悲しまずに生きなさい 2 オプチナの聖アンブローシー
霊的にイライラした状態は、第一に私たちの願望、物事への見解がその通りになされないという自己愛から来ます。第二に神の戒めの実行があたかもこの地であなたに何の益ももたらさないかのような不信から来ます。
自分を能力があり、他の人より理解力があると見なす人は、人を裁く傾向にあります。
肉体的苦行や労働が要求されるのはただ頑丈な肉体をもった人々からだけです。肉体的に弱い人により必要なのは感謝を伴う謙遜です。謙遜は肉体労働の代わりとなり得ます。謙遜のない肉体労働は何の益にもなりません。
聖書の教えは四人の福音記者によって固められています。一方でクリスチャンの生活は四つの主な善行によって固められます。勇気、賢明、貞潔、義です。
常に魂が平和で静かでありたい人は極力遜らなければなりません。謙遜なしに平穏を得ることはできません。
自分を他の人よりも劣ると見なすことは謙遜の初めです。もしただ人が相反する感情と思いの混合物のために自分を責め、この魂を害する混合物を拒否しようと努めるなら、もしもあなたの魂の中で謙遜が宿る場所を与えるのなら、その度合いによって魂の様々な重荷から解放されて平穏を得るでしょう。
ずさんに生きていますね。できる限り更生するようにし、何よりもまず神と人々の前で遜るように努めなさい。謙遜は私たちのずさんさを補います。
もし私たちが他人を裁くことを自分に許すのなら、本当の謙遜は私たちの中にはありません。真実の謙遜の担保は自己卑下と自責です。
ただ単に赦すだけでなく、同時に自分自身でも誰に対しても憎しみをもたないように努めなさい。愛以上の善行はありません。そして憎しみ以上に悪い悪癖や悪慾(情念)もありません。憎しみは自分に注意しない人たちにとってはたいして重要ではないかのようですが、霊的な意味においては殺人に似たものとなるのです。
隣人への愛が、もし神のためではなく、何か人間的な動機から起こったものであれば、それはただ単に益をもたらさないばかりか、しばしば魂の害の原因にもなります。
もしあらゆる善行がすぐにではなく、段々と、努力と自分を強いることによって獲得されるのであれば、愛はなおさらです。愛はすべての善行の初めかつ終わりで、それを獲得するには時間と、偉大なる強制と、内的な苦行と、祈りが要求されます。そして何よりも神の前と人々の前での深い謙遜が必要とされます。
もし使徒たちが、まだ不完全でありながら、主に彼等の信仰を増して下さるように祈ったのなら、信仰において弱く疲弊した私たちにはなおさら祈ることがふさわしいし、祈ることが必要です。主が私たちの不信を信仰に変え、疑心と思慮を欠いたためらいを追い払って下さるように。
私たちの忍耐のためにどのようなものが送られたとしても、すべてこれらは私たちの魂の益となるように神の摂理によって許されるのです。もしただ私たちが自分自身の無思慮によってこれを害することがなければ。
全世界のどこにおいても苦しみのない場所は見つからないでしょう。どこでも一つの結論に行きつきます。つまり、忍耐が必要だ、という結論に。そこから逃れる他の手段はありません。
あなたに助言します。何よりも忍耐、様々な予期せぬ出来事及び困難さを忍ぶことに備えて自分を武装しなさい。そうでなければ平安を得ることはないでしょう。
病や不愉快な出来事は、私たちの魂の益となるように、そして何よりも私たちが謙遜になり、自分の人生をより慎重に分別をもって送るように、私たちに送られます。
苦難や病は時として火のように人を焼きます。一方で発熱時の汗や、熱病時の汗や、苦しみからくる涙は水のように人を洗います。寛大かつ感謝をもってこれらすべてを耐え忍ぶ者には、あそこで(来世の命で)平安が約束されています。
クリスチャンはどのような場所で暮らそうとも、何等かの苦しみなしに生きることはできません。ただ一つの安寧は福音書と使徒経の戒めを実行することです。聖詠経に言われている通りです。「爾の律法を愛する者には大いなる平安あり、彼等に躓なし。(聖詠118:165 )」
私たちの魂の、及び霊的な不満足は、私たち自身から、私たちの未熟さから、正しくない自分の考えから起こります。この正しくない考えと私たちは何としても別れたくないものなのです。一方でこの考えは私たちに思い煩いや疑念や様々なためらいをもたらします。これらすべてのことによって私たちは疲れ、重荷を感じ、喜びのない状態に導かれるのです。
あなたたちには多くの苦しみと家庭での不愉快なことがあります。しかしあなたは自分に次のように言って、自分を諭しなさい。地獄ではもっと悪く、もっとうんざりし、もっと楽しみがなく、そこから逃れる希望はすでにないのだ、と。一方、もし人が自分の罪を告白しつつ、自分の苦しみを神の意思への従順をもって耐えるのなら、このことによって永遠の苦しみの重荷から免れるでしょう。
私たちにとってより為になるのは常に喜んでいることで、失敗してしまった時に落ち込むことではありません。喜んでいられるのはただ次のことによって神に感謝する時だけです。つまり、犯した失敗によって神が私たちを遜らせ、あたかも意図せずして、神に走きつき、謙遜に神に助けと庇護を求めざるを得なくなることによってです。
肉体的な病は肉体を浄めるために必要ですが、魂の病は、侮辱や誹謗を受けることで、魂を浄めるのに必要です。
