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2020年8月から12月の説教

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カシーラの大主教

フェオグノスト座下の説教

 

2020年8月4日 マグダラのマリヤについて

 

使徒は全世界にハリストスを宣教しました。しかし使徒たちにハリストスの復活を伝えたのはマグダラのマリヤでした。主が七つの悪霊を追い出したあのマグダラのマリヤ自身です。ハリストスと共に歩み、町や村のユダヤ人たちに福音を語ったあのマグダリナ自身です。ゴルゴタで、主の十字架のもとに留まったあのマグダリナ自身です。まさにこのマリヤが朝早く、まだ全き暗闇の中で、墓に来て、墓が空いているのを見ました。石は転がしてどけてありました。そして彼女は使徒たち(その時はまだ使徒たちではなくお弟子さんたちでしたが)のもとへ行き、主を見たことを告げたのです。

 

使徒ペトルとイオアンは墓へ向かいました。彼らが墓に来た時、墓は空っぽでした。そこにはただ埋葬用の覆いしかありませんでした。そして彼らは当惑したまま立ち去りましたが、マリヤは墓に残りました。そして、そこで彼女は二人の天使を見ました。彼らは質問しました。「なぜ泣いているのですか。」これに対し彼女は答えました。「私の主が取られてしまったのです。どこに彼を置いたか分かりません。」そして、彼女が自分を見つめる視線を感じた時、彼女は振り返ってハリストスを見ました。しかしハリストスだと分からず、彼女はこれは庭師だと思い、言いました。「ご主人様、もしもあなたが彼を取り上げたのなら、どこに彼を置いたか私に告げて下さい。」これに対して主は彼女に言いました。「マリヤ。」そして彼女は主だと分かり、歓喜の内に叫びました。「ラヴニ」つまり「先生」。そして彼の足元に跪きました。しかし主は言いました。「わたしの『父』のもとへ登る。わたしに付くのはやめなさい、そうではなくてわたしの兄弟たちのところへ行き、告げなさい。「わたしの『父』のもと、あなたがたの『父』のもとへ、そしてわたしの『神』のもと、あなたがたの『神』のもとへ行く」と。そしてマリヤはこの知らせをもって使徒たち、お弟子さんたちのところへ行き、「私は主を見ました」と言いました。ここから福音宣教が始まったのです。

 

マリヤは多くの地を回りました。彼女はローマまで来ました。ローマで彼女は多く福音を宣べ伝えました。ティヴェリウス皇帝は彼女について知ると、彼女と会おうと決めました。そして彼女が来て、彼にハリストスのことを語ると、皇帝は注意深く話しを聞き、彼女は皇帝に卵を持たせて、「これは永遠の命の象徴です。そして私たちは皆復活するのです。」と言いました。これに対しティヴェリウス皇帝は言いました。「こんな話は全くもって信じない。ハリストスが復活したと私が信じるぐらいなら、この卵が赤くなればいいさ。」すると卵は彼女の手の中で赤くなりました。そして皇帝はマリヤに答えました。「実に復活」

 

二人の偉大なる女性がいます。マグダラのマリヤとエギペト(エジプト)のマリヤです。彼女たちは滅びの底からこれほどの高みにまで上り詰めたのです。それは使徒たちもたどり着くのが困難な高みです。というのはまさしくマリヤ・マグダリナが主の墓のもとに留まり、彼女が主の墓に来たからです。一方でエギペトのマリヤは彼女に続く全ての人に対して悔い改めの苦行の模範を示しました。修道士だけではありません。全ての人類に対して模範を示したのです。願わくは彼女たちの祈りによって、主が私たちに次のことを与えて下さいますように。すなわち悔い改め、自分が堕落しているという自覚、しかし絶望ではなく、主が私たちに更生する道を与えて下さっているという喜びを。主は悔い改めを与えます。そして私たちはこの道にそって歩んで行くのです。マリヤ・マグダリナとエギペトのマリヤは、もし主を愛し、もし主の後に従い、労働するのなら、どのように高みまで到達できるか、を示しています。それは永遠の世、来世の世を受け継ぐためです。そこには病も嘆きもなく、ただ終わりなき命があるのです。

 

亜使徒マグダラのマリヤの記憶日の祭日のお慶びを申し上げます。

 

 

 

2020年8月27日

 

