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2019年1月から7月の説教

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セルギエフ・ポサドの大主教

フェオグノスト座下の説教より

 

2019年1月2日

 

 (クロンシュタットの)イオアン神父の全生涯は奉仕(務め)でした。克肖者に読まれる聖書ではこのようにいわれています。「あなたがたの善行を人々が見て、あなたがたの天の父が崇められるように、あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」そして「山の上に立っている町は隠れることができません。」すべてこれらのことは義なるクロンシュタットの聖イオアンについて言われたことなのです。

 

十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて主は聖イオアンを通して奉仕の模範を私たちに表しました。「奉仕する、務める(служить)」という単語のなかに、私たちは「生きる(жить)」という言葉を聞きとります。奉仕するために、私たちは生きているのです。クロンシュタットのイオアン神父の奉仕の例は私たち一人一人にとって重要です。一人ひとりが自分の場所で、役人、聖職者、どのように労苦し重荷を負っている人も、奉仕として自分に課せられた従順を果たさなければならないのです。なぜならただ奉仕の中でのみ私たちの命は開花するからです。

 

人が奉仕をしないとき、その人は生きていないのです。生きるために享楽にふけらなければならない、というのはすでに多くの年月説かれている衰退した理論です。おそらく享楽にふけって幸福な人は誰も見たことがないでしょうが、私たちは幸福な奉仕者を見てきましたし、知っているのです。そして私たちには選択肢があるのです。奉仕して生きるか、自分の気まぐれな欲望と肉欲を満足させて自分の命を無駄遣いするか、という選択肢です。主は私たちに命と力と健康を与えて下さいました。私たちはこれを尊重していません。これはただ奉仕のための手段です。

 

義なるクロンシュタットの聖イオアンは私たちに真実の人生がどのようなものであるか、奉仕とはどのようなものかを完全に示して下さいました。願わくは彼の祈りによって主が私たちの心を温め、私たちの目を開いて下さいますように。それは私たちが奉仕の高み、奉仕の喜び、奉仕の幸福を見るためです。その時、私たちは真に幸いな者となるのです。私たちは幸せになるでしょう。なぜなら私たちは奉仕するからです。アミン。

 

 

2019年1月9日

 

父と子と聖神の御名によりて。

ハリストスの降誕は奇異にして、超自然的で、それと同時にとても単純で私たちに近しいものです。

 

ハリストス救世主は私たちにとって単に救世主、神であられるだけでなく、さらに謙遜の規範でもあります。主はその降誕の時から私たちに謙遜の模範を与えています。どこかの裕福な家でもなく、宿屋でもなく、家畜がいる飼い葉おけの中に世界の王、救世主、ハリストスはお生まれになったのです。

 

私たちは次のことを過少評価しています。つまり、私たちの人生の中で多くのことが傲慢によってなされているということを、です。傲慢はたんに人を害するだけでなく、人を殺します。ハリストスは私たちに謙遜の規範を示しました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしに学びなさい。」(マトフェイ11:29)私たちはこの言葉を呑み込み、話します。そしてこの言葉は一方の耳に入り、他方の耳に抜けていきます。しかし、主はただ一つのことを言っているのです。つまり柔和さと謙遜を学びなさい、ということを、です。

 

まさに傲慢が、私たちの太祖アダムとエワに主の戒めを犯すように仕向けました。まさに傲慢が、カインがアワェリを殺すように促しました。その時から人は人を、国家は国家を互いに妬み、互いに戦い、互いに殺すようになったのです。そしてすべてこれは傲慢によることです。ハリストスは世が変わるようにこの世に来ました。しかし世は変わろうと望んでいません。多くの誘惑する人々は言います。「もしこの世の中で、何も変わらないのであれば、なぜ主は来たのだ。以前と今は同じだし、以前に殺人があったように今も殺人はある。以前に裏切りがあったように、今も裏切りはある。」彼等にはこう答えなければなりません。「主が来たのは私たちに謙遜と柔和の規範を示し、与えるためです」と。というのはただ柔和と謙遜を通して、私たちは神に近いものとなり、私たちは神化していくのです。しかし傲慢はどこか人間の奥深くに住んでいます。人が何かの器官をえぐり取ることが出来たとします。足や手を切り落とすことが出来たとします。しかしそれでも傲慢を切り落とすことはできません。私たちの全存在は傲慢によって養われているのです。私たちの生涯の中で行われる全ての悪は、まさに傲慢から来るのです。全ての他の所産、貪欲、淫欲、権威欲、他の罪、これらの根は傲慢にあるのです。そこで主は柔和の模範を与えました。柔和な救世主ハリストスです。しかし私たちは柔和になりたくないし、なることはできないのです。なぜなら傲慢が私たちの善なる全ての願いを打ち負かしているからです。しかし私たちは柔和で謙遜な人々がいたこと、そして今もいることを知っています。その例が克肖者セルギイと克肖者ステファンです。

