大主教フェオグノスト座下の説教
2020年1月13日
ハリストス降誕祭期末日
父と子と聖神の御名によりて。
今日はハリストス降誕祭期の末日です。しかしこれは、一年間この驚くべき、奇異なる世の救いとなる祭日についてわたしたちが忘れている、ということを意味しているのではありません。奉神礼的には、わたしたちは次の奉事に移ります。しかしわたしたちの心は常に、わたしたちが神に属するものであるということを覚えていて、神に感謝しています。そしてわたしたちは、神がわたしたちに救世主、この世の贖罪主(しょくざいしゅ)を送って下さったことを神に感謝しています。
なぜ、ギリシャ人、ローマ人、異教徒の世界はハリストスを受け入れたのでしょうか。ギリシャ人はシナゴーグを見下していて、自分たちを知恵の保持者、哲学者と見なしていました。ローマ人はこの帝国の建設者で、その当時の全ての文化的な世界はローマ人に服従していました。そしてローマ人は剣と法律でこの世界で秩序を保っていました。異教徒は自然界を崇拝していて、やはり同様に強力でした。しかし、ギリシャ人もローマ人も異教徒も全ての人がハリストスを受け入れました。
理由はたくさんあります。しかしわたしが特に注目するのは基本的なことです。つまり何にもまして、全ての民族に、全ての人に、犠牲的な愛という概念が身近なものであったということです。その愛は両親が子供のために、指導者が彼に服従する人たちのために行われるものです。愛、これは宇宙創造の基本的な法則です、そしてそれゆえに異教徒、ギリシャ人、ローマ人の世界は愛についてのハリストスの説教を受け入れたのです。
しかしさらにハリストスを作り上げる第二の大変重要なものがあります。それは単純さです。神学者はこの単純さを破壊しようと大変労苦しました。彼らは長いこと複雑なことについて論争しましたが、民衆は単純なハリストスを受け入れました。ハリストスの手は人々に延ばされていて、一人一人がハリストスの次の言葉を聞いています。「労苦するもの、重荷を負うものはみなわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が謙遜な者だから、あなたがたの心に平安を得るでしょう。」
単純さ、これは建築の主要な性質で、全ての天才的な決定は、常に大変単純なものなのです。しかし、単純さにたどり着くためにはたいそう自分自身に対し労しなければなりません。自分からイメージを多く取り除く必要があります。魂の化粧、道徳的な化粧、その他の化粧を自分から多く洗い流さなければならないのです。その時はじめてわたしたちはこの単純さにたどり着きます。
人生の中には多くの悲劇があります。しかし死、これは不可避なものです。どんな年齢になって死んでも、人が死にかかる時、これは悲劇です。しかし全ての人は死ぬべき存在なのです。同様に全ての人は病気になります。金持ちは貧乏になります。貧乏人が金持ちになります。全てこの世にあるものは過ぎ去っていきます。
しかし一つの、最も大きな一つの悲劇があります。それは人が生涯にわたってイメージの中で生きていたということです。誰かのイメージ、警官のイメージとか、作家のイメージとか、アーティストのイメージとかいうように、人は生涯イメージの中に生きていたのです。そして人は生涯敗北しました。彼の人生は終わりました。しかし人生は始まっていませんでした。そして重要なのは、聖書には単純さの概念があるということです。これは命の法則で、これを我等が主イイスス・ハリストスはわたしたちに与えて下さいました。重要なのは単純さにたどり着くことです。単純さ、これは土台です。この上に複雑なものは全て建設されるのです。しかしこの土台がなければ、単純さがなければ、どのような建物も建設することはできません。
もしも、この世で何者にかになるために、何かのために苦労する必要があるなら、何にも増して自分自身になり、自分を知り、自分を発見し、自分自身である必要があります。これは最も困難で、最も大切で、もっとも基本的な課題です。一方で自分自身になっても、人は自分に驚いたりしてはなりません。人は自分を恥じてもいけません。しかし自惚れしても、自分を崇拝してもいけません。人はただ主が創造して下さったままの自分を認識しなければならないのです。これが全ての他の建築物が建設される土台であり、まさに聖書においてのみ、ハリストスにおいてのみ、わたしたちはこの単純さ、この美しい単純さ、この最初に創られた単純さへとたどり着くことができるのです。なぜなら主は一人一人の人間を麗しきものとして創造されたからです。