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2021年6月から7月の説教

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カシーラの府主教

フェオグノスト座下の説教

 

2021年6月7日 忍耐について

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

聖師父語録には、初心者の修道士が長老に「後世の修道士はどうなるのでしょうか」と尋ねた話が載っています。

長老は言いました。「もっと弱くなるでしょう。」

「では、その後は?」

「その後はさらに弱くなっていくでしょう。」

「では、そのあとは」

「彼らはさらに弱くなりますが、多くの悲しみがあるので、その人たちは私たち、今の偉大なる苦行者に勝るものとなります。」

 

悲しみは、私たちの信仰を試すために神が遣わすものです。「あなたがたは忍耐して、あなたがたの魂を獲得しなさい。」これが私たちに与えられた戒めです。なぜなら、忍耐の中で私たちの魂と、その強さと力が構築されるからです。目的にどれだけ近づいているか疑う余地もないのに、意気消沈してしまい、挫折してしまった人がどれだけいたことでしょう。

 

わたしはかつて次のような面白い話を読んだことがあります。ある優れたスイマーがいて、彼女は海を長距離泳ぎ、記録を出していました。そして、彼女にはまた別の記録があり、彼女の横にはボートがあって、それはただ彼女を守るためのものでしたが、話すことは禁じられていました。そして、彼女は最後の力を振り絞って泳いでいましたが、力が尽きたと感じました。彼女はボートに乗り込もうと決断し、彼女がボートに乗り込むと、岸まであと200~300メートルの距離だったことがわかりました。何十キロも泳いできて、もう残りがほんの少しになっていたのです。さぞかし悔しかったことでしょう。

 

私たちの人生においても、私たちが人生を歩んでいるとき、それは困難で、辛く、不可能であるように思われます。しかし、悲しみは長くは続かず、過ぎ去ってしまい、振り返ると「あれは何だったんだろう」と驚いてしまいます。

 

強制収容所のパワェル・グルーズデェフ神父からの手紙の、死闘を前にした言葉に驚嘆しました。「ここには一本歯がある。それを繁殖させるために置いておこう。」彼は不明瞭に話し、理解できません。(*1  )大体においてこれを省略してもいいと思います。彼は手紙の中で次のように、興味深く書いています。「ミーチャ、(親戚らしい)母のところに行って、慰めてやってくれ、心配させないでくれ、もし私が帰ってこなくても、悲しまないでくれ。私は自分の運命に満足していて、何の不満もない。まあ、人は甘いものだけでなく苦いものも飲まなければならないが、私はまだ苦いものを見たことがない。」

 

私たちの悲しみはどこにあるのでしょう。私たちの苦しみはどこにあるのでしょう。誰かが侮辱した。誰かに間違った目で見られた。何かが少し足りないのです。これは全く悲しみではなく、自分たちの弱さのために自分自身で考え出したものです。だからこそ、主と神の教会は、私たちに忍耐の中で魂を獲得するよう求めているのです。

 

しかし、忍耐は決して頑固さと一緒になってはいけません。なぜなら、頑固さを伴う忍耐は悪になるからです。愛をもって忍耐しなければなりません。主は私たちに苦難を与え、それは私たちの完成と魂の強化のために必要であることを理解しなければなりません。私たちは、愛と感謝をもってそれらを受け入れるべきです。「不幸に服従しなさい、そうすれば不幸があなたに服従するでしょう」という素晴らしい民間の諺があります。抵抗するとき、攻撃的になるとき、折れてしまうとき、残念ながら私たちの前にある目的にたどり着けないのです。しかし、主が与えてくださるものを感謝して受け入れるとき、私たちは勝利を得、勝利者となることができるのです。というのも、主は私たちに大きな力を与えてくださったからです。それは、謙虚な愛と柔和な忍耐の力です。

 

そして、願わくは、私たちが仕事をあきらめたり、怠けて力を抜いたり、絶望したりせず、自分が始めたものに堅固に留まるように、主が助けてくださいますように。主はこう言われました。「私が見出したように、私は裁く。罪人が悔い改めるのなら、彼の罪を覚えておかない。不法者が悔い改めるのなら、彼の罪を覚えておかない。一方で義人が罪を犯す時、その義を覚えておかない。私が見出したように、私は裁く」

 

ハリストス復活!

