第二十一教訓

聖グリゴリイの聖なる致命者についての格言の解釈

兄弟たち、聖なる捧神者たちの言葉を歌うのは良いことである。なぜなら彼らはいつでも、どこでも、我々の霊(たましい)の光照に導く全てのものを教えようと、努めているからだ。祭日に歌われるこれらの言葉自体から、我々は、それが主の祭日であろうと、聖なる致命者の祭日であろうと、師父たちの祭日であろうと、一言で言えば、それがどのような聖なる、記憶するに値する日であろうと、記憶されていることの意義自体を、自覚しなければならないからだ。それゆえ我々は注意を払って歌い、智によって聖師父たちの言葉の意義を理解しなければならない。なぜなら口だけで歌うのではなく、聖師父語録に書かれているように、我々の心が彼らと共に歌うようにするためである。最初の聖歌から我々は力に応じて、聖なるパスハについてある種のことを知った。聖グリゴリイが聖なる致命者について何を我々に教えたいか、さらに見ていこう。彼の言葉から借用し、我々が今日歌っている聖致命者についての聖歌の中で、このように言われている。「生きた生贄(いけにえ)、言葉を持った燔祭(はんさい)」と。生きた生贄とは何を意味しているのだろう。生贄と呼ばれているのは神への生贄のために聖にされた全てのもののことを呼ぶ。たとえば羊、雄牛の類いである。ではなぜ聖なる致命者は生きた生贄と呼ばれるのであろうか。生贄のために引いてこられる羊は、最初屠(ほふ)られ、死んでいく。そしてその後ようやく細かく分けられ、切断され、神のもとへ捧げられる。一方聖なる致命者は、まだ生きているうちにばらばらに切断され、カンナをかけられ、へとへとに苦しめられ、部分に切断されることを耐え忍んだからである。時として拷問人は致命者の手や足や舌を切ったり、目を抉り出したりした。彼らの内臓が見えるほどに肋骨の上にカンナをかけた。私が語ったこと全ては、聖人たちがまだ生きている間に、己のうちに霊を有していながら耐え忍んだのである。それゆえ、彼らは生きた生贄と呼ばれるのである。ではなぜまた「言葉を持った燔祭」と呼ばれるのであろうか。なぜなら生贄と燔祭とは異なるものだからである。時として生贄には羊をまるまる一頭ではなく、ただ体の一部分を持って来る。律法で言われている通りである。右肩、脾臓、二つの腎臓など(出エジプト記二十九章二十二節)。これら、つまり体の一部を持って来るものは生贄と呼ばれている。そういうわけで、このように捧げ物は概して生贄と呼ばれているのだ。燔祭と呼ばれているのは、雄羊まるまる一匹、または雄牛まるまる一匹、または何か他の捧げ物が余すところなく焼かれる時のことを言う。律法にも書かれている通りである。頭と足、かつ内臓、時として胃、糞。一言で言えば、全てを最後まで焼き尽くすこと、これを燔祭と呼ぶのである。このようにイスラエルの子供たちは律法に従って生贄と燔祭を捧げた。この生贄と燔祭は、救われて、自分を神への生贄として捧げたいと望む霊の予象であった。師父たちが言っていることの中から、このことについてのいくつかをあなた方に話そう。それはあなた方がこれを読んだ時、あなた方が思いによって高められ、あなたの霊を養うためである。腕(もしくは肩)が意味するところは、活動である。私が一度ならずあなた方に言っているように、手も活動の代わりに解釈されるからである。なぜなら腕は手の力を構成しているからだ。それゆえイスラエル人は生贄に右手の力、つまり善い行いを捧げたのである。なぜなら右手は善いものとして解釈されるからである。私たちが言及してきた動物の他の部分(脾臓、二つの腎臓とその脂肪、腿肉(ももにく)と腿肉の脂肪、心臓と胸、その他この類いのもの)は全て同様に予象、象徴である。なぜなら使徒が言っているように全て「これらのことは前例として彼らに起こった(コリンフ(コリント)前十章十一節)」からである。これがどういうことかあなた方に説明しよう。聖グリゴリイが言っているように霊は三つの力から成っている。*1希求の中枢(Επιθυμητικόν Вожделевательная)、情熱の中枢(Θυμικόν/Θυμοειδές раздражительная・愛や情熱、及び健全な憤怒の中枢)、理性の中枢(Λογιστικόν разумная・論理や知識に関する中枢)の三つである。そういうわけでイスラエル人は生贄として脾臓を捧げた。一方腹のことを師父たちは希求の座として受け止めた。脾臓は腹の端にあるからである。つまりイスラエル人は予象的に希求の中枢の端、その始め、希求の最も良く、最も重要な部分を捧げたのである。このことが意味しているのは、何も神以上に愛してはいけない、また全ての希求の中から何も神への希求以上に好んではいけない、ということである。なぜなら我々が言っているように、神には一番良いものを捧げていたからである。腎臓とその脂肪、股肉と股肉を覆っている脂肪が意味しているところも同様のものである。なぜならそこに希求の座があると言われているからである。全てこれらのものは希求の中枢の予象である。情熱の中枢の予象(象徴)は心臓だ。なぜならここに情熱の座があると言われているからである。このことを聖ワシリイも指摘して言っている。「情熱とは心臓のそばの血液の熱のことである」と。一方胸は理性の中枢の象徴である。なぜなら理性の中枢は胸だからである。ゆえにこう言われている。モイセイ(モーセ)がアアロン(アロン)に祭司長の服を着せていた時、神の命令によって、彼の胸にロギオンと呼ばれる胸当てを付けさせた。(レビ記八章八節)。したがって、我々が言及したように、全てこれらのことは霊の象徴なのである。そして霊は神の助けを借りて、善なる行いという手段によって己を清め、その本来の自然の状態に戻る。なぜならエヴァグリイが次のように言っているからである。理性的な霊が本来の機能を発揮するのは、霊の希求の中枢が善行を望み、情熱の中枢が善行において修行し、理性の中枢が被造物を観照する時である、と。羊や雄牛やその他この類いのものを生贄に捧げる時、イスラエルの息子たちは脾臓や腎臓やその他これらのものを捧げ物より抉(えぐ)り取り、主の前の祭壇に置いた。これが生贄と呼ばれるものである。しかし動物の生贄を丸ごと持ってきて、生贄があった形で丸ごと、完全に焼かれる時、上述したように、これを燔祭という。これは次のように言われている完全な者の象徴である。「この通り、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。(マトフェイ(マタイ)十九章二十七節)」このような霊的成長の度合いに達するようにと主はある若者に来るように命令したが、彼は主に言った。「そういうことはみな若い時から守ってきました。(同十九章二十節)」なぜならこの答えとして主は青年に言ったからである。「あなたに欠けているものが一つある。」それは何であろうか。「あなたの十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ十章二十一節、マトフェイ十九章二十、二十一節)」このように聖なる致命者は完全に自分を神への生贄として捧げたのである。そして単に自分自身を捧げただけではなく、彼らにあった物、かつ彼らのもとにあった物を捧げた。なぜなら聖ワシリイが言っているように、私たち自身と、私たちのものと、私たちにあるものとは別物だからである。我々、これは智と霊(たましい)である。我々のものとは体だ。我々にあるものとは財産やその他のものだ。ゆえに聖人たちは心を尽くし、霊を尽くし、力を尽くして聖書の言葉を実行しつつ、自分を神への生贄として捧げたのである。つまり「心を尽くし、霊を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(マトフェイ二十二章三十七節)」という聖書の言葉を実行したのである。というのは、致命者たちは子供たちや、妻や、名誉や、財産や、その他の富全てだけでなく、自分自身の体をも軽んじたからである。こういう訳で彼らは燔祭と呼ばれている。理性的というのは、人は理性ある生き物だからである。

