第一教訓 この世を拒絶することについて

神が最初に人間を創造された時(創世記二章)、神聖なる聖書が言っているように、神は人を楽園に置き、人をあらゆる善行で飾り、楽園の中央にある木から取って食べないようにとの戒めを人に与えた。そしてそのように人はそこで楽園の楽しみを享受して過ごした。つまり、祈りに捧げ、観想のうちに、またあらゆる光栄と尊貴のうちに、健康なる感情を保ち、創造されたままの自然的な状態にいることによって。なぜなら神は人をその肖(しょう)に似せて、つまり不死、かつ自分自身を管理する者、かつあらゆる善行で飾られた者として創造されたからである。しかし、人が戒めを犯して、神が人に食べるなと命じた木の実を食べた時、人は楽園から追放され(創世記三章)、自然的な状態から落ち、不自然な状態へと陥り、すでに罪、名誉欲、この世を楽しむ愛、その他さまざまな欲望の中に留まることになり、それらを所有する者となった。なぜなら過失によって、自らそれらの虜(とりこ)となったからである。その時、少しずつ悪が増し、死が支配するようになった。どこにも神を敬う心はなくなり、至るところで人は神を知らない存在となった。ただ我々の師父が言ったように、わずかな人々が自然の法則に促されて神を知っていた。それは次のような人たちである。つまり、アウラアム(アブラハム)とその他の太祖、ノイ(ノア)、イアコフ(ヤコブ)。端的に言うと、大変わずかなごく稀な人々しか神を知らなかった。なぜならその時敵がそのあらゆる悪を注いでいたからである。そして罪が支配していたがゆえに、次のことが始まった。偶像崇拝、多神教、魔術、殺人、その他の悪魔的な悪である。そしてある時善なる神はご自分の創造物を憐れんで、モイセイ(モーセ)を通して書いた戒めを与え、「これはしなさい」「これはしてはいけない」と言われているように、あるものは禁じ、あるものは命じられたのである。神は戒めを与え、まず初めに「あなたの神、主は唯一の主である。(申命記六章四節)」と言われた。それはこれによって彼らの智(ум,νοῦς)が多神教から離れるようにするためである。そして再び言われた。「あなたは霊(たましい、душа,ψυχή)を尽くし、思いを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(同六章五節)」そして至るところで神は唯一、主は唯一で他の神はいないということを告げ知らされた。なぜなら「あなたの神、主を愛しなさい」と言われることによって、神は、神が唯一で、主が唯一であることを示されたからである。そして再び十戒で「あなたの神、主を拝し、主にのみ仕え、主に付き、主の御名によって誓いなさい。(同六章十三節)」と言われ、その後次のように言い足されている。「あなたには他の神が有ってはならない。上は天にあり、下は地にあるいかなる同様のものも有ってはならない。(出エジプト記二十章三、四節)」なぜなら人々はあらゆる被造物に仕えていたからである。

ゆえに善なる神は悪から方向転換し、悪を治すための助けとして律法を与えた。しかし悪は改まらなかった。預言者を送ったが、彼らも成功を納めなかった。なぜならイサイヤ(イザヤ)が次のように言っているように悪が打ち勝ったからである。「かさぶたも、潰瘍も、焼かれるような傷も軟膏を塗る場所はなく、油でも包帯でも無駄だ。(イサイヤ 書一章六節)」あたかも次のように言っているかのようである。つまり悪は個人的なものでも、一か所でもなく、体全体で、あらゆる力をもって霊を所有してしまったため軟膏を塗る場所がない云々である。つまり全てが罪の支配下になり、罪は全てを所有しているのである。そしてイエレミヤ(エレミヤ)も次のように言っている。「我々はバビロンをいやそうとした。しかし、いやされはしなかった。(イエレミヤ 書五十一章九節)」つまり我々はあなたの名を表し、あなたの戒め、恩恵、約束を告げ知らせ、バビロンに敵の襲来を予告したが、バビロンはいやされなかった。つまり悔い改めず、恐れず、自分の悪行から立ち返らなかった。そこで他の箇所でも言っている。「彼らは懲らしめ」つまり諭(さとし)や教訓「を受け入れなかった。(同書二章三十節)」と。聖詠経では次のように言われている。「彼等の霊は凡(およそ)の食を厭ひ、彼等は死の門に近づけり。(第百六聖詠十八節)」その時ついに至善にして人を愛する神はその獨一子(どくいつし)を送られた。なぜならただ神お一人だけがこのような病を癒すことができたからであり、さらにこのことは預言者が知らぬことではなかったからである。ゆえに預言者ダワィド(ダビデ)ははっきりと語っている。「ヘルワィムに坐する者よ、己を顕せ。来りて我等を救ひ給へ。(第七十九聖詠二、三節)」「主よ、爾の天を傾けて降れ。(第百四十三聖詠五節)」などである。そして他の預言者もさまざまな形で多くのことを語った。ある者は神が世に降るようにと祈り、他の者は神が今にも降ると告げたのである。

