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2020年3月から6月の説教

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大主教フェオグノスト座下の説教

2020年3月1日 (謝罪の主日)

 

父と子と聖神の御名によりて

 

様々な民族に、様々な時に、様々な新年の数え方がありました。誰それのところでは春から、誰それのところでは秋から、誰それのところでは冬からという具合です。様々な時に人々はこれを新年の初めと見なしていました。しかし正教徒にとってはおそらく謝罪の主日が新年の始まりでしょう。

 

一年のうちに皆多くの悪、侮辱、苛立ち、不満をため込んでしまいました。それで聖なる正教会はわたしたちを聖なる大四旬節へと、その次に復活祭へと準備しています。まさしく謝罪の主日をもって一年が開幕します。これは始めであり、あなたが神において生き、敬虔に生きるための必要条件です。己の心を最後まで清めるのは、人間にとって困難なことです。しかし人が赦し、己の心を清める時にだけ、その時だけ新しい生活が始まり、新しい年が始まるのです。赦すとは何を意味しているのでしょう。この言葉の背後に何があるのでしょう。

 

何よりもまず、赦すのは神のみです。わたしたちはただ(人の罪を)解くのであって、赦すのではありません。赦しは神からのものです。では赦すとは何でしょう。この根源は愛です。真に愛する人だけが赦すことができるのです。しかしそれと同時に赦す際には必ず罰が伴います。もし人が愛していれば、彼は要求します。そして罰、これは諭(さとし)なのです。人が(罪を)解く時、それと共に、もうこれ以上繰り返さない、と言うことを要求するのです。

 

では赦さないとはどういうことでしょうか。赦すことが出来ない理由は傲慢、エゴイズム、自己中心主義にあります。全世界が人を自分自身のうちに閉じ込める時、人が自由と自由ならずして、意識して、もしくは無意識のうちに、まさに自分を世界の中心と見なす時です。そしてもちろんこの中心から人は、彼の「偉大さ」、彼の「メシアニズム的」資質を見ない他人を赦すことが困難なのです。このような人は侮辱に陥ります。まさしく他人がしゃくにさわり、自分を憐れむことが、傲慢と呼ばれる病気の兆候なのです。

 

全ての病気に兆候があります。ある病気には発熱、他の病気には咳、第三の病気には他の症状。傲慢の兆候は、隣人のことを悪く思い、自分自身を憐れむこと、孤独と、疎外です。人が傲慢にどっぷりつかって、自分の全ての願いをもってしても赦すことができないことが、この証拠です。人は「ごめんなさい」と言うことができます。一方で彼の心は氷のように冷たいままなのです。しかし真に赦す時というのは、自分が世界の中心ではなく、自分も他の全ての人々と同様で、自分には何の主要課題もなく、他の全ての人達と同様に神の後ろを歩んでいる単なる人間だということを理解するときなのです。

 

わたしたちが、なぜ隣人を赦すことができないかを理解しようとするとき、答えはとても簡単です。自分の傲慢、自分のエゴイズム、自分の自己中心主義です。そして逆にわたしたちが愛と喜びをもって隣人をわたしたちの兄弟と見なすのなら、彼がこの傲慢に病んでいるとしても、それは彼を裁く理由にはなりません。わたしたちが腫瘍科に行く時、わたしたちは死にかかっていてベッドに横たわっている病人を裁いたりはしないでしょう。傲慢に取りつかれた人をわたしたちが見る時も同様です。傲慢は癌と同じです。ただ魂の癌なのです。つまりわたしたちは彼を裁かないでしょう。悲しみ、同情、わたしたちが体験するのはこのような感情だけです。

 