ハリストス救世主の全生涯と奉仕は宣教と結び付いていました。主は神の国の福音を宣教されていました。彼を多くの人々が取り巻いていました。しかし主は疲れた時、人々から退かれ、荒野の地に一人でたたずまれ、そこで祈られました。今日の福音書の読みで、私たちはちょうど、主が荒野に退かれて、そこで祈りのうちに過ごされたことを聞きました。ここに、私たちが自分の生涯を奉仕に捧げなければならないこと、しかし自分の力を強めるためには、私たちは短い時間一人で過ごさなければならないことに対する指示があるのです。立ち止まり、考えをまとめ、我に返り、私たちは誰で、誰と共にいるのか、どこにいるのか、なぜこの地に生きているのかを理解するために、その後(人々のもとへ)出ていき、人々へ奉仕するために、このように行なう必要があるのです。

 

ハリストスが、彼が与えた新しい愛の戒めを語っているとき、これは奉仕の戒め以外の何者でもありません。主ご自身が、主が仕えているように、そのように私たちも互いに仕え合わなければならない、と言っています。まさに奉仕の中に、兄弟愛の中に私たちの人生の意味が込められているのです。独居や他の何かの苦行の中にではありません。

 

教会は常に非常に隠遁に対し慎重に接してきました。ロシア教会の歴史の中でも隠遁者として独居して苦行していた人々の数は多くはありません。全て他の人々は(人々に)仕えていたのです。克肖者セラフィムは長期間の隠遁生活から出てきて、人々に仕えました。そして私たちも同様に行なわなければならないのです。立ち止まって、私たちが生きているこの空しさから出ていくためには、ある期間この世から退かなければなりません。しかしそれは後に出てきて、人々に仕えるためです。そしてここに私たちの人生の意味と目的があるのです。

 

願わくは主が、喜びをもって隣人に仕え、喜びと益になるように、ある期間人々から退くように私たちを助けて下さいますように。アミン。

 

 

 

2020年9月7日

 

父と子と聖神の御名によりて。

今日読まれた使徒経で、私たちは使徒パワェルの言葉を聞きました。「私が弱い時、その時私は強いのです。」私たちは知っています。私たちが弱い時、強くあることはできないことを。一方で私たちが強い時、私たちには弱さは有り得ないということを。

 

使徒パワェルが語っていることを理解するためには、いつ使徒がこのことについて語ったか、肉体を乱すサタナの使いが、使徒に害を与えるために、何を彼に与えたか、使徒の言葉を思い出す必要があります。使徒は語っています。「私は三回主に祈りました。」そして主は彼に答えました。「私の恩寵はあなたに十分である。私の力は弱さの中で成就されるのだ」と。

 

今日読まれた使徒経の中で私たちが聞いた言葉の理解に近づくために、福たるマトロナ(*1)の生涯を思い起こす必要があります。マトロナの中には多くの肉体的な弱さがありました。しかしまさにこの弱さの中で神の偉大な力が成就されたのです。そして肉体的にこの世を離れていった後でさえ、彼女は神から与えられた福たる力をもって奇跡を行い続けているのです。

 

最期に、弱さ、これは無為に時を過ごすことや労働したという思いから離れることではない、ということに注意を向けたいと思います。弱さ、これは私たちに関わる事柄を全て最後まで成し遂げた時に、私たちがすでに限界にあるとき、その時にだけ神の助けが来るというものです。ですから辛い人、困難にある人は皆自問自答しなければなりません。「あなたは実際に限界に来ていますか。あなたには実際にこれ以上の力はありませんか。力はありますか。その時は行い、働きなさい。もしも限界まできたら、神の助けが来て、あなたの弱さを満たして下さるでしょう。アミン。

 

*1 モスクワの福たるマトロナ(1881年11月22日-1952年5月2日)  生まれつき盲目でその後、歩行もできなくなったが、人々の悩みを聞き、祈り、助言し続けた聖人。不朽体はモスクワの生神女庇護修道院にある。この説教はマトロナの修道院でなされたもの。

 

 

 

2020年9月16日

 

使徒の最初の説教はまだハリストス救世主が生きておられた時、主がご自分のお弟子さんたちを宣教に遣わされた時に行われました。ここで重要なのは、いかにお弟子さんたちが宣教をするかということだけでなく、彼らがいかにして宣教に行かなければならないかを主がおっしゃられた、ということです。彼らは何も持参してはなりませんでした。お金も、着替えの衣服も。ここにどのような意味があるのでしょうか。この中には深い意味が込められています。主はお弟子さんたちが神を信頼するように教育したかったのです。それは彼らが、一人ではなく、彼らと共に神がいるということを経験的に感じるためです。彼らは自分の地上的なもの、物質的なものを慮る必要がありませんでした。なぜなら主が全てこれを与えるからです。

 

