第二教訓 謙遜なる心持ちについて
ある長老が言った。「私たちが聞く全ての言葉に『お赦し下さい』と言えるようになるためには、何よりもまず謙遜が必要です。なぜなら謙遜によって敵と反対者の全ての矢を折ることができるからです」と。長老の言葉にどのような意味があるか検討してみよう。なぜ長老は最初に謙遜が必要だと言い、まず節制が必要だと言わなかったのだろう。使徒は言っているではないか。「競技をする人は皆、すべてに節制します。(コリンフ(コリント)前九章二十五節)」と。また、なぜ長老は何よりもまず我々に必要なのは神への畏れだと言わなかったのだろう。聖書に書いてあるではないか。「智慧のはじめは主を畏るる畏(おそれ)なり十節)」、「人は主への畏れにより、あらゆる悪から逃れられる。(箴言)」と。なぜ長老は我々に必要なのは何よりもまず施しと信仰だと言わなかったのだろう。言われているではないか。「施しと信仰によって罪が清まる。(箴言)」と。また使徒も言っているではないか。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。(エウレイ(ヘブライ)十一章六節)」と。このように信仰がなければ神を喜ばすことができず、憐れみと信仰によって罪が清まり、主への畏れによってあらゆる悪から遠ざかることができ、智慧(ちえ)の始めは主を畏るる畏れであり、苦行する者は全てのものから節制しなければならないのであれば、なぜ長老はこれほどまでに必要な他のものをおいて、何よりも先にまず我々に謙遜なる心持ちが必要だと言ったのであろうか。長老はこのことによって、神への畏れ自体も、憐れみも、信仰も、節制も、他の何かの善行も、謙遜なる心持なしには完全ではないということを示したいのだ。さあ、なぜ長老は「私たちが聞く全ての言葉に『お赦し下さい』と言えるようになるためには、何よりもまず謙遜が必要です。なぜなら謙遜によって敵と反対者の全ての矢を折ることができるからです」と言ったのであろうか。兄弟よ、ご覧なさい、いかに謙遜の力が偉大であるか。ご覧なさい、「お赦し下さい」という言葉がどのような作用を持っているか。ではなぜ悪魔は敵と呼ばれるだけでなく、反対者とも呼ばれるのであろうか。敵と呼ばれるのは、悪魔が人を憎む者、善を憎む者、中傷者であるからだ。反対者と呼ばれるのは、悪魔があらゆる善なる業(わざ)を妨げようとするからだ。誰かが祈りたいとしよう。悪魔は反対して悪い思い出や、智を虜(とりこ)にすることや、憂鬱によって彼を妨げる。誰かが施しをしたいとしよう。悪魔は金銭欲やけちによって妨げる。警醒したいとしよう。悪魔は怠りや怠慢によって妨げようとする。このように悪魔は我々が善いことをしたい時いつも我々に反対する。ゆえに彼は敵だけでなく反対者とも名づけられているのである。謙遜によってあらゆる敵および反対者の武器を挫くことができる。なぜなら真に謙遜なる心持ちとは偉大なもので、聖人たちはみなこの道を通り、労働によって自分の道を短縮させたからである*1。聖詠歌唱者〔ダワィド(ダビデ)王〕が言っている通りである。「我が謙遜、我が労を顧み、我が諸(もろもろ)の罪を赦し給へ。(第二十四聖詠十八節)」「我遜(へりくだ)りしに、主は我を救い給えり。(第百十四聖詠六節)」その際、長老の師父イオアンが言ったように、謙遜はそれだけで我々を天国まで導く。しかしゆっくりとである。
