カシーラの大主教
フェオグノスト座下の説教
2021年2月15日(主の迎接祭)
父と子と聖神の御名によりて
自分たちのことを賢い若者だと思っている人々がいます。彼らのうちの誰かが、モスクワの成聖者府主教フィラレトに皮肉を込めて尋ねました。くじらがイオナを飲みこんだ、ということをあなたはどうして信じているのですか。くじらはイオナを飲み込むことはできません。というのも、くじらは、いかやたこなどの軟体動物を食糧としており、喉はとても細いからです。
これに対して成聖者フィラレトは言いました。もしも聖書に、イオナがくじらを飲み込んだと書かれてあっても、わたしはそれを信じるでしょう、と。
信仰、これは偉大なる力です。信仰は奇跡を行います。そして今日は主の迎接祭を記憶します。この日、聖にして義なるシメオンは、伝承が語っているところによると、七人の聖書解釈者のうちの一人で、ギリシャ語に聖書を翻訳した人たちのうちの一人でした。しかし彼は、処女が孕(はら)んで子を生むということに疑問を持ち、主の聖神によって主の神殿に連れて来られ、そこで神の嬰児(みどりご)ハリストスと出会うまで、ずっと生き続けていたのです。
そしてそれゆえに、捧神者シメオンが唱え、奉神礼で私たちが唱えるこの素晴らしい、非常に奥深い祈りがあるのです。「主宰(しゅさい)や今爾の言に循(したが)ひ爾の僕を安然として逝(ゆ)かしめ給ふ蓋(けだし)我が目は爾の萬民(ばんみん)の前に備へし救を見たり是れ異邦人を照らすの光と爾がイズライリ民の栄なり」
彼は待ちつづけ、そして私たち各人が自分の居場所で、尻込みすることなく、最も平凡なこと、もしかしたら不可能でさえあるかもしれないことを待ち続けることがいかに大切かを見たのです。もうすぐ目標に達するということを疑わなかったにもかかわらず、意気消沈した時、どれほどの人が挫折したことでしょう。必要なのは常に信じ、最後まで歩んで行くことです。主の助けは、私たち自身がすでに限界に達した時にやってきます。もしも動けるのなら、することができるのなら、あなたは最後までなさなければなりません。そして主は来られると信じなければなりません。もしもまだ主が助けてくれないのなら、それはつまりあなたは自分で行わなければならないのです。というのは、神は私たちなしで私たちを造りましたが、神は私たちなしで私たちを救うことはできないからです。私たちは常に主とのシネルギヤ「協働」の中にいて、主と共に働かなければならず、信じ、希望を持たなければなりません。必ず出会い、時期尚早に尻込みしないで、意気消沈せず、気を落とさないで、信仰をもって行くことが大切なのです。歩んで行って、信じるのです。私たちの信仰の証とは、私たちが歩んで行くこと、しかし信じているから歩んで行くのだ、ということです。ここに主の偉大なる福楽と、主が約束し、私たちに与えた賜物があるのです。つまり信仰の機密です。
皆さん全てに聖なるお祈りを感謝します。ハリストスの聖体機密を受けた方々領聖おめでとうございます。
2021年2月22日 全ロシアの総主教聖ティーホンの記憶日
父と子と聖神の御名によりて
今日私たちは祈りの中で全ロシアの総主教ティーホンを記憶しています。彼の総主教としての務めは重い十字架でした。ハリスティアニンにとって困難な時期に彼は就任したのです。彼はこの十字架を荷い、彼と共に生きる人々の信仰が強まるように十字架を荷いました。
そして今日生きている私たちにとって、聖ティーホンが十字架を荷ったことは、私たちを助ける模範となります。第一に謙遜になり、私たちにはかつてのような困難や悲しみがないことを理解するのを助けてくれます。第二には、主が私たちに、このような正教信仰の灯明、ハリストスへの信仰の表信者を与えて下さったことを喜ぶのを助けてくれるのです。彼は大いなる恩寵を得、この恩寵は今でも私たち人々の前で輝いています。ティーホン総主教は200年の断絶の後に就任されました。ペトル一世の時総主教制度が廃止されたからです。象徴的なのは初代の総主教イオフの時も、彼の務めは大変困難だったことです。彼の総主教としての務めは動乱時代、僭称者(せんしょうしゃ)の時代に行われたからです。その時彼は単に尊敬されていなかっただけでなく、衣服をはぎ取られて、犯罪人か役立たずの人間のように、赤の広場で引きずられました。しかし怒りませんでした。というのは彼は理解していたからです。つまり神の裁きとはこのようなものであること、彼らが質問してはいけないこと。すべてを単にあるがままに受け止めなければならないことを理解していたからです。そしてこの二人の成聖者、イオフ総主教とティーホン総主教は私たちに神の意志の前での謙遜の模範を示して下さったのです。
