第二十教訓
聖なるパスハでトロパリと共に歌われる聖グリゴリイのいくつかの格言についての解釈
我々が歌っている聖歌について、少しでもあなた方に語るのは、私にとって嬉しいことである。それはあなた方がただ音を楽しむのではなく、あなた方の智自体が同様に言葉の力にも鼓舞されるためである。それでは我々は今日何を歌ったのであろうか。「復活の日、我ら己を捧ぐべし。」昔イスラエルの子供たちは祭日や祝いの日に、律法に従って神に捧げ物、つまり犠牲、焼き尽くす捧げ物、初子(ういご)などを捧げた。ゆえに聖グリゴリイはイスラエルの子らと同様に我々も主に祝うように教え、「聖なる祭りの日」、「神聖なる祝いの日」、「ハリストスのパスハ」に、と言う代わりに、「復活の日」と言って我々を鼓舞しているのである。ではハリストスのパスハとはどのような意義を持っているのであろうか。パスハはイスラエルの子らがエジプトから脱出する時に行われた。聖グリゴリイは現在パスハの祝いへと我々を鼓舞させている。つまりパスハを行うのは、思念によるエジプト、つまり罪から脱出した霊(たましい)なのである、と。なぜなら霊が罪から善行へと移行すると、その時、霊はエヴァグリイが言っているように、主にパスハを行うからだ。主のパスハは悪から善への過ぎ越しである。ゆえに現代において、ハリストスのパスハは光明なる祝いの日、罪を磔(はりつけ)にし、我らのために死して復活したハリストスの復活の日なのである。我々も主に賜物、犠牲、ハリストスが望まない言葉を持たない動物のではない、焼き尽くす捧げ物を捧げよう。なぜなら言葉を持たないものの「祭祀(まつり)と礼物(ささげもの)とは爾之を欲せざりき、」そして子牛や牡羊の「全燔(ぜんぱん)は爾之を悦ばざりき。(第三十九聖詠七節)」そしてイサイヤ(イザヤ) も語っている。「お前たちの捧(ささ)げるげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、(イサイヤ(イザヤ) 書一章十節)」云々と。しかし神の羔(こひつじ)が我々のために屠(ほふ)られた。使徒が言っている通りである。「ハリストスが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです。(コリンフ(コリント)前五章七節)」「ハリストスは世の罪を担い、わたしたちの呪いとなって下さいました。(ガラティヤ(ガラテヤ)三章十三節)」また言われている。「木にかかった者は皆呪われています。(申命記二十一章二十三節)」「わたしたちを律法の呪いから贖(あがな)い出して下さいました。(ガラティヤ三章十三節)」「わたしたちを神の子となさるためでした。(同四章五節)」それゆえ我々もハリストスにある種の感謝の贈り物を捧げなければならない。
ハリストスが言葉を持たない動物のいけにえを喜ばない以上、復活の日に我々はハリストスに喜ばれるために、いかなる賜物、いかなる供え物をハリストスに捧げなければならないのだろう。この聖人は我々に再びこのことを教えて言っている。「復活の日」そして付け加えている。「自分自身を捧げよう。」同様に使徒も言っている。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。あなたの言葉で表された礼拝です。(ロマ(ローマ)十二章一節)」それでは、どのように我々は自分の体を生きた聖なる供え物として神に献げることができるだろう。「これ以上肉や心の欲するままに行動せずに、(エフェス(エフェソ)二章三節)」「神(しん)〔霊(れい)〕の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(ガラティヤ五章十六節)」なぜならこれは次のことを意味しているからである。「我々の地に在る肢体を殺すこと。(コロサイ三章五節)」これは生きた聖なる、神に喜ばれる供え物とされている。なぜこれが生ける供え物と呼ばれているのだろうか。なぜならいけにえとして捧げられた言葉を持たない動物は、屠られると死んでしまう。一方で聖人は神への捧げものとして己を捧げる時、生きたまま、毎日屠られるからである。ダワィド(ダビデ) が言った通りである。「爾の為に我ら毎日殺され、人の我らを視ること、屠(ほふり)に定められたる羊の如し。(第四十三聖詠二十三節)」聖グリゴリイの言葉が意味しているところはこれである。