ただ敬虔なる生活のために苦難や迫害を耐えるような人々はわずかです。使徒が言っています。「敬虔に生きたいと思う人はみな迫害を受けます」と。その他の人はみな以前の罪の清めのため、おごり高ぶりを遜らせるため、救いを受けるために、苦難や病を忍んでいます。
あらゆる不愉快で苦難に満ちた状況において、私たちはその原因が他人ではなく、自分にあるとしなければなりません。つまり、私たちはしかるべく行動することが出来ず、そこからこのような不愉快や苦難が起こったのだ、と。私たちの怠慢、思い高ぶり、過去及び新たな罪のために神が苦しみを許可したのであり、私たちはその苦しみにふさわしいのだ、と。
治療が成功しなかったことは、肉体に関してのみ役立たないのであり、魂のためには大きな利益をもたらします。第一に人を謙遜にさせ、第二に来世の生活と来世への移行を思い出させるからです。
キリスト教的観点から苦難を見れば、苦難自体の中に自分にとっての慰めを見出すでしょう。私たちにとって苦難や病はすでにそれ自体尊いものなので、それによって永遠に苦しみのない、諸天での光輝く福たる命に到達することができるのです。
救われたい人は苦難を忍耐します。そして救いの道から外れている人も同様に苦難から逃れられません。ゆえに、神のために、自分の救いのために、自分の罪の清めのために苦しみを忍耐する方が、ばかげたこととか何のためだかわからないと考えて苦しむよりいいのです。
敬虔に生きる人にとっては、もし彼に苦難がなければ、一年は一日のようです。一方で、もし敬虔な人がより大きな苦難を耐えるなら、彼にとって一日は一年となるでしょう。
何よりもまず、主が試みを許可するのは、世を愛する人々から神を愛する人々を分けるため、淫欲な人から節制の人、貞潔な人を分けるため、傲慢で自尊心の強い人から謙遜で賢明な人を分けるためです。聖書に書いてある通りです。「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マトフェイ10:34 )と。
あなたがどこに住んでいても、どこでも試練なしに人生を送ることはできません。(試練は)悪霊を通して、人々を通して、自分固有の習慣を通して、もしくは自己愛が抑えられていないことを通して(訪れます)。
人間の全生涯は、彼がどこにいようとも、試練以外の何物でもありません。
苦しい試練はどのような場合にも益になります。
すべての試練に対する勝利は忍耐をともなった謙遜です。
悪魔からの誘惑は様々な思い煩いや疑惑の中に現れます。しかしすべてに対し信仰と恃みと善なる希望によって勝たなければなりません。
至って賢明で至善なる主が各人に悪魔の誘惑を許すのは、ただ各人の力に応じてであり、力以上の誘惑は与えられません。
疑いと不信があなたの中で堅固になるのは、何よりもあなたが、それらは古来からの私たちの敵の歪められた示唆から来るということを自覚したくないからです。敵はすべてを歪められた形で提示しようとしているのです。
敵は必ずしも荒っぽい物事によって人々を誘惑しようとするわけではありません。そうではなく、何よりももっともらしい口実や理由によって人々を混乱させるのです。
あらゆる善と魂の平安の敵かつ憎悪者があなたを今まで平穏にさせておいたか、私は知りません。敵の常の仕業は、どこでも何においても干渉し、すべての人を混乱、憤慨させることです。もしもあなたが自分の弱さから何かこのようなことを感じるのなら、敵が扇動するささやきを軽蔑するようにし、敵の不愉快から免れるように、天の女宰に祈りなさい。
私たちのそばには人類の最初からの敵がいることを忘れてはなりません。敵はあらゆる手段によって、人々固有の弱さを通して人々を混乱させようとしているのです。
敵のおもな罠は二つです。高慢やうぬぼれ、もしくは小心や絶望によってクリスチャンを打ち負かすことです。
敵は、もし誰かに害を与えることが出来ないとみると、少なくとも自己の悪から彼を混乱させるか、様々な考えや悪いささやきによって彼を不快にさせようと試みます。
悪鬼はいかにも本当らしいことを吹き込むにあたり、これを狡猾さをもって吹き込みます。それは、クリスチャンという人間を動揺、混乱させるためです。そして悪鬼の本当らしいささやきにはいつも悪意と憎しみの毒が溶け込んでいるのです。
指導者の生活や行いを検証する必要はありません。もし彼等の教訓が神の言葉と一致していて矛盾していなければ、ただ彼等の教訓だけを受け入れなさい。自分の行いについては各人が神の前で答えるのです。指導者も、指導者に服従している人も。
誰かに自分の魂の状態を説明するのは極めて為になり、内面が軽くなります。しかしこの味わいに入るためには自分固有の経験が必要です。その際、信頼し、自分の理性を棄てることが必要です。
敵は誠実なる告白に耐えられません。一方人は、これを通して神からの助けを受け、誘惑に対抗して諭されるのです。
どんな罪を犯したか、いかに罪を犯したかを告白しなければなりません。これがすべてです。適時に痛悔することを書き留め、指導神父の前で読むのはいいことです。指導神父にとってそれは分かりやすく、難しくなく、痛悔者にとっても容易で喜ばしいものとなるでしょう。
もしもあなたの指導者たちが弱く、更生されておらず、自分の霊的な子供たちに弱々しく話しかけるのなら、あなたは堅固であるよう心がけ、神へのおそれを持ち、すべてのあなたの仕事と行いにおいて自分の良心を守りなさい。何よりも遜りなさい。