このように少しばかり遜ることで我々は救われる。もし我々が弱き者として労することができないのであれば、遜るように心がけよう。というのは我々が謙遜をもって行った小さなことのために、我々も神のために多くの労をなし、働いた聖人たちの場所に入るであろうと、私は神の憐れみを信じているからだ。我々が弱く労することができなくてもよいのだ。しかし我々は遜ることができないというのだろうか。兄弟たち、謙遜を有する人は幸いである。謙遜とは偉大なものだからである。ある聖人が真の謙遜を持っている人のことを次のように的確に定義している。「謙遜とは誰に対しても怒らず、誰をも怒らせず、あれこれのことを自分とはまったく関係のないものと見なすことだ。」我々が述べたように謙遜とは偉大なものである。なぜなら謙遜だけで、虚栄心と敵対し、それから人を守るからだ。果たして人は所有物や食物のことでも同様に怒らないだろうか。どうして長老は、謙遜とは誰に対しても怒らず、誰をも怒らせないと言っているのであろうか。我々が言ったように、謙遜とは偉大なるもので、霊(たましい)に神の恩寵を強く引き付ける。神の恩寵は来たりて、霊を二つの上述した辛い欲望から守る。なぜなら怒り、隣人を怒らせること以上に辛いことはあるだろうか。「修道者には概して怒ること、同様に他人を怒らせることは相応(ふさわ)しくない」とある人が言っている通りである。なぜなら真にもしそのような者(つまり他人に対して怒り、怒らせる者)が速やかに謙遜で覆われなかったなら、彼は次第に悪魔的な状態になって、他人を困惑させ、自分自身も困惑するからである。ゆえに長老は、謙遜は怒らず、怒らせないと言っているのである。しかし、あたかも私は謙遜が二つの欲望からのみ庇護するかのように言ったかもしれないが、謙遜は霊をあらゆる欲望、あらゆる誘惑から庇護する。聖アントニイは悪魔が張り巡らした全ての網(誘惑)を見た時、嘆息して神に問うた。「誰がこれから免れるのか」と。すると神が答えられた。「謙遜がこれらを免れさせる」と。さらに驚くべきことに、神は付け加えられた。「謙遜な者にはこの網が触れることもないだろう」と。この善行の恩寵がおわかりだろうか。真に謙遜なる心持ち以外に強いものはなく、何もこの状態に打ち勝つことはできない。もし謙遜な者に何か悲しいことが起こったなら、彼はすぐに自分に目を向け、自分がこのことに相応しいと自分自身を裁き、誰も非難せず、誰かに罪を負わせることなく、このようにして起こったことを困惑も悲しみもなく、完全なる平静をもって受け止める。それゆえに誰に対しても怒らず、誰をも怒らせない。ゆえに何よりもまず我々には謙遜なる心持ちが必要だと聖人が言ったことは的を射ている。
謙遜には二つあるが、同様に傲慢にも二つある。最初の傲慢は人が兄弟を責め、裁き、彼を何も価値のない人のように辱め、一方自分は彼より上だと思っている時である。このような人はもしすぐに我に返らず、改めようと努力しなければ、少しずつ第二の傲慢にまで移行する。ゆえに彼は神ご自身に対しても思い上がり、自分の苦行と善行を神にではなく自分自身に帰するようになる。あたかも神の助けによるのではなく、自分自身で、自分の理性と熱心さによってそれを行ったかのように思い上がるのである。我が兄弟よ、真に私はある時この哀れな状態に到達した一人の人を知っている。最初、兄弟の誰かが彼に何かを言うと、彼はみなを卑しめて反駁(はんばく)した。「誰々とは何者だというのか。ゾシマと彼に倣(なら)う者の他に相応しい者は誰もいない。」その後彼らも批判して言うようになった。「マカリイ以外に相応しい者は誰もいない。」少し経つと言い始めた。「マカリイとは何者だというのだ。ワシリイとグリゴリイの他に相応しいものは誰もいない。」しかしまもなく彼は彼らをも批判して言った。「ワシリイとは何者だ、グリゴリイとは何者だ。ペトル(ペトロ)とパワェル(パウロ)以外に相応しいものは誰もいない。」私は彼に言った。「真に、兄弟よ、あなたはまもなく彼らをも卑しめるだろう。」そして私を信じてくれ、いくばくか経つうちに彼は言い始めたのだ。「ペトルとは何者だ。パワェルとは何者だ。聖三者以外には誰も何にも値しない。」とうとう彼は神ご自身に対しても驕(おご)り高ぶるようになり、このようにして気が触れた。ゆえに我が兄弟よ、全力を尽くして最初の傲慢に対して苦行しよう。というのは少しずつ二番目の、つまり完全なる傲慢に陥らないためである。