これは主がご自分のお弟子さんたちや使徒たちに教えた学問です。しかし旧約聖書の中にも私たちは次のような言葉を聞きます。「爾の重任を主に負はしめよ、彼は爾を扶(たす)けん。」(聖詠54:23、詩篇55:23)これは私たちが何もしなくていい、ということを意味しているのではありません。使徒たちも怠け者ではありませんでした。彼らは自分の額に汗して働き、町から町へ、村から村へと歩いて行ったのです。主は彼らを見捨てず、彼らと共にいました。

 

私たちが「天主経」を唱える時、そこで意味しているのは、神は実際に私たちの「父」である、ということです。しかし重要なのは、どのような父親も自分の息子を教育しなければならない、ということです。もしも父親が自分の息子を教育しなかったら、彼は父ではありません。そして主は私たちを教育しています。私たちから要求されるのは、私たちが何も持参せず、完全なる貧しさの中に留まること、しかしそれと共に、主は私たちを慮っているという明らかなる印を、主が私たちに与えていることです。そして私たちはこれを自分の生活のなかで毎日見ています。

 

同様に神を信頼するということは私たちに謙遜を教えています。私たちが遜(へりくだ)る度合いに応じて、私たちが実際に遜っているという指標が現れます。謙遜の度合いというのは、悲しみの中で私たちが穏やかでいることです。というのも、もし私たちが悲しみの時に心を穏やかにしなければ、私たちは主が送られたものを受け取らないからです。一方で私たちの忍耐の度合いというのは神の摂理、私たちの天の父の摂理を私たちが信じる信仰の度合いと同様です。そして私たちが実際に、すべてが主から送られているのだと信じるのならば、その時私たちは喜び、感謝するのです。

 

願わくは主が私たちにこのことを確信させて下さり、私たちがしっかりと立ち、ただ言葉だけでなく、私たちの人生においてもそのような者であることを助けて下さいますように。

 

 

 

2020年9月25日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

使徒の言葉の単純さ中にどれほど多くのことが隠されていることでしょう。今日使徒パワェルは次のことについて言っています。すなわち祈らなければならないこと、神、我等が主イイスス・ハリストスが私たちに叡智と啓示の神(しん・霊)を与えて下さるように祈らなければならないことについてです。主は叡智をもって世界を創造されました。叡智については聖書の中で多く言及されています。実際人間には叡智が必要で、人は叡智なしに生きていくことはできません。しかし啓示というのは、奥義であり、啓示とは何かということを理解するためには、真福九端の最初の戒めについて思い出す必要があります。つまり「神(しん)の貧しき者は福なり」という戒めです。まさに「神(しん)の貧しさ」、これが、自分を霊的な人物、知的な賜物を与えられた人物、成熟した人物とみなす人々が躓(つまず)くものなのです。そうではありません。神は神が望む人に啓示するのです。そして啓示、これは人を傲慢にしないで、逆に謙遜にする奥義なのです。モイセイが、ではなく、モイセイを通して、主が啓示しました。イスラエルの士師たちが、ではなく、士師たちを通して主が自分の裁きを現しました。預言者が啓示を与えたのではなく、神が預言者に啓示を与えました。

 

しかし、もし他の世界、学問の世界を取り上げてみるのなら、優れた学者と見なされる人は皆、誰も自分に帰せず、彼らはこのことが彼らに啓示されたのだと理解していました。そこで発見(啓示されることоткрытие )という言葉があり、彼等にこれが明かされた(啓示されたоткрылось)のです。これは彼等に属していたわけではなく、彼らが考え付いたのではなく、これはすでにあったことで、単に彼らによって発見されたにすぎないのです。

 

そして使徒は私たちに、啓示が与えられるようにと呼びかけています。私たちの罪が啓示されるように、これらの罪を改める道が啓示されるように、私たちの人生が啓示されるように、私たちが共に生きていく人々が啓示されるように。そして、主はただ、ありのままの私たちの姿を私たちに啓示することができ、ただ私たちの隣人と遠くにいる人々のありのままの姿を私たちに啓示することができ、そして主はただ、過去、現在、未来を啓示することができるのです。そしてこのことを私たちが理解し、このことについて祈り、啓示が来た時、その時、私たちが、ではなく、主が私たちに与えてくださったのだ、そして私たちはおごり高ぶらず、遜って、感謝するのだ、ということを理解するのです。

 

 

 

 

