第三教訓 良心について
神が人を創られた時、神は人の中にある種の神聖なるものを植え付けられた。それはあたかも閃光にも似た光と暖かさを持つある種の考えである。つまり智を照らし、智に何が善で何が悪かを示す考えである。これは良心と名付けられており、自然的な法則である。これは聖師父が解説しているように、イサアク(イサク)が掘り、ペリシテ人が埋めた井戸(創世記二十六章)のことである。この法則、つまり良心に従って、太祖や成文律法以前の全ての聖人たちが神を喜ばせた。しかし人々が陥罪を通してその良心を塞(ふさ)ぎ、踏みにじった時、井戸〔良心〕を開き、建設するために、つまり神の聖なる戒めの遵守によって再び埋められた閃光に火を灯すために、成文律法が必要となり、聖なる預言者が必要となり、我らの主宰イイスス・ハリストスの到来自体が必要となったのである。
今日、再び良心を塞ぐか、または良心に従って良心を我々のうちに光らせ、我々を照らさせるかは私たちの手中にある。というのは我々の良心が何かをするように言い、一方我々がそれを軽んじる時、そして良心が再び言うが、我々が行わずに良心を踏みにじり続ける時、その時我々は良心をふさぎ、良心はすでにそこに置かれている重荷のゆえに、明らかに我々に語らなくなる。ちょうど帳(とばり)の向こう側に輝いている燭台が、我々に物を暗く見せるように。そして多くの泥で濁った水の中に誰も自分の顔を写してみることができないように、我々も罪によって、我々の良心が我々に語りかけることを理解できない。こういうわけで我々にはまったく良心がないように感じられるのだ。しかし良心のない人間はいない。なぜなら、上述したように、良心とはある種の神聖なるもので、決して滅びることがなく、常に我々に有益なことを思い出させるからである。一方我々はこのことを感じない。というのはすでに述べたように、我々が良心を軽んじ、踏みにじっているからである。
ゆえに預言者はエフレム(エフライム)を嘆いて言っている。「エフレムは自分と争う者を打ち負かし、裁きに勝つ。(オシア(ホセア) 書五章十一節)」預言者は良心を争う者と名付けている。ゆえに聖書で言われている。「あなたと争う者と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。(マトフェイ五章二十五、二十六節)」しかしなぜ良心が争う者と名付けられているのであろうか。良心が争う者と名付けられているのは、それが常に我々の意志と反抗し、我々がすべきであるがしていないことを思い出させるからである。そしてまたしてはならないがしていることも思い出させる。このことのために良心は我々を裁くのである。ゆえに主も良心を争う者と名付け、「あなたと争う者と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」と言われ、我々を戒めているのである。道とは聖大ワシリイが言っているようにこの世のことである。
ゆえに兄弟よ、我々がこの世の中にいる間に我々の良心を守るように努めようではないか。良心が何かの行いにおいて我々を暴露することがないようにしよう。ごく小さなことにおいても決して良心を踏みにじらないようにしよう。この小さな、本質において取るに足りないことを軽んずることから、我々は大いなることをも軽んずるようになるのだ。なぜなら、もし誰かが「私がこの言葉を言うことが何で重要なのだ。この取るに足らない物を食することが何で重要なのだ。あれこれの物を見ることが何で重要なのだ」と言い始めると、ここから「このことが何で重要なのだ。他のことが何で重要なのだ」と彼は悪い習慣に陥り、大いなる重要なことをも軽んじ、自分の良心を裏切ることになる。一方このように悪のうちに立ち止まりつつ、完全なる無感覚に移行する危険性に陥る。ゆえに兄弟たちよ、小さなことを軽んじないように気を付けなさい。いかに小さく些細なことであろうとも、それをないがしろにしないように気を付けなさい。それは小さいことではないのだ。というのはこれによって悪い習慣が生まれるからである。自分に気を付け、些細なことを、まだ些細なうちに配慮しよう。それが大事に至らないためである。なぜなら善行も罪も小さなことから始まり、大いなる善と悪に移行するからである。ゆえに主は我々に自分の良心を守るように戒めを与えられている。