*1 パワェル長老は強制収容所で殴られて、一本の歯を残して全ての歯が取れてしまったが、元来陽気な性格なので、一本を繁殖させよう、だから一本の歯は残してくれ、と冗談を言っている。

 

 

 

2021年6月8日 逆説

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

パラドックスとは、何か明白なことが、信じられないことです。救主ハリストスの言葉にあるように、「自分の命を救おうとする者は、それを滅ぼす。また、福音のため、私のために滅ぼす者は、それを救うのである。」魂の救済が正教のハリスティアニンの最大の目的であることは知っています。しかし、魂を滅ぼす者が魂を救うのである。この言葉をどう理解すればいいでしょう。

 

そして、今日の福音書には、この問いに対する答えがあります。主は、種は死ななければ、実を結ばないとおっしゃいます。種が死ぬとき、初めて実を結ぶのです。もしその種がバスケットや棚のどこかに眠っていれば、それはずっとそのままです。そして、その種が死んで、初めて実を結ぶのです。

 

しかし、この考えをより深く理解するためには、タラントの譬え話を思い出す必要があります。主は、ある人には1タラント、別の人には3タラント、さらに別の人には5タラントを与えました。そして、5タラントを持っていた人は10タラントを手に入れましたが、最初の5タラントは死んでしまい、それを仕事のために与えたのです。そして、3つのタラントを手に入れた人は、そのタラントを仕事に生かし、それらも死んでしまいました。そして、1タラントをもらった人は、それを保管し、布に包んで安全に隠してしまいました。しかし、彼は何を聞いたのでしょうか。「怠け者の僕よ、お前は私、主が厳しく、残酷で、置かなかったところから取り、蒔かなかったところから刈り取る、ということを知っていたのか。この1タラントを彼から取り上げて、10タラント持っている人に与えなさい」。

 

そして、今日の福音朗読でも耳にした、救主ハリストスの言葉でこの考えを締めくくりたいと思います。「私に仕える者は、私に従いなさい」ハリストスに仕えるのであれば、同じようにしなさい。最も空虚な人間とは、自分のことで精一杯の人間であり、自分は全てが満たされているが、自分以外には彼には何もないのです。神の人、ハリスティアニンは、周りの人と共にいることで満たされています。近くにいる人も遠くにいる人も気にかけ、自分の仕事にも気を配り、自分を捧げます。彼は毎日死んでいますが、こうして不滅の魂を救っているのです。

 

ハリストス復活!

 

 

 

 

2021年6月21日 聖神の日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

人間の人生には取り戻せないことがあります。つまり、何かの行為をしたときに、その行為のせいで自分を元に戻せなくなるのです。人の生涯には多くの罪や過失があります。しかし、後戻りできなくなる時が一つあるのです。主はまさにそのことについて、次のようにおっしゃいました。「すべての冒涜は人に赦されるが、ただ一つの冒涜、つまり聖神を冒瀆することは赦されない。」(マトフェイ12:31参照)聖神に対する冒涜とは何でしょう。それは、自分のものではないものを自分のものにしてしまうことです。私たちが行うすべての善いことは、聖神の恩寵のおかげで行うのであり、そのことを理解し、神に感謝するとき、私たちは祝福されます。逆に、聖神の賜物をおろそかにするようになると、自分自身に呪いがかかることになります。最初の世界は洪水によって滅ぼされましたが、その時に生きていた人々にはどのような罪があったのでしょうか。主は言われました。「私の神(しん)は人々によって永遠に軽んじられてはいけない。」人々は聖神を軽んじ、世界は滅びました。

 

そして今日、私たちは、聖神の恩寵のおかげで生きている世界に生活しています。そして、理解しようが、しまいが、人々はこの恩寵によって生きているのです。電気なしではどんな機械も動かないのと同様です。機械はそれを理解していませんが、電気を取り去ると機械は止まってしまいます。そうして、第103聖詠(詩編104)にはこう書かれています。「爾の気を施せば造られ、爾は又地の面を新にす。其(その)気を取り上ぐれば死して塵(ちり)に帰る。」そして、これがこの聖神の恩寵によって私たちが生きているという自覚なのです。そして、このことを日々思い起こさなければなりません。それを主はまさに次のように言っておられるのです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の神(しん)が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(イオアン16:12-13)それは私たちのものではなく、主が私たちに与えてくださったものなのです。このために私たちは生きているのであり、このことを思い出し、神に感謝しなければなりません。そうすれば、「すべての冒涜は人に赦され、人の子に対する冒涜でさえも赦されるが、聖神に対する冒涜は赦されない」(マトフェイ12:31-32参照)と言われている人々のようにならないで済むのです。