 

克肖者ステファンはどれほどのことを耐え忍んだでしょう。彼はこの地にやって来て、誰を妨げたというのでしょう。彼は人間の傲慢を妨げたのです。というのは謙遜の規範だったからです。ステファンはずっと昔にこの地から去り、今も克肖者セルギイと共にかの地、至上者の宝座のもとで私たちのために祈っています。そして彼等はわたしたちに謙遜の規範を与え、柔和で謙遜になることができる、ということを示したのです。

 

一方で克肖者セルギイはどうでしょうか*1。彼は自分のお兄さんが「誰がここに最初に来たのだ。誰がここの頭なのだ」と大声で言うのを聞くや否や、論争をしないで、静かに柔和に出ていったのです。そして静かに柔和にキルジャチで暮らし、そこに修道院を築いたのです。そしてモスクワの府主教成聖者アレクシイの命によって、ようやくセルギイは自分の修道院に帰ったのです。

 

このような例は多くあります。全ての聖人に様々な偉業があります。しかし全ての聖人に固有なのは一つ、謙遜です。彼らはハリストスを愛し、謙遜と柔和を学びました。そして今聖人たちは私たちの人生を照らし、成聖し、私たちも悔い改め、傲慢から癒され、ハリストスから柔和と謙遜を学ぶことができるという希望を与えているのです。そしてその時私たちは、この世でも、来世でも私たちの魂に平安を得るのです。アミン。

 

*1 克肖者セルギイは、一人森の中で隠遁していたが、彼のもとに集まってきた弟子のたっての願いで、修道院長となった。しかし、聖セルギイの兄があとからやってきて、自分が修道院長だと主張した。その際セルギイは言い争いをせず、黙って自分の修道院を去っていった。

 

2019年1月22日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

ハリストス救世主は私たち一人一人に向かってこう言っています。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マトフェイ11:30)これは単純ですが、同時に謎めいた言葉でもあります。軛が負いやすく、荷が軽いということがいかにあり得ましょうか。

しかし人生においては、誰一人として、この世で自分よがりに、自分自身のために生きる人はいない、のです。一人一人に自分の軛があります。そして一人一人に自分の荷があるのです。そして人生の中で最も重要なのは、あなたに与えられた軛と荷を受け止めることです。

 

人間の中に、おそらく最も厭うべき性質があります。妬(ねた)みです。妬みがあると、人は安心して眠れません。ソロモンは言っています。「働く者の眠りは快い、満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。」(コレヘトの言葉5:11)つまり、妬みのために人は寝入ることができないのです。もしかしたら人は食べ飽きているかもしれません。しかし彼にはそれも少なく感じられるのです。

 

「幸福(счастье)」と言う単語の語源は「部分、持ち分(часть)」です。これが神からあなたに与えられたあなたの持ち分なのです。これがあなたの軛、あなたの荷なのです。自分の持ち分(часть)、運命(участь)、自分の幸福(счастье)を受け取り神に感謝する人は祝福されています。

 