「神のために刺殺された」そして次に「神を知り、神に知られている羊たち」とある。どのように彼らは神を知っているのであろうか。主ご自身はいかに次のように言って教示しているだろうか。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは自分の羊を知っており、わたしの羊も私を知っている。(イオアン十章二十七節、十四節)」なぜ主はわたしの羊は「わたしの言葉を聞き、わたしの戒めを守る、それでわたしを知っているのだ」と言う代わりに、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言ったのであろうか。なぜなら戒めの順守によって聖人たちは神に近づくからだ。彼らは神に近づくのだから、神を知り、神からも知られている。しかし神は全てをご存知だ。秘められた物も、深みにある物も、存在しない物も。ではなぜ聖グリゴリイは聖人について「神に知られている」と言っているのであろうか。なぜなら上述したように、彼らは戒めの順守によって神に近づき、神を知っており、神にも知られることがあるからだ。というのは誰かが他の人を避け、遠ざかると、彼はその人を知らないし、その人にも知られないと言われているからである。同様に他の人に近づく人については、彼は知っているし、彼も知られていると言われている。こういう訳で、神についても、神は罪人を知らない、と言われているのである。というのは、罪人は神から遠ざかっているからだ。主ご自身がこのことを言っている。「はっきり言っておく。わたしはあなた方のことを知らない。(マトフェイ二十五章十二節)」こういう訳で、私がしばしば言っていたように、聖人たちは、戒めの順守によって善行を獲得すればするほど、自分に神を体得し、神を体得すればするほど、彼らはより神を知り、神もまた彼らを知るのである。