傲慢には世俗的な傲慢と修道の傲慢がある。世俗的な傲慢とは自分が他の兄弟よりお金持ちで美しいと兄弟の前で驕り高ぶったり、他の兄弟より良い衣服を着ているとか、身分が良いとかいうことで驕り高ぶることである。それで我々がこれらのこと〔優越〕で虚栄心を持ったり、我々の修道院は他の修道院より大きくてお金があるとか、この修道院には多くの兄弟たちがいるということで虚栄心を持ったりする時、我々はまだ世俗的な傲慢の中にいるということを知らなければならない。同様に何か天性の賜物で虚栄心を持つことがある。たとえば、良い声の持ち主だとか、歌が上手だとか、控え目で熱心に働き、務めも誠実にこなすとかいう場合も同様である。この優越は最初のものより上だが、しかしこれも世俗的な傲慢である。修道の傲慢というのは、警醒や、斎に修練している、敬虔である、立派に生きている、几帳面だといったことで虚栄心を持つ場合である。他の者は栄誉のために謙遜になることもある。これらは修道の傲慢に属している。まったく傲慢にならないことも可能である。しかし、もし傲慢から完全に逃れることができなければ、せめて、何か世俗的なことではなく、修道の業の優越性によって誇った方がまだましだ。このように我々は第一の傲慢とは何で、二番目の傲慢とは何かを述べた。同様に世俗的な傲慢とは何で、修道の傲慢とは何かを述べた。ではここで二つの謙遜が何から成っているかを検討してみよう。第一の謙遜とは自分の兄弟を自分より利口で、全てにおいて自分より優れている、一言で言えば、聖師父たちが述べているように、自分を全ての人より劣る者と見なすようにするということである。二番目の謙遜とは自分の偉業を神に帰すようにするということである。これは聖人たちの完全な謙遜だ。これは戒めの実行から霊の中に自然に生まれてくる。なぜなら木は実が多く生(な)れば、木の実自体が枝を下に垂れさせ、枝を曲げるからである。逆に木の実がない枝は上の方に上がり、まっすぐに伸びていく。枝が上の方に伸びる間は木の実が生らない木もある。もし誰かが石を取って石を枝に吊るし、枝を下に垂れさせれば、その時木に実が生る。このように霊も遜れば実が生り、実が多く生れば生るほど、さらに遜るのである。聖人たちも同様である。神に近づけば近づくほど、自分をより罪人だと思うのである。
覚えているのだが、ある時我々は謙遜についての話をしていた。そこでガザの町からの一人の高名なる市民が、人がより神に近づけば近づくほど、自分をより罪人と見なす、という我々の言葉を聞いて驚き、「どうしてそのようなことがあろうか。」と言った。私は彼に言った。「高名なる旦那さん、あなたは自分の町で自分を誰だと思っていますか。」彼は答えた。「街では偉大な第一の人物だと自負しています。」彼に言う。「もしあなたがケサリアに行ったら、そこでは自分をどう思いますか。」彼は答えた。「そこの貴族のうち最も劣る者だと思います。」彼にまた言う。「もしあなたがアンティオキヤに行ったら、自分をそこで誰だと思いますか。」彼は答えた。「そこでは平民の一人と思うでしょう。」さらに言う。「もしコンスタンチノープルに行って皇帝に近づいたら、そこであなたは自分を何者だと思い始めるでしょう。」そして彼は答えた。「ほとんど乞食のように思うでしょう。」その時私は彼に言った。「このように聖人たちも神に近づけば近づくほど自分をより罪人だと思うのです」と。なぜならはアウラアム(アブラハム)は主を見た時、自分を塵あくたと呼んだ(創世記十八章二十七節)。イサイヤは言った。「私は呪われた汚れたものである。(イサイヤ書六章五節)」と。同様にダニイル(ダニエル) も獅子の穴に投げ込まれた時、彼にパンを持ってきて、「神があなたに送られた食事を取りなさい」と言ったアウワクムに答えた。「神はこのように私のことを思い出して下さった。」と。彼の心にはどのような謙遜があったことだろう。彼は獅子と共に穴にいて、一度ならず二度も獅子から害を受けなかったが、全てこれらのことの後で、彼は驚いて言ったのである。「神はこのように私のことを思い出して下さった。(ダニイル書補遺、ベルと竜三十三~三十九節)」と。