赦すことができるのは、ただ傲慢、これが病であり、この世にある全ての病よりも、最も重い病だということを理解するときだけです。癌もコロナウイルスも他の病も傲慢ほど怖くはありません。最も恐ろしいのは傲慢です。というのは、傲慢は魂だけでなく体をも殺すからです。それゆえ謝罪の主日に、わたしたちが傲慢を暴露する時でさえ、自分自身の中をさらにより一層覘き見なければなりません。残念なことに傲慢はある程度わたしたちの中にこの世でも来世でもあるのです。わたしたちの隣人も同様にこの重い病にかかっているということを認識する必要があります。その時、心には隣人に対する同情と愛が生まれることでしょう。しかし同時に常に覚えていなければならないのは、罰が伴わない善はなく、全てが許可されるという愛というものはない、ということです。

 

ただ、同情と要求をもった愛だけが、この単純で善良な真理を届けることができるのです。願わくは主が、皆さんの力に応じてわたしたちにこのことを認識させてくださいますように。一方でもしわたしたちが必ずしも傲慢を避けて通れないのならば、せめてこのために痛悔があると認識させてくださいますように。これは偉大で救いを施す機密です。

 

わたしたちは全ての罪を悔い改めます。しかし最も恐ろしい罪はエゴイズムと自己中心主義です。これは傲慢から派生したものです。主の祝福はわたしたちの上にあります。神はわたしたちとともにいます。神はわたしたちが領聖感謝祝文で読んでいるようなお方、「霊体の医師」です。それゆえ、全ての人の魂のうちにある程度存在している醜悪さを驚いたり驚愕したりしないようにしましょう。わたしたちは神のもとを歩んでいます。そして痛悔は自虐的になることや自責の念とは何のかかわりもありません。悔い改めは常に喜びです。一方で愛には常に赦しの場があるのです。アミン。

 

 

 

2020年3月11日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

アダムとエワは、善悪の知識の木から食べると神のようになる、とそそのかした蛇を信じました。しかし意に反して彼らは自分たちが裸であることを知り、楽園を歩いていた主を恐れました。そして楽園から追放されました。

 

楽園で起こったこの悲劇の続きは、二人の兄弟カインとアワェルです。彼らは捧げものを神に持って来ました。そして主はアヴェルの捧げものを善なる清らかな心から出たものとして受け取り、カインの捧げものは不適当な、善良なる心から出たものではないものとして受け取りませんでした。

 

さらに聖書にはカインの子供たちがいかに増えたかについて語られています。大変興味深く重要なのは、彼らの志向はみな技術や芸術や装飾に向けられていた、ということです。逆にアワェリの死後に生まれたシフとシフの息子のエノクは、聖書の記述によると、恃(たの)みをもって主の名を呼び始めました。今日も人類はあたかも二つの部類に分けられます。一つは手工芸や芸術に携わる部類、もう一つは主の名を呼ぶ人たち。どれだけわたしたちは祝福されていることでしょう。主はわたしたちを召し、恃みをもって、幸いにも主の名を呼ぶ可能性をわたしたちに与えられたのです。このようにして、わたしたちはシフ、エノク、アダムの敬虔なる氏族の中にいるのです。

 

誘惑者たる蛇は常に一人一人の人間の傍らにいて、アダムとエワに対するように人間に己の不義を吹き込みます。もしもわたしたちが誘惑者を信じるのなら、わたしたちは不幸です。逆に、主は近く、戸口に立っておられ、わたしたちの心をたたき、わたしたちが主に門戸を開くように求めています。わたしたちの心が主に開かれる時、わたしたちが主を呼ぶ時、わたしたちは祝福されています。一方で主はわたしたちと出会います。そして出会いの場は人の心です。わたしたちが主を呼び求める時、主はわたしたちに与えるのです。

 

主よ、願わくは、主の名を呼び求める以上の何かより偉大なことがまだあるかのように、わたしたちに吹き込む悪魔の誘惑に勝つ力を与えて下さい。

 