このように我らの主は来りて、我らのために人となられた。それは聖グリゴリイが言っているように、似たものによって似たものを、霊によって霊を、肉体によって肉体を癒すためである。なぜなら主は罪以外全てにおいて人となれらたからである。主は我らの人性そのもの、我らの組織の基盤を取られ、最初のアダムを創った神の像に似せて、新しいアダムとなられた。つまり自然的な状態を新たにし、感覚を再び最初にあった通りの健康なものとされた。人となられた主は、堕落した人間を起こし、罪の奴隷となって、強制的に罪を有していた人間を解放された。なぜなら敵は強制的に残酷な形で人間を支配していたため、罪を犯したくない人々も意図せずして罪を犯してしまったからである。そのことを、我々を代表して使徒が言っている。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ロマ(ローマ)七章十九節)」と。

ゆえに我らのために人となられた神は、人を敵の苦しみから解放された。なぜなら神は敵のあらゆる力を失墜させ、その最も堅固な砦(とりで)を打ち砕き、敵の支配から我らを免れしめ、敵への服従と隷属状態から我らを解放されたからである。ただし我々自身が恣意的に罪を犯そうとしなかったら、である。なぜなら主が言われているように、聖なる洗礼によって我々を凡その罪から清めつつ「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(ルカ十章十九節)」を私たちに授けられたからである。というのは聖なる洗礼は凡その罪を取り払い、根絶するからである。その際、至善なる神は我々の弱さを知り、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(創世記八章二十一節)」と聖書に書いてあるように、洗礼後も我々が罪を犯すであろうことを予見して、その仁慈によって我々を清める聖なる戒めを与えた。それは我々が、もし望むなら、戒めの遵守によって再び我々の罪からだけでなく、欲望自体からも清まることができるためである。なぜなら欲望と罪は別のものだからである。欲望とは次のようなものである。怒り、虚栄心、名誉欲、憎しみ、淫欲など。罪というのは、人が欲望を行いで実践した時、つまり体で欲望がそそのかすことを行った時に、欲望が行動となって現れることである。というのは欲望を持っていても、それを行わないこともありえるからである。