私たちの年代記、ロシアの年代記、そこには次のような記事が多く目につきます。「私たちの罪のために、不信心なわたしたちを訪れた」という記事です。人々は、権力を掌握した人々がやってきて罵(ののし)ったのではなく、主が私たちの罪のためにこの災いを下されたということを理解していました。そして彼らは己の謙遜によって、実際にハリストスを信じていた人々に襲い掛かった悪の力を克服したのです。
次のような驚くべき、奇異なる出来事があります。これは5世紀のことです。アッティラと彼の無数の軍隊がヨーロッパ中を支配者として回っていて、ローマ帝国、ビザンティン帝国を略奪していました。トリノに近づくと、この町の主教が彼に会いに出てきました。アッティラは彼を受け入れました。主教は何を言わなければならなかったでしょう。アッティラは何を聞かなければならなかったのでしょう。自分に向けた呪いでしょうか。というのは、彼はただ単に人殺しのアッティラはではなく、彼は凶暴にもハリストスの教会を憎み、聖堂や修道院を破壊していたからです。聖なる主教が言葉を述べた時、その言葉はアッティラにとって予期せぬものでした。その言葉とは次のようなものでした。「わたしは、わたしが務めている神の鞭(むち)であるあなたにご挨拶します。あなたの到来が祝福されますように。というのは私があなたを止めるのではないからです。」その時からアッティラは自分自身のことを「神の鞭」と呼び、後世の歴史家も彼のことを「神の鞭」と呼ぶようになったのです。
そして総主教イオフと総主教ティーホンも同様に理解していました。教会と私たちの地上に襲い掛かってくる全ての災い、これは私たちが敵だと思っている敵もいますが、ただ単にこれは神の鞭なのだ、ということを理解していたのです。そしてそれゆえ彼らは謙遜と柔和をもって全ての痛手を受け止め、それらを克服したのです。というのは、ハリストスは私たちに、こう戒めているからです。「わたしから学びなさい。なぜならわたしは柔和で心が謙遜だから、あなたがたの魂に平安を得るでしょう。そして勝ち、勇気を出しなさい、なぜならわたしは彼らに勝ったからだ」とハリストスは言っています。
私たちには悲しみもあります。しかし、どのみち悲しみとは出会うでしょう。そして悲しみは克服することが出来ます。ただ残酷に悲しみを承認しないことや、攻撃することによってではなく、愛によって克服することができるのです。この愛は誠実なものでなければなりません。凶悪なる愛ではなく、偽善的な愛ではなく、私たちが愛のイメージに没入する時の愛ではなく、誠実なる愛です。そしてその時、私たちに立ち向かう人々はみな、理解し、立ち止まるのです。アッティラでさえ立ち止まり、町に手を付けなかったのですから。
謙遜の力は偉大です。愛の力は打ち勝ちがたいものです。ただ信じておかなければならないのは、つまりそういうことだということ、そしてその時勝利は主から私たちにたまわれる、ということです。というのも神と神のもとに権威と力と全ての裁きはあり、神お一人を私たちは拝んでいるからです。神お一人を私たちは崇拝しており、神お一人の前で、信仰と希望と感謝をもって、おののいて自分の膝をかがめるのです。
全ロシアの成聖者総主教ティーホンと初代総主教イオフの祈祷によって、願わくは主は私たちに知恵と理解と力、つまり謙遜と愛を与えて下さいますように。
皆さんの聖なるご祈祷に感謝申し上げます。ハリストスの聖体を受けた方々、領聖おめでとうございます。
2021年2月26日 神の御心について
父と子と聖神の御名によりて
今日の使徒の書簡では次のような人生を肯定するような結びの言葉がありました。「全ては過ぎ去る。しかし神の御心を行う人は永遠に生きる」という言葉です。いかに単純で、と同時に深い意味に満ちた言葉でしょう。というのは、私たちは永遠について思う時、いかに永遠の命を受け継ぐかについて思うからです。しかし答えはこの短い一行にあります。神の御心を行う人、その人が永遠に存在する、ということです。
しかし人間はその凶悪なる傲慢によって質問します。「ではいかに神の御心を知ることができるだろうか」という質問です。そしておそらく、私たちの一人一人がかつてこの質問をしたことがあり、一度ならず私たちにこの質問を投げかけたことがあります。「ではいかに神の御心を知ることができるだろうか。」この質問の凶悪さは、人がしなければならないことについて質問しているのではなく、人が自分と世界についての神の計画を知りたいと願っていることに隠されています。自分と世界についての神の計画を知るということ、これも大きな傲慢です。私たちは決してそれを知ることはありません。私たちには信仰があります、信仰は私たちに未知のものへと歩んで行く力を与えてくれます。私たちは主が私たちにとってこの未知なることをすでに決定され、そして私たちがこの道を歩んで行く時、その時これが神の御心の実践の道となる、と信じているのです。