2020年9月27日 十字架挙栄祭

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

ハリストスの十字架、私たち一人一人が自分の人生の中で背負っている十字架、私たちをハリスティアニンにふさわしいものとするまさにその十字架。十字架、十字架を背負うこと、これは私たちの信仰の証です。これは、私たちが単に話すだけでなく、行うことの証です。私たちは単に朗読するだけでなく、自分の人生によって証するのです。十字架を背負うことは各人にとって困難なことです。そして主、イイスス・ハリストスご自身が十字架のもとで疲弊し、倒れ、ハリストスの十字架を取って背負って行ったキリネヤのシモンという男性の助けを得なければならなかったのです。主ご自身が助けを必要とされていました。ならばなおさら私たち一人一人に十字架を背負っていくのを助けてくれる、キリネヤのシモンのような人が必要なのです。

 

十字架、これは必然的に愛です。もしくは愛なしには十字架は背負えません。しかし十字架のない愛もありません。まさにそれゆえ、使徒パワェルは私たちに次の道を示しているのです。「互いに重荷を負いなさい。」つまり一人一人が自分の隣人が十字架を背負うのを助けるように、そして同様にあなたもハリストスの戒めを実行するように、ということです。斎も、祈りも、覚醒も、十字架なしには私たちを救いません。そしてそれらは単に私たちに十字架を背負うことを助けているに過ぎないのです。しかし重要なことは、自分に注意するだけでなく、自分を哀れむだけでなく、自分の周りに十字架の重みで倒れてしまった多くの人々を見て、彼らを助けることです。これは、私たちが実際に十字架を背負う者であり、私たちのうちに隣人への愛があることの証です。まさに隣人への愛が現れる時に、私たちは十字架に忠実な者として留まるのです。

 

願わくは、尊貴なる生命を施す十字架の力によって、私たちがふるえたり、愚痴をこぼしたりせずに、最期まで自分の十字架を背負うことを主が助けて下さいますように。しかしもし私たちがよろめき、倒れてしまうのなら、主はこの十字架を背負うことを私たちに助けてくれるキリニヤのシモンを送って下さるでしょう。一方でもし私たちに力があるのなら、私たちは十字架の重みで疲弊している人々を助けましょう。

 

皆さん全ての聖なるお祈りに感謝いたします。ハリストスの聖機密を受けた方々、領聖おめでとうございます。

 

 

 

 

2020年12月4日 ゴルゴタについて

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

ゴルゴタ。人はゴルゴタの前で戦慄します。そして一人一人に小さくはありますが、自分のゴルゴタがあります。私たちの傍らには救世主ハリストスの例があります。ハリストスの己の天の父への従順、ハリストスのゲッセマネでの祈りがあります。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)三回、主はご自分の天の父にお願いし、感謝をもってご自分のゴルゴタを受け取りました。そして神の母、至聖なる生神女もご自分の子の十字架のもとにいました。これは彼女のゴルゴタでした。

 

今日は全ロシアの総主教成聖者チーホンの記憶日です。これは彼のゴルゴタでした。そして彼は平安をもってこれを受け止め、至当に己の十字架を背負いました。ふるえることなく、侮辱することもなく、残酷な心をもつこともなく、平和の神(しん)と、隣人に対しても遠方の人々に対しても、自分の敵に対しても愛を抱いていたのです。彼は私たちにとって己の十字架を背負う見本です。しかしゴルゴタで力を与えるのは復活の信仰と希望です。主は死に打ち勝ちました。己の十字架を背負うことによって、そして己のゴルゴタによって悪に打ち勝ちました。そして私たちもこの生涯一人一人に主はゴルゴタを与えられます。しかし、それは私たちを罰するためではなく、私たちが痛がるためではなく、ゴルゴタの外では私たちは復活を理解しないからです。

 

フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーには次のような興味深い、逆説的な考えがありました。彼はその日記に書いています。「完全な幸福のためには、人には幸福の数分の多くの不幸が必要です。というのはもしこの不幸がなかったら、私たちは自分の幸福を評価せず、理解しないであろうからです」と。それゆえ主はその私たちへの愛から一人一人を自分のゴルゴタへと連れて行きます。そして救世主が私たち一人一人に自分の場所で力を与えて下さるのだ、という神への信仰へと連れて行きます。ふるえずに立ち尽くす、単に立ち尽くすだけでなく、さらに神が一人一人に与える試練のために神に感謝しなければならいのです。そして信じて下さい。主は力以上の試練を与えません。もしも私たちに力が足りないのだとしても、ハリストスご自身が十字架のもとで倒れたのです。しかしすぐ隣にキリネヤのシモンがいました。彼はこの十字架をかつぎました。このように主も、もし、私たちに力が足りないのなら、主は人を送って下さり、私たちが自分の十字架を背負い、自分のゴルゴタに立ち尽くすことを助けて下さいます。そして覚えておいてください。(自分で自分の)十字架をせがむのではなく、(自分で)十字架から降りるのでもなく、(死んだときに)十字架から取り外されるのです。