「自分自身を持って来よう。つまり自分自身を供え物として持って来よう」「我々のために死した我らの神ハリストスのために日々自分自身を殺した全ての聖人のように。」ではどのように彼らは自分を殺していたのであろうか。新約聖書の使徒の書簡で言われている通り、「世も世にあるものも、愛さない(第一イオアン(ヨハネ)二章十五節)」ことによって。しかし肉欲も、目の欲も、生活の奢(おご)り(同十六節)、つまり淫欲、金銭欲、虚栄心をも退けつつ。そして十字架をもってハリストスに従い、世を己に、己を世に磔にしていたのである。(ガラティヤ六章十四節)このことを使徒が言っている。「ハリストス・イイスス(キリスト・イエス)のものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。(ガラティヤ五章二十四節)」これが、いかに聖人たちが己を殺したかということである。では彼らはいかに自分を生贄(いけにえ)として捧げたのであろうか。自分のためにではなく、自分を神の戒めに隷属させ、戒めと神と隣人への愛のために、自分の願望を棄てることによってである。聖ペトル(ペトロ)も言っている通りである。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。(マトフェイ十九章二十七節)」彼は何を捨てたのであろうか。果たして彼にはお金や資産や金や銀があったであろうか。聖金口イオアンが言ったことに依れば、彼には網、それも使い古した網しかなかった。しかし上述したように全てを、つまり自分の全ての願望、この世へのあらゆる執着を捨てたのである。ゆえにもしペトルが資産や富を持っていたとしても、ペトルは明らかにそれを軽蔑し、十字架を担い、ハリストスに従ったであろう。言われている通りである。「生きているのは私ではなく、私のうちにいるハリストスなのです。(ガラティヤ二章二十節)」このように聖人たちは己を供え物として持ってきたのである。我々が上述したように彼らは自分のうちにあるあらゆる執着、固有の意志を殺し、ただ一人ハリストスのために、またハリストスの戒めのために生きたのである。同様に我々も聖グリゴリイが教えているように自分自身を供え物として持って来よう。なぜなら神が望んでいるのは我々だからだ。我々は「神の御前で最も価値ある財産だからだ。」まことに人間は全ての見える被造物より尊いものだ。なぜなら創造主は「こうあれ、そのようになった。」再び「地は草を芽生えさせよ。云々、そしてそのようになった。」「生き物が水の中に群がれ」(創世記一章十一、二十節)と言って彼らを存在へと導き出したからである。神は人間をご自分の手で創り、人間を飾った。一方で神は他の全てのものを人間に仕えるため、人間の安息のために整えた。人間は全てこれらの者の王となるべく定められた。そして神は人間が楽園の甘美さを楽しむようにされた。さらに驚くべきことには、人間が自分の罪によってこれら全てを失った時、神は再び人間をご自分の獨(ひと)り子の血によって呼び返したのである。聖人が言っているように人間は最も尊い財産である。そして単に最も尊いだけではなく、最も神に固有なものである。なぜなら神はおっしゃっているからである。「人間を我々の像と肖に似せて創ろう」と。さらに「神は人間を創った。神の像に似せて創った。人間の顔に命の息を吹き入れた。(同一章二十六、二十七節、二章七節)」そして我らの主ご自身は、我々の所へ来て、人間の姿、人間の肉体と霊(たましい)を取った。一言で言えば、罪以外は全てにおいて人間になったのである。このことによってご自分を人間と同化し、人間をご自分のものとされたのである。ゆえに聖人が「人間は最も尊い財産だ」と語ったことは的を射ているし、理に適っている。その後、さらに明確に言って付け加えている。「神の像に似せて創られたものを神に与えよう。」これはどのようなことであろうか。このことを使徒から学んでみよう。使徒は言っている。「肉と神(しん)のあらゆる汚れから自分を清めよう。(コリンフ(コリント)後七章一節)」と。我々が像をもらった時のように我々の像を清らかにしよう。この像を罪の汚れから洗おう。それは善行から生じる像の美しさが現れるためである。この美しさについてダワィド(ダビデ)も祈って言っている。