「今日は、至聖なる生神女がモスクワを救ってからちょうど500年目にあたります」。
6月3日、「ウラジーミル」の神の母のイコンの祭日と、亜使徒コンスタンティンとエレナの記憶日に、旧コニューシェノ村にある神品致命者ウラシイ聖堂で、教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀が執り行われました。
奉事の後、ゲラシム掌院は信者に向けて説教をしました。
「今日は、『ウラジーミル』の神の母のイコンの前で祈ったことによって、至聖なる生神女がモスクワをハーン・マクメト・ギレイの侵攻から救った日からちょうど500年目にあたります。それは1521年のことです。ロシアは神の母の特別な領土と考えられています。そのため、まさにロシアに天の女宰の崇拝されるイコンが数多くあるのです。
ウラジーミルのイコンの前で国民が祈ったことによって、神の母は3度もモスクワを外国の侵略から救いました。それでモスクワの人々はこの聖像を特別に崇拝しています。
そして今日、至聖なる生神女の絶え間ない執り成しに感謝するために、私たちは聖堂に集まりました。
毎回、私たちは聖機密でハリストスを受けます。そして、「幼子」である主は私たちの中に住まわれます。そして、「幼子ハリストス」が私たちの中で完全な「人」にまで成長するか、「幼子」のままでいるか、あるいは私たちの不甲斐なさのためにただ立ち去ってしまうかは、私たち次第なのです。
それは私たちがどれだけ神の言葉を聞き、どれだけそれを育むかにかかっています。
そして、私たちはハリストスを自分の中にとどめておくだけではありません。洗礼で私たちもハリストスを着ます。救い主の戒めに従うことで、私たちは自分の中でハリストスを成長させ、ハリストスを着るのです。
神はこの世を愛し、決してこの世を置き去りにすることはありません。
今日、私たちは、同様に世界がハリストスを知るきっかけを与えた人々を記念します。亜使徒コンスタンティンとエレナがその人です。
この聖人たちのおかげで、ビザンチン帝国全体がハリストスの信仰の光に照らされ、多くの民衆がハリストスについての説教を聞くことができました。その中には私たちロシア人もいます。ロシアはビザンチンから洗礼を受けたからです。
亜使徒コンスタンティンとエレナの偉業を私たちは使徒の偉業と同等に敬っています。
今は平和な時代で、いつでも教会に行って領聖することができることを主に感謝しましょう。
しかし、この平和な時代に私たちが弱ってしまわないようにすることが非常に重要です。油断してはいけません。主が私たちから離れないように、戒めを守りましょう。主が「穂」のように私たちの中で成長し、私たちが良い実を結んで天の御国に来られるように、私たちの中の土壌を耕しましょう。皆さん全てを神様が守って下さいますように。
「私たちが現世で神を見ることが大切です」。
復活祭から6週目の6月6日、ペテルブルグの福たるクセニヤの記憶日に、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で、教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院が、聖体礼儀を執り行いました。
ゲラシム掌院は説教の中で、生まれつき目の見えない人が救世主により癒された、という福音書の物語の意味について次のように語りました。「主は生まれつき目の見えない人の目を開きました。そして、その人はハリストスを見て告白しています」。
この福音書の出来事には深い意味があります。この福音書の一節では、人間の魂がどのようにして神のもとに来るのかが語られています。
弟子たちは、道端で生まれつき目の見えない人を見て、救い主に「なぜこの人は目が見えないのか」と尋ねました。「本人の罪のせいか、親の罪のせいか。」
しかし、主は答えました。「誰のせいでもない。そうではなく、神の栄光が現れるためにこうなったのだ」と。
主は、純粋な魂を探し、ご自分でそれらを選び、特別な方法でご自身のもとに連れて来て下さいます。このようにして、迫害者であったサウルを神のもとに連れてきたのです。
主は、生まれつき目の見えない人を見、彼が神を切望しているのを見て、彼に神を見る機会を与えてくださいます。