皆さん全ての聖なるお祈りに感謝いたします。キリル総主教聖下は修道院長であるマトシカと姉妹たちにご自分の総主教聖下の祝福と、皆さんの聖なる祈りに対する感謝を伝えるように祝福されました。是非わたしたちの心が喜ぶように。というのは、主はわたしたちを召し、わたしたちを予め選んだからです。そしてどのような憂いも、どのような暗い思いも心に入れてはいけません。そうではなく、主がわたしたちに与えた太陽の下での人生の幾ばくかの日々を、恃みをもって主の名を呼ぶためにわたしたちが捧げたことに、ただ感謝し喜ぶだけなのです。アミン。

 

 

 

2020年3月29日

 

信仰。信仰はわたしたちの生活の中の最も大きな神秘に属しうるものです。というのは信仰、これはわたしたちが天の世界と親しみ、交わることだからです。今日読まれた福音経では(マルコ9:17-31)信仰は次のような叫びの中でとどろきました。病を負った息子の父親がハリストスの「あなたは信じているか」という質問に対してこのような言葉を発したのです。「主よ、信じます。わたしの不信仰をお助け下さい」と。

 

おそらく信仰のもとに来た人は皆、この信仰に参与していること、と同時にこの信仰から離れているということを自覚するでしょう。少しでも深くこれに近づくためには、おそらく一生あっても足りないでしょう。しかし、このことについては熟考する必要があります。というのも楽園から追放されたアダムは他の何者でもない一つの理由から追放されたからです。アダムは神が彼に全てを与えて下さらなかったと疑いました。アダムは彼が受け取ることができる以上の何かがまだあると決めつけたのです。そして楽園から追放されました。

 

わたしたち一人一人が運命について、神の裁きについて自分流に愚痴をこぼします。わたしたち一人一人が何か足りないのです。信仰の初めとは、最も必要なものはすでに主があなたに与えているということを信じることに他なりません。アダムが生きて持っていた信仰の閃光、わたしたち一人一人の中にある信仰についての思い出はあります。そうでなければわたしたちはこの聖堂にはいなかったでしょう。わたしたちの一人一人が信仰の力を試しました。しかしこれはごくまれなことです。しかしそれにもかかわらず主はわたしたちに次のことについての記憶を与えているのです。つまり物、物質の性質を変える信仰は、実際に存在しているのだ、ということを。

 

しかしさらに一つの思想があります。アダムが楽園でもっていた信仰を神がわたしたちに与えなかったことにたいして神に光栄を帰すことです。なぜならわたしたちが人生を理解しないこと、わたしたちの自己愛、エゴイズム、これらとともにもしも全てがわたしたちの信仰によって成し遂げられたら、これは大きな不幸になるからです。たいへん粗野ですが、的を射たロシアの諺があります。「もしも神が悪い牧者の言うことを聞いたら、群れは死んでしまう。なぜなら牧者はしばしば自分の群れを怒鳴りつけているからだ。」ちょうどこのようにわたしたちも自分の心の中に大変多くの善くない考えがあります。大変多くの悪い願いがあります。もしもそれらが全て実現したら、不幸はどれほどのものでしょう。地上でどれほどの悲しみがあるでしょう。わたしたちが願っていること全てが叶わないことを、いかにわたしたちは神に感謝しなければならないでしょう。ここでまさに神への信頼の助けを借りる必要があります。わたしたちは仮定しますが、神は図るのです。ハリストスご自身が祈りの模範をわたしたちに示しました。この祈りはハリストスがゲッセマネの園で唱えたものです。「もし出来れば、わたしからこの杯を取り除いて下さい、しかしあなたの御心が行われますように。」これはわたしたち一人一人にとって信仰の見本です。

 

忠実に自分に次のように告白することは大変重要です。「あなたは最後まで神を信頼しますか。」「あなたはこのように言うことが出来ますか。もし出来れば、わたしからこの杯を取り除いて下さい。しかしあなたの御心が行われますように。」まさしくこれらの言葉の中にわたしたちの信仰が現れるのです。奇跡の中にでも、なにか非凡ならぬ現象の中にでもありません。そうではなくわたしたちが神を信頼しているか、主がわたしたち一人一人に与えられた歩み得る道をわたしたちは歩んでいるか、ということの中に信仰が現れるのです。