各自に己の美しさがあります。人はこの美しさを発見し、人は神が人にまさしくこれを与えて下さったことをただ神に感謝しなければなりません。しかし他の人に対して高ぶってもなりません。他の人にも神は他のものを与えたのです。一人一人の人間の中に何か神的なもの、何か麗しきものを見る能力、ここに、ハリストス教の本質があります。そしてわたしたちがそのように生きている時、その時わたしたちの人生には決して悲劇はないでしょう。病があっても、死があっても、悲劇はないでしょう。なぜなら私たちは迷子にならないからです。わたしたちは自分を発見しました。自分自身になりました。まさしくこの状態で最期の審判においても神の前で立つのです。
皆様全ての聖なるお祈りに感謝いたします。ハリストスのご聖体を領けられた方おめでとうございます。
2020年1月15日 サーロフの聖セライィム祭の説教
父と子と聖神の御名によりて。
聖性には木全体に栄養を与える、一つの根があります。この根とは謙遜です。謙遜なしには一つの善行もあり得ません。愛でさえ、謙遜なしにはあり得ません。傲慢な人は他の人々を愛することはできません。彼は自分だけを愛しているのです。ただ謙遜な人だけが、他人を愛することができ、神を愛することができ、勇敢で強くあることができるのです。謙遜、これは木全体を養う根本的なシステムなのです。
しかし全体を破壊する一つの悪があります。謙遜が全ての善行を満たすように、妬みも、もしそれが存在しているのであれば、全ての善行を破壊します。妬みがあるときには一つの善行もあり得ません。白い妬み(いい意味での妬み、うらやましい等)があるという人がいます。白い妬みはありません。妬みはいつも黒い(悪い)のです。
あなたは隣人の喜びを喜ぶことが出来ますか。もしあなたが隣人の喜びを喜ぶことが出来るのなら、つまりあなたは確かに妬みなしで生きているのです。しかしもしあなたがこれを喜ぶことが出来ないのなら、つまり妬みが人間を腐食させているのです。妬みは錆に似ています。錆が金属を腐食させるように、妬みも人間自身を腐食するのです。
成聖者金口イオアンは妬みを次のように定義しています。「妬みこれは隣人の平穏を悲しむことだ」と。隣人が良い状態にいる時、人は不満なのです。そして逆に謙遜な人は隣人の喜びを喜んでいるのです。
今日は偉大なるサーロフの克肖者、奇跡者聖セラフィムの記憶日です。彼にはどれほどの喜びがあったことでしょう。どれほどの謙遜があったことでしょう。どれ程の柔和さがあったことでしょう。どれ程の喜びをもって全ての人を迎えたことでしょう。彼は言いました。「我が喜びよ、ハリストス復活。」彼は喜びから輝きました。何故なら彼は謙遜で柔和で、妬まなかったからです。
霊的生活についての論争や会話が起こるとき、いつも人々は霊的生活を何か特別な複雑さ、何か神秘的な示唆として理解します。しかし実際にはそれはありません。聖性と霊的生活の基本、これは謙遜です。そして最も恐ろしい病、伝染病、毒、これは妬みなのです。
もしも人が遜って、隣人の喜びを妬まないのなら、そのような人は聖性の道、神の国に導く道の途上に立っています。そして全て他の物は単にあてがわれるのです。まさにこれらが、聖性と呼ばれる建物の礎石なのです。この礎石も建物の土台の中に立っているのです。
願わくは、サーロフの克肖者、奇跡者セライィムと全諸聖人の祈祷によって、主が私たちに喜びと謙遜を味わわせて下さり、妬みから免れさせて下さり、隣人の平穏に対する妬みを喜びに変えて下さいますように。というのも、こう言われているからです。「喜べよ、爾等にまた言う、喜べよ。」これはハリストス救世主の言葉です。アミン
2020年2月2日
使徒の書簡はティト、ティモフェイ、コリンフ人、ガラティヤ人に向けられていますが、すでに久しくガラティヤ人、コリンフ人はいません。これらの書簡は私たちに、私たち一人一人に向けられています。そして私たちはこれらの書簡をティモフェイのため、コリンフ人のためではなく、あたかも私たち自身のために書かれたかのように読まなければなりません。というのも使徒パワェルは人がどのような時代に生きているかということには関係なく、一人一人に向けて書いているからです。この書簡に書いてあることを注意深く読まなければなりません。例えば、今日の書簡(1ティモフェイ4:9-15)では次のような短い一節があります。「怠るなかれ」つまり「あなたの中に生きている自分の賜物を」を軽んじないで、用いなさい。これには細心の注意を必要とします。