この人は、誰に癒されたのかわからないが、会堂から破門されることを恐れずに、大胆にハリストスを告白しました。癒された人は、ハリストスを求め、ハリストスを崇拝したいと思っています。そして、主ご自身が彼に再会したとき、ご自身を明らかにされ、その人はハリストスに伏拝します。
聖師父たちは、人間は神に伏拝するか、悪魔に伏拝するかのどちらかだと言っています。
この物語は、魂が神に近づくことを記述しています。心の目が開かれるまでは、ハリストスを見ることはありません。私たちは戒めや福音の中で主を聞きますが、主を見ることはありません。
ハリストスを見た人は、人生が変わります。この日に記憶日を祝う福たるサンクトペテルブルクのクセニヤのように。この苦行女の人生に大変革が起きました。彼女は突然、全世界がハリストスに値しないことに気づいたのです。彼女は、己に、最も困難な佯狂(ようきょう)の苦行を課しました。彼女は生涯、真に神を崇めていました。
ゲラシム掌院は、「私たちは、自分自身について考えるべきです。私たちが神に伏拝しているかどうか、神を見ているかどうか。もしそうでなければ、それが私たちの人生の目標になるべきです」と強調しました。
私たちが神を見ることを邪魔しているのは私たちの罪です。私たちの罪は、私たちの目を閉じます。しかし、私たちが現世で神を見ることが大切です。ですから、私たちは後回しにせず、今すぐにでも祈って救われるべきです。というのは私たちの人生の期限を私たちは知らないからです。
主が私たちの目に触れてくださるために、私たちは主の戒めに従い、できる限り聖人たちに倣うようにしなければなりません。主が私たちに求めている完璧さを追求しなければなりません。そして、すぐに全てがうまくいかなくても、あきらめてはいけません。というのも、聖人も聖人になるまでには時間がかかったからです。
粘り強く続けることが、最終的には結果につながるのです。というのも、天の国は力尽くで奪うものだからです。ですから、努力しましょう。そうすれば、主ご自身が私たちに力と助けを与え、ご自身の住まいに連れて行ってくださいます。
「私たちは、静けさのうちに留まるように心がけましょう。主が私たちのところへ来られる時に、主の呼びかけを聞き、主に扉を開くためです。」
主の昇天祭である6月10日、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で、教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀が執り行われました。
掌院は説教の冒頭で、信徒に主の昇天祭のお祝いを述べられました。「復活後、我等が主イイスス・ハリストスは40日間、神秘的に地上に滞在しましたが、この滞在は今日で終わりです。救い主は、ご自分の弟子たち、使徒たちに最後の姿を見せ、オリーブ山に彼らを導き、そこから天に昇っていくのです。体をもって。肉体をもって。」とゲラシム掌院は指摘しました。
掌院は続けました。「教会は、ハリストスの籍身が現実であったことを常に、特に強調しています。主は本物の人間の肉体を持ちました。古代には、『ハリストスは幽霊のようにやって来た』『神は苦しむことができない』『イイススの体は人間の体ではなく、像である』などと主張する誤った教義がたくさんありました。しかし、何世紀にもわたって聖なる教会はこれを否定し、ハリストスは本当に籍身し、ただ罪がないだけで、私たち人間と同じ肉体をとられた、と教えました。」
神の手は十字架に釘付けにされました。主は痛みと苦しみを経験しました。肋骨は突き抜かれていました。そしてこの傷をハリストスは復活後8日目にフォマに見せられました。
神の子は、体を持って天に昇ります。彼は父の右の座に肉体を以て座っています。
そして、これが非常に重要なのです。もし主が現実に籍身したのであれば、私たちも現実に主と一体化しているのです。そして、もし主が私たち人間の肉体を持っていたのなら、主が通った苦しみと復活の道を、私たちも歩むことができるのです。
ゲラシム掌院は強調しました。「さらに、世界のすべての創造物の重要性がこのように示されています。つまり、神がこの世界のすべてのものを創造したのには理由があるのです。偶然ではありません。すべてに深い意味があるのです」
そう、今日の被造物はすべて罪の影響を受けています。アダムが一度罪を犯したからです。今日に至るまで、すべての被造物は最初の人間が犯したその罪に苦しみ、人間が救われるのを待っています。