ゆえに先に述べたように、神は我々に我々の欲望自体を清め、我々人間の内部にある最も悪い担保を清める戒めを我らに与えられたのである。というのは、神は人に善と悪を見分ける力を与え、それを呼び起こし、人が罪に陥る理由を人に示されているからだ。そして言われている。「律法はこう言った。『姦淫するな。』しかし私は言う。みだらな思いさえ抱くな。律法は言った。『殺すな。』しかし私は言う。怒りさえするな。(マトフェイ(マタイ)五章二十七、二十八節参照)」なぜなら、みだらな思いを抱くのであれば、今日あなたが姦淫しなくとも、淫欲は実際の行いに誘うまで、内的にあなたを困惑させ続けるからである。またもしあなたが自分の兄弟に対して怒り、憤っていれば、いつかは悪口を吐くようになり、その後で彼に対して狡猾に振る舞うようになり、そのようにして徐々に進んでいき、殺人を犯すことにまでなるだろう。また律法は言っている。「目には目を、歯には歯を(レビ記二十四章二十節)」と。一方ハリストスは頬を打たれたことを忍耐強く堪えるだけでなく、謙遜をもってもう片方の頬をも向けるように教えている。なぜなら、その時律法の目的というのは自分自身が苦しみたくないものを行わないということを教えていたからである。それゆえ自分自身が苦しまなくてよいように恐怖によって悪を行うことを控えさせたのである。今は先に述べたように、憎しみ自体、淫欲自体、名誉欲自体、その他のもろもろの欲望自体を追い払うことを要求している。一言で言えば、今や我らの主宰ハリストスの目的は、我々がこれらのあらゆる罪に陥った原因、このような悪い日々が我々に襲った原因を教えることだからである。そして私がすでに述べたように、まず初めに神は我々を聖なる洗礼で解放し、もし望むのであれば、善を行う自由を我々に与え、言うなればすでに強制的に悪に惹きつけられることのないようにされたのである。というのは罪の奴隷になっている人に、罪は重荷を負わせ、その人を魅了するからである。各人が自分の罪の鎖に縛り付けられている(箴言五章二十二節)と言われている通りである。その後神は、欲望を通して再び同じ罪に陥らないために、どのように聖なる戒めによって欲望自体からも清められるかを我々に教えられている。ついに神は我々に人が怠慢になり神の戒め自体を破るようになる原因を示されている。そしてそのようにして我々にこの原因に対する癒しを与えられている。それは我々が従順になり救われることができるためである。ではこの癒しとはどのようなものであろう。そして怠慢の原因とはどのようなものであろう。主ご自身が我々に語っておられることに耳を傾けてほしい。「わたしに学びなさい。なぜなら私は心が温柔で謙遜な者だから。そうすればあなたの霊に平安を得るであろう。(マ トフェイ(マタイ)十一章二十九節)」このようにここで神は我々に端的に、一言で言えば、あらゆる悪の根及び原因、そしてそれらの悪からの癒し、あらゆる善の原因を示している。つまり高ぶりが我々を失墜させ、それと相反するもの、つまり謙遜な心持ちを通してしか憐れみを受けることはできないということを示したのである。なぜなら高ぶりは軽視、不従順、滅びを生み、謙遜な心持ちは従順と霊の救いを生むからである。真実の謙遜とは言葉だけや外面上の謙遜のことではなく、心自体で確証された謙遜な心持ちの感情のことである。ゆえに真実の謙遜と平安を自分の霊(たましい)に臨む者は、謙遜な心持ちを学び、この中にあらゆる喜びとあらゆる光栄、平安の全てがあり、傲慢の中にこれらに反する全てがあるということを学ぶように。というのは、問題は何が原因で我々はこれら全ての悲しみに陥るかということだからである。それは我々の傲慢からではないか。我々の愚かさからではないか。それは我々がその悪い思いを制御しないことからではないか。それは我々が苦い我意を保っているからではないか。まさしくそれ以外の何の原因からであるというのか。人は創造された後、あらゆる楽しみの中に、あらゆる喜びの中に、あらゆる平安の中に、あらゆる光栄の中にいたのではなかったか。人は楽園にいたのではなかったか。人はこれをしてはならないと命じられたが、人はそれをした。この傲慢がおわかりだろうか。この強情がおわかりだろうか。この不服従がおわかりだろうか。

その後神はこの恥ずべき状態を見て言われた。人は愚かなものだ。人は喜びを享受することができない。もし人が不幸を体験しなければ、人はさらに悪を行ってしまい、完全に滅んでしまう。なぜならもし悲しみがどのようなものか知らなければ、平安がどのようなものか知らないだろうから。その時神は人に当然の報いを与えた。そして人を楽園から追い出された。そして人間は固有の自己愛と自分自身の意志に委ねるようになった。それは自分自身の過失によって痛い思いをして、人が自分自身に従うのではなく、神の戒めに従うことを学ぶため、不従順による極限の苦しみによって従順の平安を人に学ばせるためである。預言者によって言われている通りである。「あなたの背信が、あなたを責めている。(イエレミヤ書二章十九節)」しかし神の仁慈は私がしばしば述べているように、自分の創造物を軽んじなかった。逆に再び諭し、再び呼びかけている。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マトフェイ十一章二十八節)」あたかも次のように言われているかのようである。「ほら、あなたは労しました、ほら、あなたは苦しみました、ほら、あなたはあなたの不服従の悪い結果を体験しました。今は来て向き直りなさい。来て、自分の弱さを知りなさい。それは平安とあなたの光栄に入るためです。来て、あなたが自分を殺していた高慢に変わり、謙遜によって自分を生かしなさい。」「わたしは柔和で謙遜な者だからわたしに学びなさい。そうすれば、あなたの霊に平安を得るであろう。(同十一章二十九節)」我が兄弟よ、傲慢がなすことは驚くべきことかな。謙遜がいかに力あるかということは奇異なることかな。なぜならこの全ての変転の中にどれほどの必要性があることだろうか。もし人が初めに遜(へりくだ)り、神に従順を示し、戒めを守ったなら、人は堕落しなかったのだ。