 

ですから、私たちはこの忠告に耳を傾け、この教えに耳を傾け、どんな場所でも常に神にその聖神の賜物を感謝しましょう。その賜物のおかげで私たちは生き、行動し、話すことができるからです。その賜物のおかげで、私たちは人間であり、神の被造物であるのです。

 

 

 

2021年7月16日 永遠について

 

神が預言者モイセイを通して人類に与えた戒めは、たったの十個です。

何十億もの機会や行動の可能性があるのに、たった十の戒めです。

それは、すべてを定義し、私たちを神に合わせる戒めです。そして、その一つが、安息日を覚えてこれを聖別し、六日間は仕事を行い、七日目は主なる神に捧げなさい、というものです。

 

一見すると、それはさほど重要ではなく、最も簡単な戒めのようです。しかし、実際には、最も困難で、最も努力のいる戒めです。儀式のように扱って何もしなければ、それよりも簡単なことは何もありません。しかし救いのための戒めとして扱うならば、それよりも難しいことはありません。人間は空しく、あくせくと生きています。コヘレトはこう言いました。「なんという空しさ、なんという空しさ、全ては空しい」(コヘレト1:1)そうして、人は、少なくとも一日だけは神に捧げ、神を思い出し、空しいことを忘れ、速やかに飛び去ること、空しいこと全てを忘れなければならないのです。これはとても難しいことです。人にとっては自分の仕事をやる方がやりやすいのです。それで、七日のうち少なくとも一日を神に捧げることは、とても難しいことです。

 

私たちは生きて死ぬのですが、よく耳にするのが「人生が過ぎ去っていったのに気づかなかった、あっという間だった」という言葉です。

 

なぜでしょうか。なぜなら喧騒の中で生きているからです。もしも私たちがたとえ週に一回でも完全に一日を神に捧げたのなら、私たちの中にはそのような空しさはないでしょう。私たちは、意識的に、賢明に、明確に生きていたことでしょう。

 

克肖者セルギイは次のよう戒めを残しており、その一つがこのようなものです。

「自分の終わりを忘れなければ、決して罪を犯すことはありません」まさに、私たち一人一人にとって人生の有限性を自覚すること、それが10歳であろうと、20歳であろうと、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳、80歳、90歳、100歳であろうとも、これは一瞬なのです。そして私たちは皆永遠に移行するのです。そして永遠とはどんなに長い人生よりもはるかに長いのです。

 

アダムは長生きし、アブラハムも長生きしましたが全ては永遠の観点からすると、一瞬です。私たちは皆、永遠のために(生き)、私たちは皆、永遠に(入っていくのです)。

そして、自覚し、考え直し、正気になるために、神について記憶し、永遠について記憶し、この人生の向こう側で私たちを待っていて下さるということを思い起こさなければなりません。

 

そして、同時代の古典的な一人がこのことを素晴らしく表現しています。「死は、人生へのアプローチ、死のない人生へのアプローチです。」

 

実際、死者のために泣くとき、私たちは自分が死んでいかないかのように自分のことを考えます。実際に死者のために泣くことは、あなたが永遠に生きる時、本当に意味があるのです。

 

しかし、あなたに残された時間は少なく、1日、1年かもしれません。10年でも、30年でも、100年かもしれません。これはすべて一瞬に等しいのです。そして、私たちは皆、死もない、悲しみも嘆きもない、無限の命がある永遠のためにいるのです。

 

そして私たちはこのことを信じています。そしてこのことによって生きています。しかし、このことを忘れないために、私たちは少なくとも週に1日は完全に神に捧げなければいけないのです。この際、土を掘り、仕事をしてもいいのです。しかし、神と永遠のこと以外は考えてはいけません。私たちが神に必要なのではなく、私たちが必要とする戒めがまさにそれなのです。一日は、完全にこのことを思い起して、忘れないようにしましょう。そして、願わくは、主が私たちを, 悟り、理解し、神に感謝し、この地上で与えられたものを喜ぶことを助けて下さいますように。そして永遠によって備えられているのは、さらに大いなるもので、そこではさらに私たちがここで知っている人とも、知らない人とも、私たち全ての人達との出会があるということを思い出すことを主が助けて下さいますように。

 

皆様の聖なる祈りに感謝いたします。

ハリストスの聖体機密を受けた方々、領聖おめでとうございます。

 

 

 