救い主が復活した時、すべての創造物が喜びました。全世界の救いの始まりだったからです。すべてのものが復元されなければなりません。救い主が肉体を持って昇天したことは、創造物がその創造主に戻ることの始まりです。それは、私たちの救いの担保です。人間の性を癒すことで、周囲の自然も全て癒されていくのです。
私たちの体は、聖神を受けるために召された聖堂です。私たちの体を罪で汚さないようにしましょう。体も心も。
私たちは、斎、祈り、敬虔な行動で自分の体を飾るべきです。私たちの体を大切に扱ってください。例えば、ヨガをしない。
これらの日々、私たちは聖神の降臨を待ち望んでいます。主は、弟子たちに待つように言われました。しかし、だからといって何もせずに座っていたわけではありません。主は彼らの心を開いてくださいました。そして、使徒たちは聖書を理解し始めました。そして、その日々を霊的な修養に費やしていたと思います。
それと同じように、私たちも自分で行動しなければなりません。私たちがまだ聖神の降臨によって高められていない限り、私たちは忍耐強くそれに備えなければなりません。私たちは無頓着に生きてはいけません。私たちは、注意深く生きることにし、戒めを果たすために最善を尽くさなければなりません。そして、私たちは静けさのうちに留まるように心がけましょう。主が私たちのところへ来られる時に、主の呼びかけを聞き、主に扉を開くためです。そして、常に喜んでいてください。
教会の外には救いはありません。
復活祭から7週目、第一全地公会議の諸聖神父たちの週である6月13日、旧コニューシェノ村にある神品致命者ウラシイ聖堂で、教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院によって聖体礼儀が執り行われました。
ゲラシム掌院は奉事後の説教で、人々に次のことを思い起こさせました。第一全地公会議は325年に開催されました。この公会議で、聖師父たちは、ハリストスが普通の人間であると主張した不敬なアリイの異端に対して、私たちの主イイスス・ハリストスの勝利を守り抜きました。
聖なる教会は、ハリストスは単なる人間ではなく、ハリストスの中で神性と人性という二つの性質が一体化しており、それによって私たちの救いが可能であると主張しています。
主は、真の神であり、世界を救うために地上に来られたのです。
この日、聖なる教会は、救い主の大祭司としての祈りについて書かれたイオアンによる福音書の重要な朗読が行われます。弟子たちとの対話の後、主は神・父に祈りを捧げ、こうお願いしました。「我々が一つであるように、すべての人を一つにして下さい。」この祈りの中には、真の命、永遠の不死の命とは、神・父とその御子イイスス・ハリストスを知ることである、という非常に重要な言葉があります。知性でだけ知るのではありません。聖書に出てくる「知る」という動詞には深い意味があります。それは知的な知識であり、心の知識であり、体の知識でもあります。知っているということは、何かと現実的に一体になっているということです。そして、神・父と神・子を知ることは、神と現実的に一体になることです。そして、まさにこの知識を聖師父たちは主張したのでした。
他の教えでは、私たちは神と一体になりません。時には良いことを教えてくれるかもしれません。しかし、その人は自分の力では罪に抵抗できず、簡単に堕落してしまうことがよくあります。
聖師父たちは重要な真理を守り抜きました。それは、主が喜んでこの世に来られて、人間の性を受け入れ、私たちの肉体をとり、私たちに主の体と血を与え、私たちが救われる主の教会を設立してくださったおかげで、私たちの救いが可能であるという真理です。教会の外には救いはない、と聖師父たちは強調しています。教会の外では、神との一致はありません。
どんな実験も人間と神を結びつけることはできません
聖なる教会にいること、聖体機密(領聖)でハリストスと結ばれることによってのみ、私たちは救いを保証されているのです
もちろん、戒めを守らずに故意に罪を犯せば、私たちは滅びます。しかし、私たちがへりくだって神を告白するなら、神は私たちを支え、救ってくださいます。