 

わたしたちが進んでいる道を行くのが辛いのは、わたしたちが神を信じていない時だけです。一方で信仰と、恃(たの)みと、希望をもって、主がわたしたちに与えて下さった道を進む時、わたしたちが打ち負かされることはないのです。なぜなら神はわたしたちと共にいるからです。アミン。

 

 

 

2020年4月4日

 

主イイスス・ハリストスはその復活後、弟子たちのもとへ来た時に、常に「衆人に平安」という言葉で説教を始められました。主はなによりも平安を望まれました。なぜなら、もし人に平安がなければ、彼には何もないからです。

 

 平安とは全世界を均衡に保つ基盤です。具体的な人間も、大地も太陽も。平安が去っていった時、天地異変が到来します。

 

 人が平安を失う時というのは興奮したり攻撃的な状態になった時です。人が恐れる時、人は平安を失います。しかしもし人が平安を失ったら、人は打ち負かされたのです。人が我を忘れてカッとなったり、驚いたりするとき、それもこれも敗北なのです。

 

人が恐れや怒りを克服するために私たちの助けとなるものは何でしょうか。愛です。おそらく一人一人が人生の中で経験しているでしょう。あなたが愛している時、あなたは恐れません。あなたが愛している時、あなたは怒りません。愛が去るとき、その時に攻撃か恐怖かがやって来るのです。そしてこのように全ては単純明白に整います。ある傑出した建築者は次の言葉をモットーとして人生を送りました。「全て必要なことは単純で、すべて複雑なのは必要ないのだ」というモットーです。

 

 わたしたちに平安と愛があるとき、私たちは負けません。もし平安と愛が去るなら、私たちはもろく、あらゆる不幸に陥りやすくなります。つまり霊的な不幸、魂の不幸、肉体的な不幸です。願わくは主が、平安を守り、愛のうちに留まれるよう、私たちを助けて下さいますように。アミン。

 

 

 

2020年4月8日

 

父と子と聖神の御名によりて

 

信仰とは、わたしたちの人生における最も奥密で謎めいた現象の一つです。信仰は人を変容させ、人を地上にいながら神の臨在を見ることができる者とします。信仰、ただ信仰だけがわたしたちを真の意味で幸せな者とします。しかし信仰とは知識の量や敬虔なる伝統や儀式のようなものではありません。信仰とは、アダム、旧約の太祖たち、預言者たち、使徒たち、使徒職を帯びた男性たち、克肖捧神なる我等が諸神父たち、致命者、新致命者たちがもっていたのと同様のものです。

 

しかしいかにして信仰は測れるでしょう。これは不可能です。わたしたちはただ信仰の現れを見ることができるにすぎません。そして、わたしたちが信仰の現れを見る時、わたしたちはいかにこれが力強い武器であるか、いかに信仰とは力あるものか、を理解するのです。

 

信仰の現れの一つは、人が神の人となるという能力です。わたしたちが信仰を理解するためにどれほど素晴らしい重要な出来事が聖書に書いてあることでしょう。かつて自分の兄弟たちから奴隷にされるために売られたイオシフは、エジプトで兄弟たちを受け入れ、兄弟たちはそれがイオシフであると分かりませんでした。そしてイオシフが兄弟たちに明かすと、彼らは驚愕しました。しかし彼らの驚愕を見て、イオシフはおそらく微笑んで言いました。「恐れないでください。なぜならわたしは神の人だからです。」(創世記37-50章)

 

では神の人とはどういう人で、どのような人でなければならないのでしょう。これは生きて、神の摂理を信じる人のことです。彼は彼に起こること全てが神の摂理によって起こるのだ、と理解しています。わたしたちにできるのはただ何かを推測し、何かを説明しようと試みることです。しかしわたしたちが理解しているのは、常にある種の奥蜜なるとばりがあり、もしもそれを取り払ったら、人は信じることをやめてしまい、ただ知るだけだということです。