聖人たちの謙遜と彼らの心がいかなるものであったかがおわかりだろうか。彼らは人々を助けるために神から遣わされても、謙遜から栄誉を避けるために拒んだのである。もし絹の衣を着ている人に汚いボロ着を投げかけたら、自分の高価な衣服を汚さないようにと脇へ避けるように、善行を身にまとっている聖人たちも人間の栄誉から汚れることがないようにとそれを避ける。栄誉を求めている者は裸の人に似ている。裸の人は自分の恥を覆うために小さな衣服か何かでもいいから見つけたいと思う。このように善行を身にまとっていない人は人間の栄誉を求めるのである。ゆえに聖人たちは、神から人々を助けるために遣わされても、謙遜からそれを断ったのである。モイセイ(モーセ)は言った。「誰か他にそれができる人を立てて下さい。私は口が重く、話し下手です。(出エジプト記四章十、十三節)」イエレミヤ(エレミヤ)も言った。「わたしは若者にすぎません。(イエレミヤ 書一章六節)」一言で言えば、聖人たちはみな、上述したように戒めの実行を通してこの謙遜を身に付けた。しかしこの謙遜とは何であり、どのようにこの謙遜が霊の中に生まれるかは、人が経験からこのことを学ばない限り、言葉で表現することはできない。つまり言葉だけでこれを学ぶことはできないのである。
ある時師父ゾシマが謙遜について語っていた。するとそこにいた詭弁家が、彼が言っていることを聞いて、このことを正確に知りたいと思い、彼に尋ねた。「あなたが自分のことをどのように罪人だと思っているのか私に話してくれませんか。果たして自分が聖なる人だということを知らないのですか。善行がある人だということを知らないのですか。だってあなたは自分がいかに戒めを実行しているかを知っているでしょう。どうしてあなたはそのように振る舞いながら、自分を罪人だと思うのですか。」長老は彼に言うべき答えを見出せず、ただこのように言った。「あなたに何を言うべきかわからないが、私は自分のことを罪人だと思っているのです」と。詭弁家は譲らず、どうしてそのようなことがあり得るか知りたいと願った。その時長老は彼にこのことをどう説明すべきかを見出せないまま、その聖なる単純さから彼に言い始めた。「私を困らせないで下さい。私は本当に自分をそのような者だと思っているのです」と。
長老が詭弁家にどう答えるべきかに悩んでいるのを見て、私は彼に言った。「詭弁学や医学の道においても同様のことが言えるのではないですか。その学問に精通し、それに従事していると、それを使う度合いに応じて、医者や詭弁家はある種の習慣を身に付けるようになります。行いにおいて経験豊かになったことを言葉で言って説明することはできません。私が先に話しましたように、霊(たましい)も次第に感覚的にではなく、修練を積むことによって習慣を得るのです。謙遜においても同じです。戒めの実行から謙遜に対るある種の慣れが生じます。そしてそれは言葉では説明できないのです。」師父ゾシマはこのことを聞いて、喜び、すぐさま私を抱きしめて言った。「あなたはことを悟った。それはまさしくあなたが言った通りなのだ。」そして詭弁家はこの言葉を聞いて満足し、これに同意した。
そして長老たちは我々が謙遜を理解する助けとなることを語った。謙遜から来る霊の状態自体は誰も説明できない。師父アガフォンに臨終の時が近づいた時、兄弟たちは彼に言った。「父よ、あなたでも恐れるのですか。」アガフォンは答えた。「できる限り私は戒めを守るために自分を強いた。しかし私は人間だ。どうして私の業が神に喜ばれているかどうか知ることができるだろう。というのは神の裁きは人間の裁きとは異なるからだ。」そうするとアガフォンは謙遜を悟らせるために、我々に向かって目を開いて、私が誰も言葉だけでは謙遜について言うことも悟ることもできなかった、と何度も言っているように、どのように謙遜に到達するか、どのようにそれが霊の中にあるかを示した。行いからだけでも霊は幾分でもこれを学ぶことができるのだ。一方何が我々を謙遜に導くかについては師父たちが言っている。なぜなら聖師父語録に次のように書かれているからだ。「ある兄弟が長老に尋ねた。『謙遜とは何ですか。』長老は答えた。『謙遜とは偉大で神聖なる業です。謙遜への道を助けるのは理性的に行われた肉体労働です。同様に自分を全ての人よりも劣ると思い、絶えず神に祈ることです。これが謙遜への道です。謙遜自体は神聖で悟り難いものです』と」