一人一人の人間に主はその賜物を与えました。しかし全ての人がこの賜物を用いているわけではありません。人はしばしば隣人にある賜物を妬んで、主が与えて下さった自分の賜物を軽視しています。ですから使徒パワェルは言っているのです。「あなたの中に生きている自分の賜物を軽んじてはいけません」と。
私たちがこの賜物を軽視するとき、私たちは自分を信者と呼びながら、神の賜物を拒否します。一方でこれによって主が私たちに与えて下さった善行を行う機会をも拒否します。私たちがこの賜物を軽視するとき、私たちは次のような聖書の譬(たと)えの中の金持ちに似ています。金持ちは多くの富をため、自分のためだけに巨大な倉庫を建設し、このようにして神の賜物を軽視しました。それで彼は言われました。「愚か者よ、明日お前は死ぬだろう、これらはすべて誰のものになるのか。」(ルカ12:16-21参照)
常に覚えていなければならないのは、主が私たちに与えて下さった賜物は毎日奮起しなければならないということです。ここに私たちの祝福があります。まさしくこのことをタラントの譬えで言っているのです。(マトフェイ25:14-30)召使の一人に主人は一タラントを与えました。他の召使には三タラント、そして他の物には五タラント与えました。タラントを増やした人は主から彼に与えられた賜物を奮起し、さらに多くのタラントをもらいました。
大きい賜物、小さい賜物というのはありません。全ての賜物は偉大なのです。ただ賜物を増やす人々がいる一方で、増やさない人々もいます。神に感謝し、喜び、自分の賜物によって多くの人々に与える人々もいれば、そのことを忘れて、侮辱、妬み、他のコンプレクッスに陥る人々もいます。これらは人間を破壊するものです。
かつて私が何回か視覚聴覚障害者の家で奉事した時、先生や子供たちと交流しました。私は視覚聴覚障害者にさえ主が何かの賜物を与えて下さっていることに驚きました。その賜物を育てることが出来る人はある種の美しさ、私たちに理解できない力を帯びているのです。
目の前にこのような例があるのですから、目の見える人、聞こえる人、話すことが出来る人は、このような賜物を自由に持っていることを喜ぶことができます。そして恥をかくこともできるのです。というのもこれらの賜物を持っていながら、それらを増やさず、主が与えて下さった賜物について怠るからです。
聖書全体はまさにここ集約されます。つまり主が私たちに与えて下さった賜物を増やすということ。そして聖使徒パワェルがティモフェイに向けていった言葉「あなたの中にある自分の賜物を軽視してはいけません」という言葉に集約されているのです。
願わくは私たち一人一人が賜物を増やすことを神が助けて下さいますように。軽視し、自分の怠慢によって、神を悲しませないように。神は万全をもって完全なる愛と共に私たち全てに賜物を与えて下さいました。私たちが見えず、聞こえず、理解しないのは私たちの罪です。というのも人生で最も重要なのは、私達が何のために生きているかを理解し、賜物を発見し、それを増やし、最期まで己の人生の道を歩み、私たちがしなければならないことをし、地上から去るとき、主が命を与えて下さったこと、神の賜物を増やす可能性を与えて下さったことを神に感謝することだからです。というのもあの世で私たちはただ一つのことを質問されるからです。「あなたは自分の道を歩んできましたか。あなたはしなければならないことをしましたか。あなたに与えられた賜物を増やしましたか。そしてこの賜物を豊かに人々と分かち合いましたか。」と。
願わくは主は私たちにこの単純で、明瞭で、祝福された行いを助けて下さいますように。アミン。
2020年2月5日 ザクヘイの主日
父と子と聖神の御名によりて。
聖大四旬節は受難週間と共に一か月半続きます。そしてこれに向けた準備は一か月前から始まります。この主日ではすでにザクヘイについての聖書が読まれました。そしてその次に税吏とファリセイについて、放蕩息子について、最期の審判についての聖書を聞きます。そしてついに謝罪の主日を迎えます。しかしまさにザクヘイについての聖書朗読から私たちは大斎、聖大四旬節への準備を始めるのです。
聖書の朗読には全て最も深い意味が込められています。それは、形式や何かの重荷や枷(かせ)としてではなく、私たちの霊的な成長と救いのための必要条件として、私たちが正しく斎を受けとめるように、私たちを備えるものです。