 

しかし主はわたしたちからこの知識を取り上げ、わたしたちに信仰を残しました。そしてわたしたちはこの信仰において生きながら、いかに全てを感謝をもって受け止めることが重要かを理解しています。もしもイオシフが奴隷に売られなかったら、そしてもしエギペトでファラオンに次ぐ第一人者にならなかったら、飢えで死んでしまったかもしれない自分の兄弟たちを助けることはなかったでしょう。というのはハナアンの地には三年間雨が降らず、生ける者は全て死んでいったからです。イオシフは、彼が売られたのは偶然ではなかった、逆に彼は彼がエギペトの主宰になるべく定められていたのだ、と理解しました。

 

これはただ信仰の現れの一つにすぎません。しかしこれは大変重要なことです。つまり全てに神の摂理があるということです。

 

大変重要なのは、聖職者も在俗信者もポティール(ワインに浸したご聖体が入っているトロフィーの形の爵)に近づく前に、最も重要なことを行わなくてはならないことです。それは心の中に悪意や、侮辱や、妬みがなく、逆に信仰と愛があるように努めることです。そしてわたしたちの心に信仰と愛があるなら、そのときわたしたちは「神の人」とよばれる人間の状態に近づくのです。

 

皆さん全ての聖なるお祈りに感謝いたします。聖なるハリストスの機密に与った人は領聖おめでとうございます。

 

 

 

2020年4月12日 主のエルサレム入城

 

父と子と聖神の御名によりて

 

旧約、新約聖書の掟の中で、第一の最も重要な戒め、これは神と隣人を愛することについての戒めです。実際にあなたが愛しているかが判明されるためには次の質問に答えなければなりません。あなたには、愛している人に対する忠誠があるか、という質問です。もし忠誠があるのなら、愛はあります。しかしもし忠誠がなければ、これは愛ではありません。これは何か他のものです。

 

今日私達は祈りの中で主のエルサレム入城を記憶します。弟子たち、追従者たち、主を尊敬する人達に囲まれたハリストス救世主。不満があるとはいえファリセイでさえも、そして子供たちも、皆主の隣で叫びました。「至と高きにオサンナ。主の名によって来る者は崇め褒められる。」(マトフェイ21:9参照)しかしたった三日後に同じ人々が叫んだのです。「彼を十字架につけろ!」(マルコ15:13-14)と。

 

ハリストス救世主の地上の生活の最後の時、全ての人が、お弟子さんたちでさえ、最も近しく、最も忠実な人々でさえ、主を捨てたのです。ペトルは三回拒みました。神学者イオアンは彼を引き留めようとした人のもとに衣服を残して走り去りました。

 

聖書に胸を突く言葉があります。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」つまり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マトフェイ27:46)すべてこれこそ、ゴルゴファで起こったことです。

 

実に太陽のもとには何も新しいものはありません。各人の前に、毎日選択肢があります。つまり、忠実であるか、逃げ去るか、です。主が崇められる時、わたしたちは皆この光栄に与る者となりたいのです。しかし主の側で危険があると、わたしたちは、主から遠くに離れようとします。そしてこれにより自分の偽善と自分の不信をわたしたちは表しているのです。

 

しかしこれは絶望のための口実ではありません。使徒も、最も近しいお弟子たちも、同様に離れました。しかし自分の裏切りを自覚して、彼らは立ち帰りました。自分の人生によって、自分の説教によって、彼らは罪を贖い、ハリストス救世主への己の忠誠を証明したのです。

 

ゆえに、わたしたちに疑いが起こったり、わたしたちが神と共に留まることが困難になって、わたしたちが神から離れてしまったりする時、これは大変悪いことですが、しかしこれは絶望の口実ではないのです。悔い改めがあります。そしてわたしたちには、人生においても己の救いにおいても、全てのことでわたしたちに恩義がある「方」へ再び立ち返るための時間があるのです。