あたかも我々一人一人に特別に忠告されているかのようである。「不幸なる者よ、あなたがしていることを見なさい。我に返って、あなたがまだ道にいるうちにあなたと争う者と和解しなさい」と。その後、この戒めを守らなかった不幸な結果を示している。「さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。」その次は何であろうか。「はっきり言っておく、最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」なぜなら、上述したように、良心が我々を善においても悪においても暴き、何をするべきか我々に示しているからである。そして再び良心は来世でも我々を裁くのである。ゆえに言われている。「さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡す」云々と。良心を守ることは多様である。なぜなら人間は良心を神に対して、隣人に対して、物に対して守らねばならないからだ。神に対して良心を守っている人とは、神の戒めを軽んぜず、人々が見ないことにおいても、誰も我々に要求していないことにおいても、秘密裏に神に対する自分の良心を守る人のことである。たとえば、彼は祈りを怠り、欲望を促す考えが彼の心に入ったが、彼はそれに対抗せず、思い留まって正気に返らず、 そしてそれを受け入れた。同様に、何かをしているか話している隣人を、誰かがよくあるように裁いた。端的に言うと、神と我々の良心以外は誰も知らない秘密裏に行われること全てを我々は守らなければならない。これは神に対して良心を守ることである。隣人に対して良心を守ることは、ご存知のように、行いや言葉や外見や目つきで隣人を辱めたり、誘惑したりすることを決して行わないことである。なぜなら、私がしばしば繰り返しているように、目つきで兄弟を悲しませることがあるからである。端的に言えば、人は隣人を悲しませる目的であると知っていることを行ってはいけない。これにより彼の良心が汚される。というのは、これは兄弟に害を与え、彼を悲しませる目的で行ったということを自覚しているからである。これは隣人に対して自分の良心を守ることである。物に対して良心を守るというのは、ぞんざいに何かの物を取り扱わず、物を壊したり、捨てたりすることがないようにすることである。一方もし捨てられた物を見たら、たとえそれがあまり重要ではないとしても、それをないがしろにしてはいけないのであって、それを拾い上げて、元の場所に戻さなければならない。自分の衣類についても無思慮に対処してはならない。なぜなら他の人々は衣類を一週間、二週間、もしくは一カ月でさえ着続けるのに、彼はしばしば時期尚早に衣類を洗い、そうして衣類を傷め、あと五カ月余り着られるのに、彼は頻繁に洗濯することによって衣類を古びさせ、使い物にならなくさせてしまうのだ。これは良心に反することである。同様のことが寝床に対しても言える。しばしば他の人は枕一つで満足できるのに、彼はふかふかした布団を探す。もしくは苦行服があるのに、それを虚栄心や憂鬱から取り換え、他の新しいもっと美しい物に取り換える。他の人はベッドカバーだけで過ごせるのに、彼は他の良き物を探し、時としてそれを得られない場合には論争さえする。一方、もし彼が自分の兄弟を注意し始めて言うとしよう。「なぜ彼の所にはあって、私の所にはないのだ」と。その場合このような者は成功から遠い。同様にもし誰かが自分の衣類や毛布を太陽にかざして干し、適宜にしまうのを怠り、暑さで衣類や毛布がダメになってしまったとしよう。これも良心に反することだ。同様に食物も他の人は少量の野菜やレンズ豆、もしくは少量のオリーブで自分の要求を満足できるのに、彼はそれを欲せず、他のさらにおいしく、さらによい食物を探す。これらはみな良心に反することだ。師父たちが語るところによれば、修道士は決して良心が何かの物事において彼を暴くことがないようにしなければならない。
ゆえに、兄弟たちよ、常に自分に注意し、全てこれらのことから自分を守る必要がある。上述したように、主ご自身が我々に警戒させている不幸に我々が陥らないためである。願わくは我々の師父の言葉が我々を裁きに定めないように、神が我々にこれらのことを聞き、実行させて下さるように。