一方でより明確かつ具体的に言うのなら、掟がある、戒めがあるということです。そしてあなたがこの掟にしたがって歩んでいるのなら、この掟に従って生きているのなら、掟はあなたを右側からも左側からも守るのです。そしてあなたはこの道を行き、あなたが掟の業を行い、戒めにそって生きている時、その時にあなたは神の御心を行うのです。
一方ですでに将来がどうなるか、これは誰にも啓示されていません。人類の全歴史において唯一、預言者たちに何かが啓示されました。しかし全て他の人々は信仰によって生きているのです。主があなたの道を決定したという信仰によって、あなたはこの道を歩んで行かなければならないのです。しかし神の御心を知るためには神の掟と神の戒めを知る必要があります。この掟にそって生き、この戒めに従って歩んで行くのです。これが、私たちが自分の人生の中で苦しいほどに探し求めている神の御心となるのです。
2021年3月9日 悔い改めについて
父と子と聖神の御名によりて
古代ギリシャのスパルタ人は、自分たちのことを打ち負かされることのない軍隊であると自負していました。盾には、勝利するまで、最期まで、死ぬまで戦うことを意味し、象徴する雄鶏が描かれていました。偶然ではなく、まさしく雄鶏はあたかも使徒ペトルが一度ならずハリストスを拒んだことを証言するかのようです。しかし使徒が拒んだことは、裏切りではなく、これは一瞬の弱さでした。ペトルは単に驚いたのです。人生において驚かない人はいるでしょうか。人間には過ちがつきものです。しかし同時に人間に与えられているのは、過ちの中に留まることではありません。逆に、自分の過ちを改める、という課題が与えられているのです。
聖大四旬節が目前に迫ってきました。罪については多くのことが語られます。しかし覚えていなければならないのは、罪とは過ちであること、あなたは的から外れたということ、そして過ちは行いによって改めるのだと言うことです。もしも私たちが何もせず、ただ自分の罪のために泣くのなら、私たち自身があたかもこの罪に対する礼拝を行うかのようです。
私たちは痛悔によって、つまり改めによって生きています。そして覚えていなければならない大変重要なことは、私たち一人一人の人生の中には、罪だけではなく、誤りだけではなく、善なる行いもあるということです。必要なのは斎によって全てのものを集め、悪いことを思い起こすのなら悔い改め、善なることを思い出すのなら、あなたが人生の中で行ったその善なることを増やしていくことです。
かつて私たちの一人一人が自分の生涯において善なることをたった一回でも行ったことがあります。そして自分の智を集中させ、単に自分の罪を思い出すだけでなく—それは必要なことですが—私達の智が、善なること、輝かしいこと、神のこと、掟のこと、主の戒めのことに調律されるように集中しなければなりません。私たちが単に自分を抑圧するためではなく、むしろ、私たちの悔い改めが自堕落や自責に変ずるためではなく、私たちのうちから喜びと神への感謝が去って行かないためです。というのはこれらの罪にも関わらず、主は私たちに命を与えて下さり、痛悔のための時間を与えて下さったからです。
そして、この悔い改め、これは智の変革以外の何物でもありません。まさに智が私たちの行動を決定するのです。私たちが神の助けによって智を変える時、悪から善へと用いる時に、その時に私たちの行動は善なるものとなるのです。そして私たちは常に、主が私たちに痛悔のための、改めのための時間を与えて下さっていることを神に感謝しましょう。
一方で悔い改めは行いによって実証されます。主も私たちも、私たちの悔い改めがどれほど実行されているかの証人なのです。
皆さんのすべての聖なるお祈りに感謝いたします。聖なるハリストスの機密を受けた方々、領聖おめでとうございます。
2021年4月15日 思慮分別と決意について
父と子と聖神の御名によりて。
聖人には神から与えられた特別な道があります。それは私たちには従うことはできず、彼らの道を研究することすらできません。そして、そのような偉大な苦行女の一人がエギペト(エジプト)の克肖女マリヤです。彼女の人生は人間の常識を超えていました。しかし、主は彼女にこの苦行をなしとげる力を与えて下さいました。
一度、聖大アントニイは、「最も偉大な偉業は何か」という質問を受けました。誰もが、彼が斎、祈り、警醒、善行について言うだろうと思っていましたが、彼は最高の偉業は判断力だと言いました。判断力がなければ祈り、斎、祈祷は何の役にも立たず、魂に害を与えるからです。