再び、人の堕落後、神は人に悔い改め、憐れみを受ける者となる可能性を与えられた。しかし人は不遜にも不従順のままに留まった。神は来て人に言われたではないか。「アダムよ、お前はどこにいるのか」と。つまりどのような光栄からどのような恥にお前は移行したのか、と。そしてその後人に問うた。「なぜお前は罪を犯したのか、なぜ戒めを破ったのか」と。というのは、神はただ人に「お赦し下さい」と謝る準備をさせていたからである。しかし謙遜がなかった。どこに「お赦し下さい」という言葉があるだろうか。悔い改めはなく、まったく反対のものである。なぜなら人は反駁(はんばく)して、「あなたが与えて下さった妻が(私を欺きました)」と言って、異議を唱えているからである。人は「私の妻が私を欺きました」とは言わずに「あなたが与えて下さった妻が」と、あたかも「これは神様、あなたが私に与えた不幸です」と言っているかのようだからである。なぜなら我が兄弟よ、常にそうだが、人が自分を非難したくない時、人は疑いなく神ご自身を責めるのだ。その後神は女のところに来て彼女に言われている。「なぜお前は戒めを守らなかったのか」と。あたかも「お前の霊が遜り、お前が憐れみを受けるように、お前はせめて『お赦し下さい』と言いなさい」と彼女にただ示唆しているかのようである。しかし再び「お赦し下さい」の言葉を聞くことはない。なぜなら女は「ヘビが私を欺きました」と答えているからである。あたかも「ヘビが罪を犯しました。私に何の関係があるのですか」と言っているかのようである。罪深い者よ、あなたたちは何をしているのか。悔い改めて、あなたの罪を知りなさい、自分の裸を哀れみなさい。しかし彼らのうち誰も自分を責めたくなかった。片方のうちのどちらにも少しの謙遜も見出せなかった。ゆえにあなたは今我々の状態がどこにまで至ったかがはっきりとおわかりだろう。ご覧なさい、我々が自己正当化をし、自分の意志を保って自分自身にしたことがどれほど痛々しい不幸にまで我々を導いたことか。これは全て神に敵対する傲慢の所産である。一方謙遜の子供とは、自責、自分の理性を信用しないこと、自分の意志を憎むことである。なぜならこれらによって人は聖なるハリストスの戒めによって自分を清めることで正気づき、自然な状態に帰ることができるからである。謙遜なしには戒めに従うことはできず、何か善なるものに到達することはできない。これは師父マルクが言っている通りである。「嘆いた心なしに悪から解放され善行を得ることはできない」と。

ゆえに嘆いた心を通して人は戒めに従順なる者となり、悪から解放され、善行を獲得し、その後己の安息に入る。これを知って聖人たちはあらゆる手段をもって謙遜なる生活によって己を神と一体にしようとした。なぜなら聖なる洗礼後も欲望の作用を阻止するだけでなく、欲望自体に打ち勝ち、無欲になりたいと望んだある種の神を愛する人々がいたからである。彼らは次のような聖人たちである。聖アントニイ(アントニウス)、聖パホーミイ、その他の捧神なる神父である。彼らは、使徒が「肉と神(しん)のあらゆる汚れから自分を清め(コリンフ(コリント)後七章一節)」と言っているように、自分自身を清めようという善なる意図を持っていた。なぜなら、先に述べたように、戒めの遵守によって霊が清まるからである。言うなれば智も清まり、視力が回復し、自然な状態に到達するからである。「主の誡(いましめ)は明(あきらか)にして、目を明(あか)す。(第十八聖詠九節)」彼らはこの世にいながらにしては、適切に善行を行うことができないことを理解し、特別な生活形態、特別な時間の過ごし方、特別な行動様式を考えついた。つまり私は修道生活について語っているのであるが、彼らはこの世から遠ざかり、斎、警醒のうちに苦行し、荒野に住むことを始めたのである。彼らはそのまま地面に寝、その他、主のためにあえて自分に課した苦痛を耐え忍び、完全に祖国や親族、所有物や物や金を得ることから離れた。一言で言えば、己をこの世に磔(はりつけ)にしたのである。そして戒めを守るだけでなく、神に賜物をももたらした。彼らがどのようにそれを為したか説明しよう。ハリストスの戒めは全てのハリスティアニン(クリスチャン)に与えられている。そして全てのハリスティアニンがその戒めを守る義務がある。これらは言うなれば王に納めるべき年貢である。王に年貢を納めることを拒む者は罰を免れるだろうか。しかし世には偉大で高名な人々がいて、年貢を王に納めるだけでなく、王に贈り物を持って来る。このような者は偉大な名誉、偉大な賞、品位を受けることになる。師父たちもこのような者だ。彼らは戒めを守っただけでなく、神に贈り物をも持って来たのである。この贈り物とは童貞と無私*1である。これは戒めではなく、贈り物だ。なぜなら聖書にはどこにも「妻や子供を持つな」とは書かれていない。同様にハリストスは「行って持ち物を売り払い(マトフェイ十九章二十一節)」と言いながら、これを戒めとして与えていない。しかしハリストスに律法学者が来て、「善なる先生、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいですか」と言った時、ハリストスは答えた。「あなたは戒めを知っている。殺すな、姦淫するな。盗むな。隣人に対して偽証するな」などである。この人が「そういうことはみな幼い時より守ってきました」と答えた時に初めて主は付け加えられた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。(マトフェイ十九章二十一節)」と。主は命令されているように「所有物を売りなさい」とは言われなかった。そうではなく助言された。なぜなら「もし望むなら」という言葉は命令の言葉ではなく、助言の言葉だからである。

