自身がすべてを成し遂げてくださることを信じなければなりません。

というのは、私たちが選んだのではなく、私たちは選ばれたのであり、私たちがこの道に立っているのではなく、主が私たちをこの道に立たせてくださったのです。

この道を歩むことはとても大切なことです。

神はすべての人に用意されたものを準備されています。最も不可能なことを受け取ることも必要なのです。

人生には、自分が想定していること以外のことがあります。

そして、主が私たちのために、私たちが自分たちのために計画した以上のものを与え、準備してくださることを信じ、喜び、準備すること。

聖なる致命者セルギイとヴァクフと、克肖捧神なる我らが神父ラドネジの修道院長セルギイの祈りによって、私たちが立っているその道において、主が私たち一人ひとりを力づけて下さり、私たち一人ひとりにおこる思いがけない出来事すべてを正しく受け止める力、主が試練を与え、それを乗り越える力を与えてくださることを信じる力を主が与えて下さいますように。

使徒パウロは的を射たことを言いました。

「あなたがたがこれまで受けてきた試練は、人間の力に比例したものでした。神はご自分に忠実です。

主はこれからもあなたの力以上の試練に合わせることはありません。逆にその試練のただ中で、その試練に打ち勝つ力を与えてくださいます。」

アミン。

 

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