 

願わくは主は、全ロシアの総主教成聖者チーホンの祈祷によって、私たち一人一人に自分のゴルゴタに立ち尽くさせてくださり、ふるえずに、感謝し、祝賀は私たちの目前にあるということを信じさせてくださいますように。このことを主は私たちに言われました。「勇気を出しなさい。なぜなら私は世に勝ったからだ」と。そして私たちはハリストスの後から行きます。今日私たちはより簡単で、楽なのです。なぜなら私たちの前に何千もの十字架を背負った人々が通り、彼らは勝利したからです。一方で私たちはふるえず、行って、力とは私たちのものではなく、力とは神のものだ、ということを信じるのです。私たちが遜る時、この力は私たちの中で全力をもって作用します。

 

皆さん全てに祭日のお祝いを申し上げます。ハリストスの聖機密を受けた領聖者の皆様、おめでとうございます。主に感謝しましょう。そして聖なる領聖後の祈祷を聞きましょう。

 

 

 

2020年12月24日

 

ハリスティアニンの魂の重要な性質の一つ、これは赦す能力です。主は私達に主要な戒めの一つとして赦すことについて語られています。「あなたがたに負い目がある人を赦しなさい、そうすれば天の父もあなた方にあなた方の負い目を赦して下さる。」赦す、これは人間から罪を取り上げることを意味しているのではありません。赦すこと、これは人にこれを捨て置くことを意味しているのです。旧約聖書に次のような素晴らしい言葉があります。主は言われています。「復讐は私がすること。私が報いる」自分の隣人の罪を私が捨て置く時に、私はこれを神の裁きに引き渡します。赦すことができない人は、なんと不幸なのでしょう。次のような重要な聖師父の知恵があります。「怒ること、これは人間の業だ。一方で悪を覚えていること、これは悪魔の業だ。」人が悪を覚えている時、すなわち彼の心には、私達が悪魔と名付けている悪自体が生息し得るのです。ですから主は私達に、私達が悪を心に留めず、私達に負い目のある人を赦すように注意させているのです。それは天の父が私達に私達の負い目を赦して下さるためです。

 

しかし同時に善と、罰を与えずに赦すことを混合してはいけません。この意見の証として言いますが、もしあなたの両親が子供たちを罰さなければ、もし上司が部下を罰さなければ、その時には無秩序、混乱が起こり、必ず罰さなければならないからです。というのも罰がないことは無責任を生み、無責任は全てを許可し、全てを許可すると無法状態が生まれ、無法者は悪魔だからです。

 

それゆえ覚えておかなければならないのは、あなたに反する隣人の罪を赦し、これを神の裁きに委ねること、これが正しい、祝福された行いであるということです。しかし両親が自分の子供たちを、上司が自分の部下たちを教え諭さず、罰さないというのは不幸であり、罪です。旧約聖書のサムエル記上には、祭司長エリについての話があります。預言者イリヤではありません、エリです。彼には子供たちがいました。祭司自身は正しい人でしたが、子供たちは不法を行っていました。そしてエリは自分の子供たちを罰しませんでした。つまり、彼らを教え諭しませんでした。そしてただ彼だけでなく、子供たちだけでなく、一族全てが厳しく罰せられました。

 

私達は自分の隣人に罰を与えなければなりません。しかし罰する時には常に愛が伴うのです。罰してもいい時というのは、あなたが罰する人の二倍もあなたの心が痛む時です。もし彼よりもあなたの心が痛むのなら、その時あなたは罰し、教え諭して良いのです。しかし、もしあなたが罰する時に、満足を覚えるのなら、もしあなたがその人に対しておごり高ぶり、もし自分の心に彼に対して悪意を抱いているのなら、これは悪魔的な、罪深い、厭うべき魂の状態です。このような魂に聖神の恵みが生きることはできません。

 

願わくは主が私達に、無関心と隣人を教え諭したくないという心持から、善と赦しを区別させて下さいますように。そしてこのような性質の一つを私達が選ぶ時、その時私達はただ人生における自分の行動だけを選ぶのではなく、私達が誰と共にいるのか、神と共にいるのか、悪魔と共にいるのかを選び確認することにもなるのです。

 

願わくは主が私達に正しい選択をし、自分の心に愛と善と隣人を赦すことと、それと同時に隣人への愛を保つことを助けて下さいますように。罰の無い、要求の無い愛はありません。

皆さん全てに聖なるお祈りを感謝します。ハリストスの聖体機密をうけた方、領聖おめでとうございます。主に感謝しましょう。そして領聖感謝祝文を最後まで聞きましょう。

 

 

 

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