神秘的で謎めいた思想が次の諺に表現されています。「災いに服従しなさい。そうすれば災いがあなたに服従するでしょう。」ただ、主があなたに与えたものを受け止める時、あなたは真の意味で幸福になります。そして、主があなたに与えたものを受け止めないで、あなたが感じているように、あなたが自分よりもっと大きく、もっと良いものを持っている人を妬む時、あなたは自分自身を破壊してしまいます。なぜなら幸福とは、あなたに多くある時ではなく、あなた自身が充足していて、あなたが感謝に満ちている時だからです。持っているものが少なくても、あなたが感謝して幸福であることもできれば、逆に多くても不幸で、もっと持っている人のことを妬むということもあるのです。これは人生の中で最も複雑で、最も困難なことです。つまり主があなたに与えたことを受け止めるということです。しかし常に次のような質問が起こります。「主が私にそれを与えたのだろうか。私が受け止めているのは、主が実際に与えたものだろうか。それとも私は間違っていたのであろうか。」この質問に答えるには、落ち着いて、あくせくせず、私たちの上に、上からではなく、内側からご覧になっている方がおられる、ということを信じる必要があります。主は私たちの上におられますが、同時に私たちをご覧になり、存在するものの中から最も良いものを私たちにお与えになっているのです。しかし享楽にふけり、満腹の状態にあるためにそれを私たちに与えるのではありません。そうではなく、私たちが学び、力から力へと進み、神(しん)において成長するために主はこれを与えるのです。というのは全ての人の人生は、完全な権力を持っている人にとっても、十分にお金がある人にとっても試練なのです。しかしこれは単に試練にすぎません。その人がより優れていて、より楽である、と思うような気がするだけなのです。もしあなたがその人とより親しく知り合いになって、彼の魂を覘(のぞ)いたら、そこに見るのはひどい恐怖と欲望で、あなたは震え上がり、あなたの方がはるかに簡単で単純だということが分かるでしょう。

 

このような古くから伝わる有名な話があります。ある人が自分の十字架の愚痴をこぼしていました。「重荷だ。この十字架を背負うのはとても重荷だ。」主は言いました。「それではあなたが好きな十字架を選びなさい。」そしてその人は力に応じて十字架を選び始めました。そこには木や、鉄や、金や、銀の十字架がありました。彼は長い時間をかけて選び、長いこと歩いていました。その後やっと選びました。主は言いました。「これがあなたの(背負っている)十字架です。」

 

あなたのものはあなたからどこへも去って行かない、ということを信じなさい。あなたに与えられたことに忠実でいて、そのことに感謝しなさい。そうすればその時それは増え、著しく増えることでしょう。そしてあなたは世々に崇め褒められるでしょう。アミン。

 

 

 

2019年2月24日 放蕩息子の主日の説教

 

先週の日曜日には税吏とファリセイについての聖書の箇所が読まれました。この箇所の主たる教訓は、神は不遜な義人よりも悔いる罪人の方をより喜ばれる、ということでした。

 

今日は放蕩息子についての聖書が読まれました。この物語、このたとえの主たる教訓は、妬まないこと、です。悪魔は楽園でアダムとエワを妬みました。カインはアワェルを妬みました。全ての悪の基はまさに妬みにあるのです。この福音書のたとえでは、隣人の喜びを喜ぶことができない人間の魂の歪みが鮮明に示さています。同情できる人は多くありません。助けることができる人は多くありません。しかしあなたの喜びを喜ぶことができる人はさらに少ないでしょう。隣人の喜びを喜ぶことができる人とは、妬まない、まさに神の人です。妬みこれは錆です。錆が鉄を腐食させるように、妬みもこの重い病気にかかっている人を腐食するのです。

 

 願わくは、来るべき大斎にも、私たちの残された人生においても、隣人の喜びを喜ぶことを学ぶことを主が助けて下さいますように。妬んでいるという思いに捕らわれた自分を発見したら、何よりもまず、このことを痛悔し、悔い改める必要があります。私たちが隣人の喜びを喜ぶことができた時には、主の与えられた賜物のために喜ぶことができるのです。というのも、隣人のことを喜ぶことほど大きな喜びはないからです。自分のためではなく、隣人のために喜ぶのです。皆さん全てに復活日のお祝いを申し上げます。ハリストスの聖機密を受けた方々もおめでとうございます。

 

 

 

 

2019年7月14日 神への信頼について

 

父と子と聖神の御名によりて

 

使徒パワェルは言っています。「ギリシャ人は奇跡を求め、ユダヤ人はしるしを求める」(第1コリンフ1:22)と。人は奇跡を渇望しています。人は奇跡を欲しがります。人は奇跡を見るために地球を半周する用意があります。しかし人は次のことを忘れています。つまり奇跡とは人の命であること、奇跡とは彼の周囲におこるすべてのことだと。そしてどこにも行く必要はないのです。すべてはあなたとともにここ、すぐ隣にあるのです。なぜなら「神の国」はあなた方の中にあるからです。