「わたしが見出したように、わたしは裁く。」と主は言っています。ですから、私たちは横になってはいけません。常に立ち上がって前に進まなければなりません。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。自分の罪を憎んで戒めを行い、それによって神への愛を示そうではありませんか。そして、主は私たちの修行を見て、私たちを助けてくださいます
すべての聖師父たちは、福音書に基づいて生活していました。彼らは戒めに基づいて生きていました。その「光」に触れた聖師父たちは、その「真理の光」を反映して輝いていました。
何世紀もの時を経て、私たちは聖師父である成聖者ニコライ、トリミフントの成聖者聖スピリドンに祈り続けています。彼らは私たちと一緒にここにいます。そして、私たちの信仰を守ってくれた聖なる師父たちに感謝しましょう。私たちは信仰によって神と一体となり、永遠のいのちにあずかる者となるからです。
至聖三者の日は教会の誕生日です。
至聖三者の祭日(五旬祭)である6月20日、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で、ゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀が執り行われました。
「皆さん、お誕生日おめでとうございます!」今回ゲラシム掌院はこのように説教を始めました。「そうです。そうです。今日は私たち全員の誕生日です!なぜなら今日は五旬祭、つまりハリストスの教会の誕生日だからです!」
パスハから50日目に、聖神が火の舌の形で使徒たちに降りました。聖神は彼らを変容させ、光照させ、世界の果てまで宣教する力を与えられました。
今日の福音書では、次のような朗読を聞きました。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イイススは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イイススは、ご自分を信じる人々が受けようとしている『神(しん)』について言われたのである。イイススはまだ栄光を受けておられなかったので、『神(しん)』がまだ降っていなかったからである」。(イオアン7:37-39)
使徒たちに聖神が与えられると、奇跡が起こりました。彼らが異なる言語で話し始めたのです。これは、五旬祭の日に、全世界、全人類が一つになり、お互いを理解し、ハリストスがこの世に来られたことについての最も重要な真理を知る機会を得ることを意味しています。すべての国の人々が、ハリストスについての説教を聞き、洗礼を受けて、この地上の神の国である教会に入る機会を得るのです。
地上に教会が設立されたことを記念するのが、五旬祭の祭日です。教会の外では、救いは不可能です。教会はハリストスの体です。ハリストスは頭であり、私たちは皆、ハリストスの体の一員です。そして、主はその大祭司の祈りの中で、私たちの一致のために祈っておられます。
私たちの最大の目標は、ハリストスにあって一つになることです 私たちの罪、私たちの利己主義によって、互いに離れ離れにならないようにするのです。
教会とは愛の結合の場です。そして、この愛を持っている度合いに応じて、人々に仕え、何かにおいて人に譲る用意がある度合いに応じて、私たちは一つになるのです。
罪を犯すことを選ぶことで、私たち自身が地上における神の働きを破壊しています。私たちは、救世主の衣を引き裂くのです。私たちの一致を破壊するのです。
しかし、私たちが戒めに従うならば、私たちはハリストスとの同労者になります。そして、ここに私たちの最も重要な行いがあります。ハリストスにおける一致です。
ゲラシム掌院は、至聖三者のイメージと祭日の象徴性についても語って下さいました。至聖三者の日に聖堂を飾る緑や白樺、花は、掌院の言葉によれば、すべて生命の象徴です。聖神のおかげで世界のすべてが繁栄しています。それは、人間の魂も同じです。聖神が私たちの心に入ってくると同時に、私たちの魂は生き生きと輝くのです。
最後に、ゲラシム掌院は、「私たちは聖神降臨祭のときに聖神を受けたのか」という問いについて考えてみることを、皆さんに提案しました。私たちは、神から与えられた聖霊の賜物を増やしてきたでしょうか。私たちの魂は本当に開花したでしょうか?そして、私たちの第一の目的は、キリストにある真の一致を得ることです、と再び掌院は強調しました。