2021年7月19日 主への畏れについて

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

福音の中で、長い間、絶対的な真理が与えられ、それが人類の長い歴史の中で確認されてきました。そして、その中の1つの真実は、最もシンプルなものです。二人の主人に仕えることはできず、一人を喜ばせるか、または他のものを喜ばせるか、どちらかです。二人の主人を満足させようとすることは、どちらの主人も満足させないことです。

 

旧約聖書全体は、「主への畏れは知恵の初め」というような思想によって貫かれています。また、新約聖書で私たちが読むのは、「完全な愛はすべての恐れを打ち消し、自分の友人のために自分の命を与えることより大きな愛はない」と言うことです。

 

人は毎日、選択肢の前にいて、毎日、誰に仕えるか、何をするかを選んでいます。そして、神の前に歩む人は祝福されています。これは最も偉大な苦行です。それぞれが自分の出来る範囲で、それにもかかわらず、人が神の前に立つことができるとき、自分の選択をして、すべての世界の、そして、全ての世界のうちにあり、存在する全ての者の主及び創造主にだけ仕えるのです。

 

人間は自分の平穏のことで頭がいっぱいです。人間はこの地上で幸せになることで頭がいっぱいです。しかし人間が人間を恐れて生きているのならば、幸せはあり得ません。もし彼がこの福を失うことを恐れて生活し、逆に人間が神の御前を歩くとき、創造主は全ての福と試練を与えられる方で、唯一の主であることを理解するのです。そして私たちが神を選び、神の御前を歩む時、その時恐れは去っていきます。

 

まさしくこの人間的な恐怖について預言者で聖詠記者であるダワィドが的を射た発言をしています。 「恐れなきところで恐れ」と。それゆえ、この人間的な苦しい恐れを毎日少しずつ避けなければなりません。そして神様が福を与えて下さる方で、全ての畏れから解放される方だ、ということを自覚し理解するために神の前に立たなければなりません。

 

また、主を恐るることは知恵の初め、これは多分正確な訳ではありません。恐れではなく畏敬です。私たちの創造主と救世主に畏怖(いふ)を感じる時の畏敬です。

 

願わくは神様は私たち全員に、神様の前を歩き、神のほかには誰も恐れない、という正しい選択を与えてくださいますように。主はすべての恐れから私たちを解放してくださいます。

 

 

 

2021年7月27日 試練について

 

金、銀、すべての金属は火の中で試みられます。鉱石を火の中に投げ入れると、何かが燃え、何かが灰になりますが、残ったものは本当にあったものです。

 

賢者ソロモンによれば、主は人間の心を試し、主が私たち一人一人に送られる試練は、私たちの救い、諭し、浄化のために与えられています。そして、主が与える試練を感謝して受け入れる人は祝福されます。

 

私たちは聖人たちに目を向けます。セルギイ、ステファン、その他多くの聖人たちに目を向けます。しかし、彼らにはどのような試練が降りかかり、彼らは人生でどれほどのことを忍耐したことでしょう。耐えて、苦しんで、主は彼らにこの大きな恵みを与えてくださいました。それは地上の生活の中にあったもので、地上の肉体から離れた後には、それが倍加し、強化されました。克肖者セルギイ、何と言う試練、何と言う困難。克肖者ステファン、何という悲しみ、何という労苦、しかし何という恵み。

 

賢者ソロモンはこう言いました。「主が誰かを罰するとき、それはつまり、主は自分の息子のようにその人に対して好意を持っているのです。」と。そして、私たちは常に聖人に祈るだけでなく、自分が経験している試練や悲しみに感謝しなければなりません。このような試練の中でのみ、私たちは永遠に続く、神のもとにある一片の金を見つけることができるのです。ですから、私たちは嘆かず、不平を言わず、反対せず、感謝して受け入れるべきなのです。

 

「あなたが不幸に服従すれば不幸があなたに服従する」という素晴らしい民間のことわざがあります。誰もがそれに気づくことができるわけでも、誰もがそれを人生で実践することができるわけでもありません。聖人だけが不幸に服従し、それを打ち勝つことができます。

 

願わくは、主は、克肖捧神なる我等が父ラドネジのセルギイとマフラのステファンの祈りによって、私たちに知恵と感謝と信仰をもって悲しみを乗り越える勇気を与えて下さいますように。その信仰とは、神の大いなる憐みであり、主は私たちをご自分の子として大切に思ってくださっているのだという信仰です。皆様全てに祭日のお祝いを申し上げます。聖体機密を受けたかたは領聖感謝祝文を聞いて下さい。

 

 

 

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