 

いずれの日も、いずれの時もわたしたちは、神がわたしたちを己に召して下さったことを神に感謝しています。願わくは、わたしたちが神への忠誠に留まるようにして下さいますように。黙示録の言葉を思い出しましょう。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙示録2:10)アミン。

 

 

 

2020年4月14日

 

父と子と聖神の御名によりて

 

叡智あるソロモンは次のように言っています。金と銀は火の中で試みられる。一方人間の心を試みるのは主である、と。人につきものなのは、いかなる時も人生の意味を探し求めるということです。意味はただ一つです。つまりわたしたち全ての人に、わたしたち各人に主が用意される試練をふさわしい態度で乗り切るということです。しかしこのためには信仰をもった人間であることが必要とされます。

 

昨日と今日、晩課で多難者イオフの書からのパレミヤが読まれました。イオフはその当時としては最も豊かで、尊敬されている人で、彼のもとには全てがありました。この人が試練にさらされたのです。悪魔は厚かましくも、神に向かって言いました「あなたは彼を守っている。彼に、彼の富に触れろ。彼はあなたを讃美するだろうか」と。そして主は答えました。「よかろう、わたしたちの僕であるイオフを試みてみよう。」そしてイオフは富と自分の子供たちを失い、一人残されました。彼はどのような素晴らしい言葉を発したことでしょう。これはおそらくわたしたち一人一人が覚えていて、繰り返さなければならない言葉です。「わたしは裸で母の胎を出た。裸で帰ろう。神は与え、神は奪う。主の名は崇め褒められるかな。」

 

この試練の時に、イオフにあった魂の金が現れました。この試練の時に彼は勝利者となりました。信仰、これは偉大なる力です。しかし真に信じるためには神を信頼し、従順で恭順な者とならなければならず、この信仰によってわたしたちの神への信頼と委託を証しなければならないのです。そして信仰とは偉大なる力です。なぜなら信仰者は一生に一回死にますが、不信仰者は一日に百回も死ぬからです。彼は毎日死を恐れます。信仰者はと言えば、死はただ一回だけで、早くも遅くもない、主が魂を召されるその時だけであると知っています。

 

どれほどの年月、力を人が恐れのために費やすとしても、それは主がわたしたち各人へと与えられたタラントを増やすことには用いられません。このことが今日福音書の中で読まれました。ある人には1タラント、ある人には2タラント、ある人には5タラント(マトフェイ25:14-30参照)神から与えられたタラントを増やすこと、ここに人生の意味があります。同様に、全ての人と共にわたしたち一人一人に主が用意された試練をふさわしい態度で乗り切ること、震えたり、驚いたりしないこと、逆に信頼と信仰によって入り、行き、神以外の誰も恐れないことの中にも人生の意味はあるのです。アミン。

 

 

 

2020年5月27日

 

至聖なるモスクワ及び全ロシアの総主教キリル聖下より、修道院長マトシカと姉妹たちと巡礼者に、総主教聖下の祝福とお祝いを託されました。

 

偉大なる長老オプチナの克肖者アンブローシーが設立した修道院の生活が再開してから30年がたちます。いろいろな時がありました。教会に対してもいろいろな対応がありました。しかし教会は常に生きていて、これからも生きていきます。「陰府(よみ)の力もこれに対抗でき」(マトフェイ16:18)ないのです。かつて、これですべては終わりだと思われた時期がありました。しかし実際にはこれは単に始まりにすぎなかったのです。皆さんとわたしたちはこの奇異なる、奇跡的な復興の証人となりました。

 

人生において重要なのは、信仰をなくさないことです。神の摂理への信仰、主が世界をも、個々の人間をも司(つかさど)っているということへの信仰をなくさないことです。悪魔とその手下どもは、あらゆる恐れによってわたしたちをそそのかそうと試みています。この恐れによって混乱してはいけません。わたしたちは何よりもまず信仰を保ち、主が石ころからでもアウラアムの子供たちを創りだす(マトフェイ3:9参照)ということを信じなければならないのです。