ザクヘイについての聖書に先行しうるのは授洗聖イオアンの説教の次のような言葉です。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マトフェイ3:8)悔い改めには実がなければなりません。そして一人一人に彼自身の実があるのです。ザクヘイが、主ご自身が彼のもとに来るという栄誉を受けた時、周囲の人々はハリストスを裁きました。「彼は誰のところに行ったのだ。彼は罪人で、汚れて、私たちの民族とは相いれない人のところに行った。」これに対するザクヘイの反応は興味深いものです。名誉と理解してもいいでしょう。そしてこの人は心が痛みました。彼は自分のせいで主が誹謗されているのが分かったのです。この時点で彼自身の罪を誰も暴露しませんでした。彼には周囲の人々から何のクレームもつけられていませんでした。しかし彼は、主が彼のもとに来て、このために主が裁かれたということに心を痛め始めました。そしてこのことがザクヘイをあの素晴らしい行いへと奮起させたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ19:8)彼は一瞬のうちに自分の全ての財産を拒みました。なぜならまさに彼のせいで主が誹謗されていることを理解したからです。
私たちにとってこのことを理解することはいかに重要なことでしょう。光栄について言いながら、私たちは次のように唱えます。「我等に非(あら)ず、主よ、我等に非ず、乃(すなわち)爾の名に光栄を帰せよ、」(聖詠113:9、詩編115:1)一方で私たちのせいで主が誹謗され始める時というのはどれほど恐ろしいことでしょう。しかしそれもありうるのです。私たち一人一人が、主が誹謗されるきっかけを与えているのです。そしてザクヘイは私たち皆にとって、主が私たちのもとへ来て、主が私たちのもとにいて、私たちが主と共にいることをいかに大切にするかという模範を与えています。私達の悔い改めとは、主が私たちのせいで誹謗され、あざけられ、侮辱されている、ということを自覚することにあります。
願わくは主は私たちに、各自が自分の場所で、ザクヘイが見られていたように、私たちも見られているということを常に理解させて下さいますように。ザクヘイのもとに主が行く時、ザクヘイはハリストスのもとへ行きます。全ての人は思います。「主は誰のもとへ来たのか。この悪党のもとに来たのか。」と。自分をこのように自覚している人は誰でも、悔い改めの内に言いましょう。「主よ、私のもとにあるものは全て与えます。ただあなたの名が誹謗されませんように。」アミン。
2020年2月18日
人間の性質は弱く、ただ神の力だけがわたしたちを強めることができます。「我を爾の顔より逐(お)ふことなかれ、爾の聖神を我より取り上ぐることなかれ。」(聖詠50:13、詩編51:13)わたしたちが持っているもの全て、これは神の恩寵です。全て悪いもの、これはわたしたちからのものです。ただ単に強く祈るだけでなく、正しく生きなければなりません。それは聖神がわたしたちから離れていかないためです。というのも聖神がわたしたちを見捨てる時、悪魔の罠だけでなく、単純なごく小さな人間的な不幸の前においても、誰も持ちこたえることができないからです。
ソ連の無神論の時代でさえも、人々は言いました。「気落ちしないで」「気合を入れて」彼らは自らこのことを告白していました。というのも気(神(しん・霊))なしにはわたしたちは何者でもない、ということを理解していたからです。恩寵が使徒たちを満たした時、彼らはいかに強く、大胆不敵だったことでしょう。また致命者や克肖者や成聖者たちはいかなる力と強さを持っていたことでしょう。しかし彼らは知っていたのです。これは神の力だということを。聖神降臨の前と後では使徒たちは別人でした。前は弱さを身にまとっていましたが、後には力強く、打ち勝ちがたい者となっていくのです。
人間が自分に属さないものを自分に帰すことを始めるや否や、神を悲しませます。恩寵が人に強さと祝福を与えるのです。それは後に人が通らなければならない道のりを通るためです。ですから神が力を与えて下さることを神に常に感謝しましょう。そしてわたしたちがある状況において憂いたり戸惑ったりしない時に、恩寵が作用するこの瞬間をわたしたち一人一人が覚えていることを神に感謝しましょう。しかし、わたしたちが自分を恃(たの)みにしている時、私達は弱く、卑小で、下らなく、役立たずな者となります。わたしたちは恩寵によって生きているのです。そしてこの恩寵を神に感謝しましょう。アミン。
2020年2月20日
至聖三者セルギイ大修道院キリル長老の永眠記憶日の斎の説教