ゆえに上述したように、師父たちは神に他の善行と共に、「童貞」と「無私」という贈り物をもたらしたのである。そして私が先に言及したように、己に世を磔(はりつけ)にしたのである。しかしその後で、使徒が「世はわたしに対し、わたしは世に対して磔にされているのです。(ガラティヤ(ガラテヤ)六章十四節)」と言っているように、己を世にも磔にするように苦行した。これらの間にある違いはなんであろうか。どのように世が人に対して磔にされ、人が世に対して磔にされるのであろうか。人が世を拒み、修道士となり、両親や財産、所有物、商売、人に上げたり、人からもらったりすることを捨てる時、人に対して世が磔にされる。なぜなら人は世を捨てたからである。これは使徒の言葉を意味している。「世はわたしに対し、磔にされている」と。その後で使徒は付け加えている。「わたしは世に対して。」どのようにして人は世に対して磔にされるのであろうか。外面的な物事や、自分の楽しみから、もしくは自分で欲しい物、自分の願望から解放され、自分の欲望を殺す時、その時人は世に対して磔にされ、使徒と共にこう言えるのである。「世はわたしに対し、わたしは世に対して磔にされているのです。」と。

上述したように、我々の師父たちは、己に世を磔にし、苦行し、己を世に磔にした。一方我々は己に世を磔にしたのは、世を捨て、修道院に来たからだと思っている。つまり己を世に磔にすることを望んでいない。なぜならまだ世の楽しみを愛して、食物や衣類への執着を持っているからだ。もし我々に何か良き労働の道具があれば、我々はその道具に対し執着を持ち、何かたわいもない道具に対してこの世的な執着を持つこともある。これは師父ゾシマが言っていることである。我々はこの世から出てきて修道院に入り、全てこの世的な物を捨てた。しかしここでもたわいもない物のためにこの世的な執着を持つことがある。これは多くの我々の無知から来る。つまり多くの価値ある物を捨てた私たちが何かたわいもない物によって我々の欲望を実践してしまう。というのは、我々各人は持っている物を捨てたからである。大いなる物を持っている人は大いなる物を捨て、何かを持っている人はその持っている物、全ての人がその力に応じて持っている物を捨てたのである。しかし修道院に入って、上述したようにたわいもない物によって我々の執着を実践してしまう。しかし我々は次のように行わなければならない。我々はこの世とその物を捨てたのだから物への執着自体を絶ち、この拒絶が何から成っているのか、なぜ我々は修道院に来たのか。我々が着ている衣服とは何を意味しているのかを知らなければならない。つまりそれらのことを理解し、我々の師父のごとく苦行しなければならないのである。

我々が身に着けている服は袖がないマンティヤと革のベルト、アナラフとクーコル*2から成っている。これは全て象徴である。我々は我々の服装の象徴が意味するところを知らなければならない。それではなぜ我々は袖がないマンティヤを身に着けているのであろうか。他の人々はみな袖がある服を着ているのに、なぜ我々には袖がないのであろうか。袖は手のようなものである。手は行いの意味に理解される。それで手によって古い我々の人間の行うところを行うような考えが来たら、たとえば盗み、殴打、一般に我々の手によって何か罪を行うような考えが来たら、我々は我々の服装に注意を向け、袖がないこと、何か古い人間の業(わざ)を行う手がないことを思い出さなければならない。その上、我々のマンティヤは赤紫色を帯びている。この赤紫色とは何を意味しているのであろうか。王の兵隊はみな自分の外套(がいとう)に赤紫色を使用している。なぜなら王は赤紫色を着用しており、王の全ての兵隊は自分の外套に赤紫色を縫い付けるからである。つまり王に属する者で王に奉事する者だということが見てわかるための王家の特徴である。このように我々も我々のマンティヤに赤紫色を使用している。これは我々がハリストスの兵士であり、ハリストスが我らのために耐え忍んだ全ての苦難を耐え忍ぶ義務があるということを示している。なぜなら我らの主宰が苦しみを耐え忍んだ時、ハリストスは第一に王の王、主の主として、つまり王として、その後それらの不敬虔なる人々に侮辱された者として、赤紫色の衣を着ていたからである。そのように我々も赤紫色の印を持ち、上述したようにハリストスの全ての苦しみを耐え忍ぶという約束をする。そして兵士は使徒が「兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。(ティモフェイ(テモテ)後二章四節)」と言っているように、自分の勤めを退いて、農夫や商人になって、自分の位を失うことがないように、我々も苦行しこの世のことは慮らず、ただ唯一の主に仕えなければならない。というのは上述したように自分の行いに従事し、沈黙のうちに主に仕える処女となる(コリンフ(コリント) 後十一章二節)ためである。