 

わたしたちは覚えています。80年代後半に修道院などというものは殆どありませんでした。しかしご覧ください、今はおよそ千もの修道院があり、非常に多くの居住者がいるのです。人生とはこのように整っていきます。昼間もあれば、夜もある。夕もあれば、朝もある。ただ覚えている必要があるのは、夜のあとには夜明けが訪れ、昼間の後には夜が来なければならないということです。このように人生は整うのです。疑ってはいけません。恐れやパニックに陥ってはいけません。信じなさい。聖堂、これはわたしたちが皆口を一つにし、心を一つにして主に向かう場所なのです。わたしたちが共にいる時、ここにわたしたちの力、祈りの力があります。主はわたしたちを戒めました。私の名によって二、三人が集まるところには私もあなたがたのなかにいる、と。(マトフェイ18:20参照)

 

神に感謝し、喜び、そして、オプチナの克肖者アンブローシーの設立した奇異なるシャマルジノー修道院がさらに幾年も、幸いな年月を生きていけるように信じましょう。神の祝福、神の助け、神の憐みが常にこの聖にして光栄かつ奇異なる修道院にあるように、悲しみも嘆きもなく、終わりなき命のあるところで、アンブローシー長老が、我等の主、イイスス・ハリストスに祈って下さることを信じましょう。神が私をここへ導かれたことを、私は神に感謝しています。

 

皆さんに堅固さと、喜びがあるように願います。そして決して憂鬱にならないように。次のことを覚えていてください。もし太陽が隠れたら、それは太陽が光を放つことをやめたということを意味するのではありません。太陽はいつものように輝いているのです。ただわたしたちがそれを見ないだけです。そして「暗黒時代」と呼ばれる時代も、太陽がなかったわけではありません。太陽は常にあるのです。主は昨日も今日も明日も同様です。このことを堅く、無条件に信じる必要があります。信仰があるとき、その時喜びと、心の中の内的な陽気さがあるのです。これはわたしたちが主に奉事するように、主がわたしたちを召したという自覚です。このことを常に主に感謝しなければなりません。

 

信仰に固く踏みとどまりなさい。何よりもまず憂鬱を避けなさい。二つの異なった恐れがあります。人間的な恐れと神への恐れです。神の恐れは救いに導くもので、神の恐れの根本は信仰です。人間の恐れは破滅に導くもので、その根本は不信です。わたしたちの素晴らしい同胞、アレクサンドル・ワシーリエヴィッチ・スヴォロフ将軍はリムン川での戦闘の前に、次のような言葉をもって兵士たちを激励しました。「兄弟たちよ、神を恐れる者は、誰をも恐れない。」なぜなら大きな恐れが小さな恐れから解放するからです。ですから常に覚えていてください。神への恐れは救いに導くものですが、人間的な恐れは破滅につながるものだ、ということを。神への恐れの前提となるのは愛です。一方で人間的な恐れの前提となるのはおべっかです。おべっかとは嘘で、偽善的で、裏切りに導くものです。わたしたちの中に神への恐れが生きている時、この恐れの中に、注意力と、善を願う心と、信仰と、愛があります。ですから聖なる救いを施す神への恐れを記憶し、保ちましょう。そして覚えておきましょう。神を恐れる人は、誰をも恐れない、ということを。わたしたちの中に皆自分の恐れがあります。ですから適宜に次のことを思い起こさなければなりません。つまり私が神以外の何かをまだ恐れているのなら、私は神を恐れていないのだ、もし神を恐れているのなら、何をも恐れない、ということを。

 

マトシカ、あなたと姉妹たち、そして、この聖なる修道院の守護天使、霊的指導司祭、善き牧者であるポリカルプ神父さんにさらなるお祝いを申し上げます。ハリストス復活!

