第十九教訓 さまざまな短い格言
師父ドロフェイは言っていた。自分の理性や自分の判断に重きを置く人は、隣人の善なる行いに服従したり、従ったりすることはできない、と。
また同様に語っていた。我々は欲望に満ちているので、決して自分の心を信じてはならない。なぜなら曲がった規則はまっすぐなものをも曲げてしまうからだ。
同様に語っていた。全ての物、栄光、肉体的な安息、それらと共に自己正当化を軽蔑しない人は、自分の願望を捨てることも、怒りや悲しみから解放されることも、隣人を安心させることもできない。
同様に語っていた。悲しみのうちにあって、あなたに服従している人を裁かなかったり、同情したりするのは偉大な業(わざ)ではない。偉大なのはあなたに反対する人のことを裁かず、欲望に従って彼に復讐せず、彼を非難する人に同意せず、あなたよりも優遇されている人と共に喜ぶことである。
また語った。隣人から愛を求めてはならない。なぜなら愛を求めている人が、もし愛と出会わなかったら困惑するからだ。より良いのは逆にあなた自身が愛を隣人に与え、安心することである。このようにして、あなたは隣人をも愛へと導くだろう。
また語った。神に喜ばれる業を行う者には、必ず誘惑が襲う。なぜならあらゆる善行の前か後には誘惑がついてくるからだ。神のために行ったことは、もし誘惑によって試みられなければ、確固たるものとはならない。
また語った。一つ一つのことで互いに喜び合い、思いを同じくする時ほど、人々を互いに強く一致させるものはない。
また語った。隣人の贈り物を軽視しないことは、謙遜の業である。そしてたとえその贈り物が小さく重要でないことであっても、感謝の心でそれを受け止めなければならない。
また語った。もし私が何かのことに遭遇したら、自分の意志に従ってことを成功裏に遂行するよりも、隣人の助言に従って行動した方が心地よい。たとえ隣人の助言に従って事を仕損じたとしても。
また語った。全てにおいて、あなたが必要としている小さなことを自分で慮るのは良いことだ。なぜなら全てにつけ安息しているのは益にならないからだ。
また語った。どのようなことが自分に起ころうとも、私は決して人間的な知恵で自分を護ろうとはしなかった。逆にどんなことにつけ、私は常に私の力相応のことを行い、全てを神に委託している。
また語った。自分の意志を持たない者は、常に自分の願いが叶う。なぜならこのような者は自分の願いを持たないので、彼に何が起ころうとも全てに満足しているからだ。こうして彼は常に自分の願いを果たすことになる。なぜなら、彼は事が彼が望んでいるように運ぶことを望まないで、事はなるようになればいい、と望んでいるからだ。
また語った。兄弟があなたに対して罪を犯したその時に、兄弟を責めようとするのは適切ではない。復讐する目的で他の時にそれを行ってもならない。
同様に語っていた。神への愛は自然的な愛より強い。
同様に語っていた。たとえ冗談でも悪をなしてはならない。なぜならある人は初め冗談で悪をなすが、その後意図せずして悪に惹きつけられるようになるからだ。
同様に語っていた。欲望から来る悲しみを避けるためではなく、欲望に対する完全な憎しみをもって、欲望を避けるようにしなければならない。言われている通りである。「我甚(はなはだ)しき疾(にくみ)を以て彼らを疾(にく)み、彼らを以て我が敵となす。(第百三十八聖詠二十二節)」
同様に語っていた。もし人が最初に自分の心の中で隣人に対して高ぶらず、隣人を卑しめず、自分を隣人より上だと見なさないのなら、誰につけ隣人に対して怒るということはありえない。
同様に語っていた。誰かが自由意志で欲望を実行している兆候は、彼の罪を暴き、それを矯正させられる時に、彼が困惑することである。困惑なしに暴露、つまり諭しに耐えるのは誰かが欲望によって打ち負かされ、欲望を知らずに行っている兆しである。我らの神に光栄は世々に帰す。アミン。