我々には帯もある。なぜ我々は帯を締めているのであろうか。我々が締めている帯は第一に我々が仕事の準備ができているということの象徴である。というのは何かをしようとする人は最初に帯を締め、その後仕事を始めるからである。「腰に帯を締め(ルカ十二章三十五節)」と主も言っている通りである。第二に帯が死んだ体から取られるように、我々も欲を殺さなければならない。なぜなら帯は我々の下腹部に締めるが、そこには腎臓があり、言われているように、そこに我々の霊の欲の部分があるからだ。このことは使徒によっても言われている。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行いを捨て去りなさい。(コロサイ三章五節)」

同様に我々にはアナラフ(今はアナラフの代わりにパラマンをかける)もある。これは肩に十字にかける。これが意味するところとは、主が「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ八章三十四節)」と言っているように、我々は両肩に十字架の印を背負っているということである。十字架とは何であろうか。ハリストスへの信仰によって我々のうちに成就される完全なる死に他ならない。なぜなら聖師父語録に述べられているように、信仰は常に障害を排除し、我々にとってそのような完全な死に導く苦行を適宜なものとするからである。つまり人が全てこの世に死ぬために、である。そしてもし人が両親を棄てたら、その時は両親への執着を捨てて苦行すればよいので、同様に所有物や獲得、概して何かの物を棄てた人は、上述したように物への執着自体を棄てなければならない。ここに完全なる放棄があるのだ。

我々はクーコルもかぶっているが、これは謙遜の象徴である。クーコルをかぶるのは小さい、悪意のない赤ん坊である。成人した人はクーコルをかぶらない。我々がクーコルをかぶるのは悪意において赤ん坊になるためである。使徒が言っている通りである。「智においては子供となってはいけません。悪意においては幼子となりなさい。(コリンフ前十四章二十節)」悪意において幼子となるとはどういうことであろうか。悪意のない赤ん坊は、名誉を辱められても怒らないし、名誉を与えられても虚栄心を持たない。もし、誰かが赤ん坊の持ち物を取っても悲しまない。なぜなら悪意においては幼子となるということは悲しみに対して復讐せず、栄誉を求めないことだからだ。クーコルは同様に神の恩寵の似姿(にすがた)である。というのはクーコルが赤ん坊の頭を覆い温めるように、神の恩寵は我々の智を保護されるからである。聖師父語録に書かれている通りである。「クーコルは我々を統治するもの(智)を覆い、我々のハリストスにおける幼児性を、常に我らに敵対し、我々を突き落とそうとする悪魔から守る、我らの神救主の恩寵の象徴である」と。

また我々は下腹部のあたりに言葉を持たない欲を殺すことを意味している帯を締め、肩にはアナラフ、つまり十字架をかける。悪意のなさとハリストスにおける幼児性を意味するクーコルもある。このように、聖師父も言っているがごとく無関係の衣服を身に着けているということがないように、我々の衣服に見合った生き方をしよう。我々が偉大な物を棄てたがごとく、小さき物も棄てよう。我々はこの世を棄てたが、この世に対する執着も棄てよう。なぜなら私が述べたように、何の注意も引かないような特に重要でないありふれた物によっても執着は我々を世へと惹きつけ、世と一体にするからである。一方我々はこのことを悟っていない。ゆえに、我々が完全に変化し、世から解放されたいのなら、我々の願望を絶つことを覚えよう。このようにして少しずつ神の助けにより我々は進歩し無欲に到達するのである。なぜなら自分の意志を棄てること以外にこれほど人々に利益をもたらすものはなく、真に人はこのことから他のあらゆる善行において、よりさらに進歩するからである。道を行く人が道中杖を見つけて、それを取り、この杖の助けを借りて自分の道の大部分を行くように、自分の意志を棄てる道を行く者も同様である。なぜなら自分の意志を棄てることで、人は執着のない状態を獲得し、執着のない状態から神の助けによって完全な無欲へとたどり着くからである。短期間の間に十の願望を棄てることも可能だ。どのようにしてそれが可能か述べよう。