 

今日読まれた福音書で、私たちは再び次のような話を聞きました。ローマの百人隊長が自分の息子を癒して下さるようにハリストスに懇願しました。主は答えました。「よろしい。」しかし百人隊長は突然次のように言いました。「主よ、その必要はありません。ご足労には及びません。私も権威の下にあるものですが、自分の兵隊に『行け』と言えば、彼らは行きます。ただおっしゃってください。そうすればあなたの言葉の通りになるでしょう。」主は彼の信仰に驚いて彼に言われました。「あなたが信じたようになるように」そして少年は癒されました。(マトフェイ8:5-13参照)

 

しかし私たちの生活を顧みる時、どれ程多くの人々が癒しを求めて、それを得ないでしょう。どれ程の人々が瀕死の病にかかって死んでいくことでしょう。人が求め、信じているのにそれを得ないという例が、どれ程私たちの生活の中にあることでしょう。人々のうち誰にも信仰がないとでもいうのでしょうか。いいえ。ハリストス救世主ご自身が私たちに謙遜の模範を示したのです。ゲッセマネの園での主の祈りがそれです。「主よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」しかしさらに付け加えました。「しかし、あなたの御心が行われますように。」(マトフェイ26:39参照)そしてピラトがハリストスに「わたしは十字架につける権威をもっているのだ」と言った時、主は答えました。「わたしは、我が天の父に頼むことができる。そうすれば父は十二軍団以上の天使を送って下さる。」(マトフェイ26:53参照)、と。しかし主は頼みませんでした。ユダヤの町の一つでハリストスとお弟子たちが受け入れられず、お弟子たちが「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、この愚か者たちを焼き滅ぼしましょうか」と言った時、主は言われました。「あなたたちは自分がいかなる神(しん)に属しているか知らない。」 (ルカ9:54,55参照)と。

 

私たち皆が覚えていなければならないのは、私たちは奇跡にふさわしくないということです。主は奇跡を起こすことができますが、この奇跡は私たちのためになるでしょうか。それゆえ、人は問うことができるのですが、同時に人は自分に言わなければなりません。「主よ、しかしあなたの御心が行われますように。」「天主経」の祈りでもわたしたちはこのように祈ります。「願わくは爾の旨は天に行わるるが如く、地にも行われん。」この中に美しさがあるのです。なぜなら私たちはここでハリストスと共にいて、来世、次の人生においても、主とともにいることになるからです。私たちはどこにいても神と共にいます。預言者ダワィドは言っています。「天に升らんか、爾彼処にあり、地獄に降らんか、彼処にも爾あり」(第百三十八聖詠八節)主はどこにでもおられるのです。それゆえ私たちは単に信じるだけでなく、信頼することも重要なのです。

 

信頼、これは信仰の深みです。人が神を信頼している時、人は自分をも自分の隣人をも神に委ねています。そしてここに信仰の最も深淵なる奥義があるのです。それゆえ、私たちが願い、心の底から願っている時、毎回「主よ、しかしあなたの御心が行われますように」と付け加えることが重要です。主は全てを成し遂げることができます。そして私たちはその生活の中で、人々が何かにおいてその限度を超えてしまう、という例を知っています。彼らは自分の願いに固執したので、主は彼らにそれを与えました。しかし結果はなるべくして、とても悲しいものになってしまいます。というのも主は私たちのためになることを知っているからです。私たちは、願っているもの、望んでいるもの、必要なものを知っています。しかし神は私たちのためになることを知っているのです。神を信頼することはとても重要なことです。信仰をもち、神に向かいつつ、さらにかつ神を信頼するのです。私が思うに、ここに私たちが「天の父」の息子であるという最も強力な証があるのです。息子が自分の両親を信頼し、自分の父、自分の母を信頼するが如く、私たち信者も神を信頼しなければなりません。そして、私たちが神に願いをもって向かう時は、常にこう付け足さなければなりません。「主よ、もしもこのことがあなたの御心に適いますならば」と。アミン。

 

 

 

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