何も恐れないようにしましょう。主が私たちと共におられるからです。
6月27日の全諸聖人の主日に、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で、教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院が聖体礼儀を執り行いました。
「今日、教会は全諸聖人の記憶を祝います」と掌院は説教の中で述べました。「つまり、私たち一人一人が、自分の天国の庇護者の記憶を祝うのです」。掌院は、記念すべき日を迎えた信徒の皆さんを祝福するとともに、この日には非常に重要な福音書が朗読されることを述べました。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マトフェイ10:32-33)。
ゲラシム掌院は、すべての聖人は神の表信者であり、証人であることを強調しました。ロシア語で「致命者」と訳されているギリシャ語のμάρτῠρος(マルチロス)は、文字通り「証人」を意味します。ハリストス教の致命者は、ハリストスがこの世に来られ、十字架にかけられて復活したこと、ハリストスが真の神であることの証人です。同じように、聖なる克肖者、義徳者たち、佯狂者(ようきょうしゃ)たち、彼らは皆、自分の人生でハリストスを証ししました。彼らは皆、表信者でした。彼らは、ハリストスが永遠の命であることを証言しました。ハリストスなしには救いはないのです。彼らは皆、神のもとで憩いました。
エルマという一人の聖人は、神の御使いたちが石を使って大きな塔、教会を建設しているという異象を見ました。異象の中で彼に現れた老婆は説明しました。「建築の際にしっかり置かれている白い四角い石は使徒、主教、教師、聖職者、輔祭、です。生きているか死んでいるかには関係なく、自分の義務を果たした、もしくは果たしている人々なのです。彼らは、全ての聖性をもって、入念に互いに思いを同じくしながら、神に選ばれた人々のために注意深く配慮しているのです。水の底から運び出され、建物を建てるときに置かれ、建物と一つになった石は、主の名のために苦しんだ死者の石です。地面からとられて建築に使われる石は、新しい信者です・・・」
教会の建物は、すべての聖人の上に築かれています。一方で聖人たちの主要な行いと願いは、福音の真理を実践することです。真理の一つは、行って神の言葉を全ての民族に宣べ伝えることです。救世主御自身が使徒に戒めました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい、彼らに父と子と聖神の名によって洗礼を授け」(マトフェイ28;19)るようにと。
聖人たちは、その生活、仕事、言葉によって、人々に彼ら自身が享受した喜びを分け与えました。彼らは、私たちがその教会組織の一部となり、聖人の友人、血統を同じくする兄弟となることを望んでいました。
私たちは、生活の中で聖人に倣うように努めるべきです。良心が咎められないような生き方をすること。無為に時を過ごさないこと、落ち込まないこと。私たちが常に神様の前に立つこと。私たちの人生を教会の人生に組み込むこと
使徒の斎が始まります。この2週間は、自分の心の奥底に引きこもってみましょう。食べることだけでなく、不要な情報を受け取ることも制限しよう。これは私たちの最も重要な偉業となるでしょう。今日、すべてのスピーカーから絶えず、私たちを怒らせ、平和と静けさを奪うような情報が流されており、私たちは苛立ちから多くの不快なことをしてしまいます。
神はすべてのものの上におられるのですから、落ち着いて神を信頼してみましょう。彼らがどんな陰謀を企てようとも、神は彼らを辱めます。悪魔の誘惑とは、私たちがときおり想像するような巨人ではなく、実際にはただのくもの巣にすぎません。そして、くもの巣は壊すことができるのです。
ですから、恐れてはいけません。主が私たちと共におられ、すべての聖人が私たちと共におられるのですから。そして、正教会の船にどんな波が襲ってこようが、この船は常にそれらの嵐を乗り越え、その存在を維持してきました。そして、主は最後まで、そして永遠に、常に私たちと共にいてくださいます。私たちは、聖人たちと一緒に神に祈り、何も恐れないようにしましょう。