誰かが短い道のりを行く途中で何かを見つけ、考えが人に「あそこを見ろ」と言ったとしよう。一方、人は考えに答える。「まことに私は見ようとはしない。」そして自分の願望を棄てて、見ない。または話し好きな人々と出会った時、考えが人に「おまえも何か一言言え」と言うが、彼は自分の願望を棄てて、話さない。または人に考えが「行って、何を茹でているか料理人に尋ねろ」と言うが彼は行かず自分の願望を棄てる。また人が何かを見る時、考えが彼に言う。「誰がこれを持ってきたか、尋ねろ。」しかし彼は自分の願望を棄てて、尋ねない。このように自分の意志を棄てていくと、彼は意志を棄てることに慣れ、小さきから始めて、大きなことにおいても苦労なしに静かに意志を棄てることができるようになり、最後にはまったく自分の意志を持たなくなり、自分の願望が成就したかのように何が起こっても彼は平静でいられる。そしてその時人はどれほど自分の意志を実行することを望まなくても、意志は常に人の中に成就することになる。なぜなら自分の固有の意志を持たない者にとっては、彼に起こる全てのことが彼の意志と一致するからである。このように人は執着を持たない状態へと脱出し、執着を持たない状態から、上述したように、無欲へとたどり着くのである。自分の意志を捨てることが少しずつではあるが、どのような成功に導くかおわかりだろう。

福たるドシフェイは以前どんな人物だっただろうか。どのような贅沢と甘やかしの中から彼は修道院へ来たのだろうか。彼は神の言葉さえ一度も聞いたことがなかったのだ。しかしあなたは福たる従順と自分の意志の放棄が短期間にどのような霊的成長レベルまで彼を導いたかを聞いた。ゆえに神は彼を栄し、そのような彼の善行が忘れられることがないようにし、一人の聖なる長老に彼の善行を啓示した。長老は全ての偉大なる聖人たちの間にあって、彼らの福楽を楽しんでいるドシフェイを見たのである。

福たる従順と自分の意志の放棄が人を死より免れしめるということをあなたたちが知るために、私のもとに起こった他の同様の出来事をお話ししよう。私がまだ師父セリドの修道院にいたある時、そこへアスカロン国から自分の師父より頼まれ事をされているある偉大なる長老の弟子がそこへやって来た。長老は彼に夕方までに自分の修室に帰るようにとの戒めを与えた。そうこうしているうちに雨と雷を伴う強い嵐が起こり、近くを流れている早瀬は岸辺の高さにまで達した。兄弟は自分の長老の言葉を思い出して帰ろうとした。我々は彼が無事に早瀬を渡れることはないと思い、彼に留まるように頼んだ。しかし彼は我々と共に留まることに同意しなかった。その時我々は言った。「彼と一緒に早瀬のところまで行こう。彼が早瀬を見れば自ら引き返すだろう」と。このように我々は彼と共に行った。川まで来ると、彼は自分の服を脱いで、それを頭に結び付け、肩にかけていたものを腰巻にして、川へ、この恐ろしい急流へと飛び込んだ。我々は彼が溺れてしまうのではないかと怯えながら恐怖のうちに立ちすくんでいた。しかし彼は泳ぎ続け、あっという間に対岸に上がった。そして自分の服を着、そこから我々にお辞儀をすると、我々と別れ、すぐに立ち去って自分の旅を続けた。一方我々は立ちつくしたままで、善行の力に驚くばかりだった。その時我々は恐怖心から辛うじて川を見ることしか出来なかったが、彼は自分の従順のために無事に泳いで渡ったのである。