通常人が死ぬとき、「彼はわたしたちのもとから去っていった」と言います。しかしキリル神父についてはこのようにいうことはできません。神父はどこにも去りませんでした。彼はわたしたちの中に留まり、生きています。わたしたち一人一人が、人生においてこの人がいた、ということ、そしてこの人がわたしたちを自分の魂に入れてくれたということを、その人なりに限りなく神に感謝するのです。
キリル長老には人々に対する特別な愛がありました。彼の魂は広大で、全ての人を収めました。聖人も、罪人も、義人も、不義なる人も。長老は一人一人の人間に対して同じ愛と注意力をもって接しました。長老にとっては、長老に痛悔した総主教聖下が、見習い修道士や、長老の部屋に来る在俗信徒より上だということは少しもありませんでした。全ての人に対して長老は愛をもって接したのです。
時に多くの人にさえ次のような妬みがあります。「しかたない、こんな人なんか。でも長老はいかにしてこんな人を受け入れるだろう」と。しかし長老は実際に全ての人を受け入れました。おそらく長老が特に嬉しいのは、わたしたちがほんの少しでも彼に倣った時、わたしたちも自分の中に人々を受け入れ始める時、人々を愛し始める時でしょう。そして長老はおそらく、自分に倣ったわたしたちを見た時にその善良な、極めて美しい笑顔でほほ笑むことでしょう。
主は長老の魂を「病も悲しみも嘆きもなく、ただ終わりなき命がある」ところに安息せしめたということを確信し、知っています。長老はわたしたちと共にいて、わたしたちの喜びを喜び、わたしたちの悲しみを悲しんでいることを経験上わたしたちは知っています。わたしたちから必要とされることはただ一つです。このような賜物がわたしたちにあった以上、つまりわたしたちがこの人の隣にいた以上、わたしたちは百倍もの実を結ばせ、魂を広くし、裁きを少なくし、理屈を少なくし、より多くの善を行い、より大きく自分を人々のために開かなければならない、ということです。
単純な真理を理解する必要があります。わたしたちは受け入れる分だけ生き、与える分だけ自分になすのです。隠したものはなくなりました。与えたものはあなたのものです。
このような人がわたしたちの隣にいたということを、神に感謝しなければなりません。彼は去っていったのではありません。彼は神の目前に立っているのです。わたしたちは信じています。わたしたちを愛し続け、わたしたちのために祈って下さる憐みを主が長老に与えたということを。ハリストス復活!!
2020年2月25日
モスクワ及び全ロシアの府主教成聖者アレクシイの記憶日
父と子と聖神の御名によりて。
今日わたしたちは祈りをもってモスクワの府主教、成聖者アレクシイの記憶を行います。わたしたちが成聖者アレクシイを思い出す時、ラドネジの克肖者セルギイをも思い出さずにはいられません。彼らは、「互いの重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、ハリストスの律法を全うすることになるのです。」(ガラティヤ6:2)という言葉をまさしく実現して、お互いにたいそう密接かつ分かちがたく結ばれていました、成聖者アレクシイと克肖者セルギイは同時代人で、ロシアが一つの国家として存続するか否かという運命が決まった時代に生きていました。そして彼らが祈りの転達と自らの言葉において成し遂げたことのおかげで、私達は今日その後継者となったのです。
今日わたしたちはモスクワ及び全ロシアの総主教アレクシイ二世聖下を祈りの中で記憶しています。聖下も同様に90年代そしてそれ以降の困難な動乱時代に教会の舵をとっていました。この地位に他の人が立つことは想像しがたいことです。聖下の中にはどれほどの知恵と、人々と神への愛があったことでしょう。聖下は実にかつても今も主の前でわたしたちのために転達者なのです。聖下は大変賢明に教会の舵をとったので、世の人々はみな聖下に対して限りない尊敬をもって接しました。信者も未信者も、イスラム教徒でさえも聖下のことを自分のお父さんと呼んでいたのです。これは震え、驚くべきことです。聖下はわたしたちに、神の前での歩み方と、神と教会と人々に対する限りない愛の模範を残しました。今日わたしたちの前に聖下が、彼の道が、彼の言葉が、彼の生活があります。もしわたしたちが聖下を記憶し愛しているということについて語るのなら、わたしたちは多くの面で、聖下の柔和さ、謙遜、知恵、教会と神と人々への愛に倣わなければなりません。聖下に永遠の記憶と天国を願います。わたしたち皆に対しては平安と平穏と、相互愛、また教会と神への愛のうちに神の前を歩めるように願います。アミン。