なぜ長老は肉体労働が霊を謙遜に導くと言っているのであろうか。どのようにして体の労働が霊の善行となるのであろうか。自分を全ての人よりも劣ると見なすことは上述したように悪魔と最初の傲慢に敵対する。なぜなら自分を全ての人よりも劣ると見なしている人はどうして自分を兄弟よりも偉大な人物と思ったり、誰かの前で驕ったり、誰かを非難したり卑しめたりできようか。同様に絶えず祈ることは明らかに二番目の傲慢に対抗するものである。なぜなら、謙遜で敬虔な人は、どのような善行も神の助けと庇護なくしては行うことができないことを知り、神が彼を憐れんで下さるように絶えず神に祈ることをやめないからである。というのは絶えず神に祈る者は、もし何かを行うことになったら、なぜ彼がこれを行ったかを知って、驕り高ぶることができず、これを自分の力に帰さず、逆に全ての自分の成功を神に帰して、常に神に感謝し、このような助けを彼が失うことがないよう、彼の弱さと無力さが現れることがないように震えおののきながら、常に神を呼び求めるからである。このように彼は謙遜と共に祈り、祈りによって謙遜になる。そして常に善行に進めば進むほど、常に遜ることになる。遜る度合いに応じて、彼は助けを得、謙遜なる心持ちを通して成功していくのである。しかしなぜ長老は肉体労働が謙遜に導くと言ったのであろうか。体の労働は霊の状態にどのように関係しているのであろうか。みなさんにこのことを説明しよう。霊は戒めを破った後、聖グリゴリイが言っているように、淫欲や、神ではなく自分が自分に律法を与えるようになるような欺きに陥るようになり、肉体的なものを愛し、ある程度体と一体になるようになり、霊全体が肉体のようになった。次のように言われている通りである。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。(創世記六章三節)」そして哀れな霊は体と共に苦しみ、肉体と共に行われる全てのことに共感するのである。ゆえに長老は肉体労働が霊を謙遜に導くと言ったのだ。なぜなら健康な人間の霊と病人の霊の状態は異なり、飢えている人の霊と満腹している人の霊の状態も異なるからである。同様に馬に乗って行く人の霊の状態と玉座に座している人の霊の状態、地面に座っている人の霊の状態は異なり、美しい衣服を着ている人とみすぼらしい衣服を着ている人の霊の状態も異なる。ゆえに労働が体を謙遜にさせる。体が謙遜になると体と共に霊も謙遜になるのである。つまり肉体労働が謙遜に導くと長老が言ったことは的を射ている。ゆえにエヴァグリイが神を冒涜(ぼうとく)する考えとの戦いで苦行していた時、彼は理性的な人物で、冒涜は傲慢から来るもので、体を疲れさせれば体と共に霊も遜るということを知っていたので、四十日間屋外で過ごした。それで彼の伝記の著者が語るところによれば、ちょうど野生動物にあるように、彼の体から蛆(うじ)が湧くようになった。このような労働を彼は冒涜のためではなく、謙遜のために始めたのである。ゆえに長老が、肉体労働が謙遜に導くと言ったのは的を射ている。願わくは善なる神が我々に謙遜を与えて下さるように。というのは、謙遜は人を多くの悪から免れしめ、人を大きな誘惑から庇護するからである。神に光栄と権柄(けんぺい)は世々に帰す、アミン。
*1 救いへの道のりは長いが、労働によって救いの道を短くしたとの意味。