「主よ、爾の意志により我が善に力を与え給え。(第二十九聖詠八節)」ゆえに自分の中にある神の像を清めよう。なぜなら神は、神が与えた像、シミも悪徳も何かその種のものもない像を我々から要求しているからだ。(エフェス五章二十七節)神の像に似せて創られたものを神に与えよう。自分の長所を知ろう。いかに偉大な善を我々が享受しているかを知ろう。誰の像に似せて我々が創られたか思い出そう。我々の長所によってではなく、唯一神の恩寵によって我々に与えられた偉大なる善を忘れないようにしよう。我々は、我々を創った神の像に似せて創られたのだ、ということを理解しよう。「原像を尊ぼう。」我々は神の像に似せて創られたのだから、神の像を辱めないようにしよう。皇帝の像を描こうとしている人が、その像にあえて質の悪い絵具を使うだろうか。彼はこのことによって皇帝の名誉を毀損(きそん)して罰を受けることにならないだろうか。逆に彼はこのために王を描くのに相応(ふさわ)しい高価な光り輝く絵具を用いるのではないか。時には皇帝の絵に金そのものを貼り、もし出来ることなら、その肖像を見て皇帝の特徴が全て包括されるように、皇帝自身を、実物を見ていると思うように全ての王の服装を描き出すように努めるのではないか。なぜなら肖像は威風堂々として優美であるからである。同様に神の像に似せて創られた我々も、自分の「原像」を辱めないようにしよう。逆に自分の像を清らかで、栄光のある、「原像」に相応しいものとしよう。というのも、もし目に見える、我々と同様な情欲を持つ皇帝の肖像を辱めれば罰が下されるとしたら、自分のうちにある神の像を軽蔑して、聖人が言っているように、像を汚れたものとしている我々はどんな災いを受けることになるだろう。
それゆえに「原像に敬意を表そう。機密の力とハリストスが誰のために死んだかということを悟ろう。」ハリストスの死の機密の力は次のようなものである。我々は罪によって自分の中にある神の像を失ってしまった。それゆえ使徒が言っているように、堕落と罪を通して死ぬものとなってしまった。(エフェス二章一節)するとご自分の像に従って我々を創った神は、ご自分の被造物かつご自分の像を憐れんで、我々のために人となり、全ての人のために死を嘗(な)めたのである。それは我々殺されたものを、自らの不従順によって失った命に呼び返すためである。なぜなら神は聖なる十字架に上り、我々が楽園から追い出されたゆえんの罪を磔にし、聖書に書いてあるがごとく「擄者(とりこ)を擄(とりこ)にし、(第六十七聖詠十九節、エフェス四章八節)」たからである。アダムが罪を犯した後、敵は我々を虜にし、我々を自分の勢力下に置いた。それで人間の霊は、体から出ると、地獄に入った。なぜなら楽園は閉まっていたからである。一方ハリストスが「聖なる命を施す十字架」の高みに上ると、彼はご自分の血によって、敵が犯罪によって我々を擄にしていた擄者から、我々を免れさせたのである。つまり、再び我々を敵の手から奪い、言うならば、逆に我々を擄にし、我々を擄にしていた者に勝ち、失墜させたのである。ゆえに聖書で神は擄者を擄にしたと言われているのだ。機密にはこのような力がある。つまり聖人が言っているように、殺された我々が命へと高められるように、ハリストスは我々のために死んだのである。それゆえ我々はハリストスの人間愛によって、地獄から免れたのである。我々にかかっているのは天国へ行くことである。なぜなら敵は以前のように我々を強いることはすでにないからであり、我々を奴隷状態に置くことはないからである。兄弟たちよ、ただ自分自身に気を配り、実際上の罪から自分を守ろう。なぜなら私が以前にも何度もあなた方に言っているように、我々自身が自由意志で自分を失墜させ、敵の奴隷になるなら、行いに移された罪はどんなものでも、再び我々を敵に隷属させるからである。ハリストスがご自分の血によって我々を地獄より免れしめた後で、また我々がこれら全てのことを聞いた後で、もし再び自分で地獄の方に行って、地獄に入ってしまったとしたら、これは恥ずかしいことで、大きな不幸ではないか。このような場合、我々はさらに強力で残酷な苦しみに値するのではないか。願わくは人を愛する神が我々を憐れんで、我々に注意力を与えて下さるように。それは我々が全てこれらのことを理解し、たとえ小さくても、憐れみを得るために、自分自身を助けることができるためである。