サーロフの克肖者セラフィムは、なぜ今日の私たちは以前の人々のようではないのか、私たちに何が足りないのか、との質問に、「決意」と答えました。そして、ここに二つの偉大なる善行があります。「分別」と「決意」です。なぜなら、もしある人が分別を持たず、何かをしようと決めた場合、ここからは何もいいことは得られないでしょう。一方で、人に分別があるが、決意がない場合、やはりここからは何も得ることはないでしょう。思慮分別と決意を両方兼ねそろえている時、これは稀なる賜物です。
克肖女マリヤの場合もまさにそうでした。彼女が「ヨルダンを越えて行け、そこであなたは救いを見つけるだろう」という神の声を聞いた時、彼女は、これは神の声だと思って行き、自分の生涯の残りの日々を砂漠で過ごす決意をしました。
しかし、分別と決意があるためには、強い信仰が必要です。信仰を持たない人には、分別はないし、決意もありえません。そして、信仰、これは神の特別な賜物であり、すべての人に与えられていますが、すべての人がそれを受け取るわけではありません。全ての人が信仰とは何かと考察しているわけではありません。というのも、信仰とは何よりもまず、神への忠誠、信頼、委託だからです。
克肖女マリヤ、彼女は信じ、忠実であり続け、信頼し、そして神に委託していました。そして主は、彼女が行ったその偉大な偉業を成し遂げるための力を彼女に与えたのです。
人はそれぞれ自分の信仰の度合いが違います。極端にならないように限度を超える必要はありません。そして、私たちが自分の信仰を意識するためには、しっかりと祈ることが必要です。というのは、祈りこそが欲望を抑える道だからです。祈り、これは神の意志を理解するための方法です。祈りとは、信仰と忠誠を得るための方法です。 祈りは人に知恵、思慮分別を与え、祈りは人に勇気と決意を与えます。
願わくは、神は、私たちの正教会が与える唯一の道を私たちが歩めるように助けてくださいますように。
皆さんの聖なる祈りに感謝します。
2021年5月31日 真理について
どの国でも、どの時代でも、人々は「真理」を知りたいと願っていましたが、その「真理」は、残念ながら人それぞれでした。救世主ハリストスは真理について証するために来ました。そして、ローマの行政官、異教徒のピラトは真理に対して、深い信仰をもっていない人の発言をしました。真理とは何か。つまり、人々はすでに当たり前のことを信じられなくなっていたということです。そして、主は「真理」を携えて来られました。しかし、なぜこの「真理」を大部分の住民が受け入れなかったのでしょうか。
興味深いのは、救世主ハリストスがこのような逆説的な答えをしたことです。ユダヤ人に対して、「私は真理について証するために来たのに、あなた方は私を信じない」と言いました。つまり、私が真理を語るからこそ、あなた方は信じないのだ、ということです。
しかし、私たちの生活を見てみると、どれだけ多くの嘘に出会い、どれだけ簡単に嘘を信じてしまうか、どれだけ多くの全く中身のない不必要な偽りの真実に出会い、どれだけ人々が簡単に信じ始めてしまうかがわかります。肉体的な「地」を信じているし、その他の偽りの真理も信じています。ハリストスを信じ、ハリストスが「真理」について証するために来たことを信じるのは、難しいのです。というのも、私たちの真理は単純で、非常に明確だからです。
旧約聖書の中で、シリア人の王の軍隊の司令官であるシリア人のナアマンが、らい病を治してほしいとエリシャのもとを訪れたとき、エリシャは「ヨルダン川に3回浸れば、あなたは癒されます」と言った話を覚えておられるでしょう。しかしナアマンは困惑しました。「シリアの川はどれもヨルダンに劣るとでもいうのか。」そして去っていきました。しかし彼の僕は賢く、こう言いました。「ご主人様、もし彼が預言者で、あなたに何か難しいことを依頼していたらどうなさいますか。あなたはやって下さいますか。」「そうだなあ、難しいことならやるだろう。」そこで、賢い僕は彼に「簡単なことをなさってください」と言ったので、彼はヨルダン川に3回身を沈めたところ、癒されました。
私たちも同じように、難しいことを願い、とても難しい偽りの真理を見つけようとしています。人は真理を求めて、本の中に埋まり、インターネットに心底没頭しています。そして、真理はハリストスの中にあるのに、私たちがそれを信じようとしないのは、それが自然なことだからであり、真理を単純な心で信じることは難しいからです。なぜならそれはとても単純な真理であるからです。
ハリストスご自身が命と真実の道として己を現していいます。願わくは神は、私たちが、そのハリストスによってもたらされた真理の単純さと基本を悟らせて下さいますように。そして、他の真理を探してはいけません。真理は一つしかないのですから。