 

 

 

妬みについて

2020年6月19日 

 

 

父と子と聖神の御名によりて

大昔から人間を動揺させていた一つの疑問があります。悪はどこから来たのかという疑問です。なぜ、完全で叡智ある神がこの世を創ったのに、世にはこれほど多くの悪があるのでしょう。その答えは聖書の中にあります。神は死を創造されなかったし、生きている人々が滅びるのを喜ばれません。しかし悪魔の妬みによって世に死が入り、悪魔の持前に属する人々が死を経験することになったのです。では悪魔の持前とはなんでしょうか。妬みです。妬み、悪魔は神を妬み、天から落とされました。妬み、悪魔は人間を妬み、人間を誘惑し、堕落させました。

今日もまさに妬みがあります。裕福な人々はさらにより富を得ようと奮起し、貧しい人々はより少なく得ようとします。皆何か足りないのです。なぜなら妬みがあるからです。というのも豊かな人というのは、多く持っている人ではなく、満ち足りている人のことをいうのです。一方で貧しい人というのは少なく持っている人ではなく、満ち足りていない人のことを言うのです。つまりわたしたちが、まさに妬みと、妬みの中に全てのわたしたちの不幸の原因が隠されているということを理解し始める時、まさに妬みが人をあらゆる不義に仕向け、人の人生を暗まし、主が与えられた幸福を持っている人を喜ぶことができなくさせる、ということを理解し始める時、私たちがこのことを理解し始める時、その時わたしたちの真に深い悔い改めが始まります。しかし、妬みの根は傲慢です。傲慢は全ての人にあります。大きい人にも小さな人にも、豊な人にも貧しい人にも。全ての人にある種、自分だけは特別だという思いがあります。そして次のことを理解しなければなりません。つまりあなたも他のすべての人と同様だと、いうことを。

ドミトリィ・ドンスコイ公の指輪に刻まれた素晴らしい言葉があります。「全ては過ぎ去る」という言葉です。「全ては過ぎ去る」という言葉は、これも過ぎ去るということです。そして人が、この世のものは全て過ぎ去るのだ、ということを理解し始める時に、人は最も重要なことを保持し始めます。では最も重要なこととはなんでしょうか。ハリストス救世主の言葉の中にこの問題に対する答えがあります。「もし人が全世界を手に入れても、自分の魂を害するのであれば、人は自分の魂にどのような値を支払わなければならないか」という言葉です。まさにこの時に人は自分の中にある価値観を再評価し始めます。というのは、人は跡形もなく消え去るのではなく、ある次元から他の次元へと移行し、地上で得た欲望または善行とともに移行するからです。妬みや悪意や苛立ちと共に永遠に行こうする人は哀れです。逆に、この世の命から出ていく時に、神が人に与えてくれたもの全てを神に感謝する人は祝福されています。そしてさらに、聖書の真福九端中に大変重要な言葉があります。「和平を行う者は幸いなり、彼らは神の子と名付けられんとすればなり。」という言葉です。私たちが平和になるとき、周囲の人たちと平和に暮らす時、その時にだけ私たちは神の子となる福楽を得るのです。これらの人々についてはかつてイオフ書で語られています。このために必要とされるのは出来るだけ妬まないこと、逆に、私たちの隣人にあるものを喜ぶことです。これらの見本は主です。あなたが隣人の喜びを喜ぶことができるとき、これはつまりあなたは神の人なのです。しかしもしそうでなければ、次の言葉があります。神は死を創造されなかったし、生きている人々が滅びるのを喜ばれません。しかし悪魔の妬みによって世に死が入り、悪魔の持前に属する人々が死を経験することになったのです。悪魔の持前に属する人とは、つまり妬む人です。これを恐れましょう。ここから逃げ去りましょう。隣人の喜びを喜ぶ喜びを学びましょう。主が私たちに与えて下さることを神に感謝し、全ては過ぎ去り、これも過ぎ去るということを心に留めましょう。

 

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