同様に師父が遣わしたこの兄弟は、また必要があって、村の、神のために彼らを助けた人のところへ行ったのだが、その人の娘が罪を犯そうとして彼を魅惑し始めると、ただこう言った。「神よ、我が師父の祈りによって我を救い給え。」すると彼はすぐさま修道院への道中にいるのに気が付き、自分の師父のもとへと歩いて行った。善行の力がおわかりだろうか。言葉の作用がおわかりだろうか。自分の師父の祈りを呼び求めるために、どのような助けがその中に込められていることだろう。彼はただ「神よ、我が師父の祈りによって我を救い給え」と言った。そしてすぐに気が付くと修道院へ帰る道にいた。両方の謙遜と敬虔に注意を向けてほしい。彼らは必要に迫られた状態だった。そして長老は長老に仕えている人のところに兄弟を送ろうと思ったが、「行きなさい」とは言わず、「行きたいか」と尋ねた。同様に兄弟も「行きます」と言わずに「あなたのお望みの通りにします」と答えた。なぜなら兄弟は誘惑されて自分の師父に不従順を示すことを恐れたからである。その後必要がさらに迫った時、長老は彼に言った。「我が子よ、立って行きなさい」と。そして長老は「神がお前を守るように我が神に恃む」とは言わないで、「神がお前を守るように我が師父の祈りに恃む」と言った。同様に兄弟も誘惑にある時に「我が神よ、我を助け給え」とは言わずに、「神よ、我が師父の祈祷に依りて我を救い給え」と言った。二人とも自分の師父の祈りにより恃んだのである。

彼らがいかに従順と謙遜を結合させたかおわかりだろうか。なぜなら〔二頭立ての〕馬車で一頭の馬が他の一頭を追い越すことができず、さもないと馬車が壊れてしまうように、従順にもそれに伴って謙遜が必要だからである。しかし上述したようにもし自分の意志を捨てるように自分を強いて、神のためにまったく疑いを持たず、彼ら〔師父〕が何を言おうと、完全なる信仰をもって、あたかも神ご自身から聞くように全てを行いながら、自分を自分の師父に委ねなければ、誰がこの恩寵に与ることができるというのだろう。誰が救いに相応(ふさわ)しいというのだろう。

ある時、聖(大)ワシリイが彼の管轄の修道院を訪問して、それらの修道院長の一人に「あなたの所に誰か救われる者はいるか」と言った話が残されている。師父は聖ワシリイに答えた。「座下、あなたの祈祷のおかげで、私たちはみな救われたいと願っております。」聖ワシリイは再び彼に言った。「誰か救われる者はいるか、と問うているのだ」と。その時修道院長は彼自身霊的な人物だったので、質問の力を理解して言った。「はい、おります。」聖ワシリイは彼に言った。「彼をここに連れて来い。」そこで修道院長はその兄弟を呼び出した。兄弟が来ると聖人は彼に言った。「手を洗う水をくれ。」兄弟は行って洗うための水を彼に持ってきた。洗い終えると聖ワシリイは水の入った洗面具を取って、兄弟に言った。「さあ、お前も洗いなさい。」そして兄弟は聖人から何の疑いも抱かずに手を洗った。このことで兄弟を試した聖人は兄弟に再び言った。「私が至聖所に入ったら、私の所に来て、お前のことを思い出させなさい。私はお前を叙聖する*3。」そして彼は再び聖人の言うことに判断を加えずに従い、至聖所で聖ワシリイを見ると、行って、彼に思い出させた。聖人は彼を叙聖し、自分と共に連れて行った。というのもこのような祝福された兄弟の他に誰がこの聖なる捧神なる人物と共にいることができようか。一方あなたは疑いを挟まない従順の経験がない。それで従順から来る平安を知らないのだ。

ある時私は長老の師父ワルソノーフィーに尋ねた。「主宰よ、聖書には『わたしたちが天国に入るためには多くの悲しみを経なくてはならない』と書いてあります。しかし私には何の悲しみもありません。私の霊を滅ぼさないために私は何をしたらいいでしょうか」と。なぜなら私には何の悲しみもなかったからだ。もし私に何かの考えがあったら、私は板を取って、長老に書いた。(まだ私が長老に奉事する前だったので、私は手紙で彼に質問した。)そして私が書き終える前にすでに私は楽になり、自分の益となるものを感じた。私に悲しみがないこととその平安はそれほど大きかったのだ。一方私はこの善行の力を知らず、「天国に入るためには我々は多くの悲しみを通らなければならない」ということを聞いて、悲しみがないことを恐れた。このように私がこのことを長老に説明した時、長老は私に答えた。「悲しまなくてよいのです。あなたが心配することは何もありません。師父たちに従順を示す者は誰でもこのように悲しみがなく、平安を保つのです。」と。我らの神に光栄は世々に帰す、アミン。

*1 個人の所有物を持たないこと

*2 頭巾

*3 聖職者にする