第十八教訓 食料係の仕事をしている兄弟へ

もし憤ったり、恨みを持ったりしたくなければ、決して物に対する執着を持ったり、法外にそのことを慮ってはいけません。しかし、それらをあまり重要ではない、なけなしのものとして軽視してもいけません。もし誰かがそれらの物をあなたからもらおうとするのなら、与えなさい。もし彼が偶然または不注意によって壊してしまったり、失くしてしまったりしても、悲しんではいけせん。とは言ってもあなたは修道院の物についてぞんざいにならないように、行動しなければなりません。なぜなら、絶えずあなたの力相応の熱意を神の前に現しつつ、自分を困惑や論争から守りたいという願いから、あなたは全力でもって、かつあらゆる熱意をもって、それらに配慮しなければならないからです。このことに到達することができるのは次の時だけです。つまり、修道院の物を自分自身の物としてではなく、神に捧げられたものとして、ただあなたの配慮に委ねられたにすぎない物として、管理する時です。なぜなら、前者は我々が物に対する執着を持たないようにさせ、後者はそれらをぞんざいに扱わないようにさせるからです。もしもあなたにこの二つの目的がないのなら、困惑に陥ったり、自分をも他人をも困惑させ続けたりするだろうということを確信しなさい。

質問 この言葉を聞いて私の思いは喜びました。そしてこれがその通りになることを願っています。しかしなぜ私は必要な時に準備できないのでしょう。

回答  なぜならあなたは常にこのことを学んでいる訳ではないからです。もし必要な時にこの思いを持ちたいならば、それらを常に学び、絶えずそれに従いなさい。そして、あなたは次第に進歩していくのだと、神を信じなさい。かつ祈りを聖書の教えで混ぜ合わせなさい。病人を喜ばせなさい。重要なのは、しばしば私が言っているように、このことによって憐れみの心を獲得することです。その際、あなたが病気になった時、神はあなたに奉事する人を送って下さいます。なぜなら神は言っておられるからです。「あなたが量る秤(はかり)であなたも量られる。(マトフェ七章二節)」と。もし自分の力に応じて、良心に従ってことを行おうとするのなら、あなたは次のことを知り、確信しなければなりません。つまり、あなたは、まだ真実の道を悟っておらず、それゆえに、自分では良心に従って行ったつもりだったのに、あなたが罪を犯したと聞いた時、困惑や悲しみなしに、逆に喜びをもって受け止めなければならないということを。なぜならあなたより賢明な人たちの判断によって、不完全なものは全て改まり、良くできたこともさらに確実になるからです。肉体的であれ、霊的なことであれ、悲しみが襲う時、あなたは悲しみや重荷を感じることなく、忍耐を持って受け流せるように努めなさい。あなたがやらなかったことを、あたかもあなたがやったかのように言われたら、このことによって驚いたり、悲しんだりしないように。逆にすぐに謙遜をもって、このことをあなたに言った人にお辞儀をして、彼に言いなさい。「私を赦して下さい。そして私のためにお祈り下さい」と。その後は師父たちが戒めているように黙りなさい。一方で彼がこのことは真実か否かあなたに問うなら、その時は謙遜をもってお辞儀をしてことがどのようなものであったか、真実に基づいて言いなさい。そして言ったら、再び謙遜をもってお辞儀をして、「私をお赦し下さい。私のために祈って下さい」と言いなさい。

質問  私はどうしたらいいでしょう。兄弟たちと会う時、私はいつも同じ心持ちでいることができません。

回答  あなたはまだ兄弟たちと会う時に同じような心持ちではいられないでしょう。しかし、何らかのことで過ちを犯さないように努めなさい。誰をも裁いたり、非難したり、あなたに利益をもたらさないからといって、兄弟の言葉尻を捉(とら)えたり、行いや立ち振る舞いで兄弟を叱責しないようにしなさい。それよりも全てのことから、あなたの教訓となることを引き出しなさい。言葉でも、行いでも、見栄を張って自分をひけらかさないようにしなさい。食事でも、あなたの言葉でも、些細なことに至るまで、節度をわきまえるようにしなさい。誰かが欲望に満ちた考えと戦っていたり、そのことで悲しんでいたりして、そのことを痛悔しない人は、自分自身に対してその考えを強めてしまうということを知りなさい。つまり考えに力を与えて、さらに戦いが激しくなり、彼を苦しめるのです。もしも彼が自分の考えと戦い、反抗し始め、考えと反対のことをするのなら、我々がいつも言っているように、欲望は弱くなり、彼と戦う力や、彼に悲しみを与える力がなくなります。このようにして、少しずつ修行し、神からの助けを得ながら、彼は欲望自体を克服するのです。願わくは諸聖人の祈祷によって、神が我々を守って下さるように。

質問  なぜ師父ピーメンは神を畏れ、神に祈り、隣人に善を行うことは三つの主要な善行だと言ったのでしょうか。

回答  神を畏れるようにと長老が言ったのは、神への畏れは全ての善行に先立つものだからです。なぜなら「智慧の始(はじめ)は主を畏るる畏(おそれ)(第百十聖詠十節)」だからです。そして神の畏れなくしては誰も善行も何かの善いことも行うことはできないからです。というのは「主への畏れによってあらゆる悪を回避する。」からです。神に祈らなければならないと長老が言ったのは、人は自分自身では私が先にも指摘したように、善行も何か善いことも身に付けることができないからです。たとえ神の畏れによってこのことについて努力し始めたとしても。というのは神の助けなしには何もできないからです。こういう訳で我々の努力と神の助けが、必ず必要となるのです。ゆえに人は常に神に祈り、神が助けて下さり、全てのことにおいて助勢して下さるように、請わなければなりません。一方で隣人に善をなすこと、これは愛の行いです。それゆえ、神を畏れることと神に祈ることは自分一人だけのためになりますが、あらゆる善行は隣人への愛によって完成します。それゆえ長老は隣人に善を行いなさいと言ったのです。こういうわけで、神を畏れ、神に祈る人は隣人にも益をなし、隣人に善をなさなければなりません。なぜなら私がかつて言い、また聖使徒が言っているように善行の完成をなすものは愛だからです。我らの神に光栄は世々に帰す。アミン。