「彼らの囲いはオオカミにとって近づきがたいものである。」囲いと呼ばれるのは丸く囲ってある場所のことである。ここに牧者は羊を集め、オオカミや泥棒が盗まないように、見守る。もしも囲いが何らかの方向から腐ってしまったら、そこにオオカミや泥棒は簡単に入って、容易に羊に襲い掛かる。聖人の囲いは全ての方向からしっかりと建てられ、守られている。主が言われている通りである。「また、盗人が忍び込むこともない。(同六章二十節)」そしてどのような害あるものも彼らを害することはできない。ゆえに兄弟たちよ、我々も彼らと共に牧されるように、少なくともかの福たる愉悦と彼らの安息の場所に住まうことができるように祈ろうではないか。なぜならたとえ我々が聖人の状態に到達せず、彼らの光栄に値しないとしても、もしも注意深くあり、自分を少し強いれば、天国を失うことはないからである。聖クリメントは言っている。「たとえ人が勝利の冠を頂かなくても、冠を頂いた人々の近くにいるように努力しなければならない」と。なぜなら王宮の中には、偉大で栄光ある位の人、たとえば、議員、貴族、軍の司令官、市の行政長官、秘密会議の議員などがいて、彼らはみな大変尊敬に値する高官である。同様にこの王宮の中にはある種の他の、俸給の少ない位の人もいる。しかし彼らも王の下僕と呼ばれ、かの偉大な位の人々の光栄には与っていないが、王宮の中にいる。それにもかかわらず王宮の中にいるのである。時として彼らは進歩していき、少しずつでも偉大な光栄なる位を授けられるようになることもある。同様に我々も少なくとも地獄から免れることができるよう、実際的な罪を避けるように努力しようではないか。そしてその時我々も、神の人愛によって首尾よく天国に入る可能性を得ようではないか。全諸聖人の祈祷によりてなり。アミン

*1 人が陥罪する以前、「神の像」として造られた人間の生きる目的は、神に似たものとなることだった。これらの霊の三つの力は神に向けられていた。Λογιστικόνは神を知るための、Θυμικόν/Θυμοειδέςは神と合一するための、Επιθυμητικόνは神と交わり、その喜びを享受するための力だった。しかし、原祖(アダムとエワ)の陥罪によって、これらの力は歪んでしまう。Λογιστικόνは驕慢や野心に、Θυμικόν/Θυμοειδέςは所有欲や隣人への憎しみに、Επιθυμητικόνは物欲や肉欲に汚染されてしまったということである。