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2019年11月から12月の説教

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大主教フェオグノスト座下の説教 2019年11月、12月

 

 

2019年11月11日

 

人間にとって困難なことは、行いにおいて注意を保つことです。しかしあなたが好んでいる事柄においては注意を保つのは簡単でしょう。もしあなたが祈りを愛しているのなら、その時は注意深くあることでしょう。注意深くあることで、あなたは必要な時に、予防し、予見することができます。私たちが怠っていて、無思慮であるとき、私たちに不幸が近づきます。これは、私たちが人生を祈りのうちに注意深く学ぼうとするときの、注意の最初の段階です。しかしここで、さらに他のより高い段階があります。それは預言者、聖詠歌唱者ダワィドが言っていることです。「私は眠っているが、私の心は起きている」というものです。つまり睡眠の中でも注意が保たれるのです。これは昼間でさえ殆ど不可能です。しかし夜も注意が保たれる時というのはどれほどの霊的生活の高みでしょう。ダヴィドはさらに神秘的な言葉を述べています。「爾はすでに我が心を験(ため)し、夜中に臨(のぞ)み、我を試(こころ)みて得たる所なし。」(聖詠16:3)つまり主は夜人を訪れ、人は眠りの中で注意を保ち、主はその人に不義を見出さなかった、ということです。

 

私たちはエルサレムやアトス山や、多くの聖地に行きます。私たちは多くの祈りをします。しかししばしば最も重要なことを忘れています。不注意に五つのアカフィストや、さらに五つのカノンを読み、五つのモレーベンに立つより、注意深く五つの言葉を言った方が良い、ということを。もしも注意があるときには、モレーベンやカノンやアカフィストを読んでもいいのですが、注意がない時はコルホーズの労働日(コルホーズ員の労働単位)のようになるのです。一日が過ぎました。チェックを入れました。ある時間読みました。神のもとで仕事を終えました。

 

聖詠歌唱者にはこのような単純な、そして深い言葉があります。「目を覚ましていなさい、そうすれば災いはないでしょう。」私たちも警醒(けいせい)していましょう。というのも主は常に予告しているからです。後になって私たちは常に覚えています。一方で予告があったのです。信号があったのです。しかし聞き従わず、不注意で、どこかにまっしぐらに駆けて行って、飛んで行って、ぶつかるのです。これは、神と共にいたいと望む人々、自分の道をきずなく、恐れずに進んでいこうとする人々にとっての予告です。このためには自分の行いに注意深く、自分の言葉に注意深く、自分の思いに、自分の行動に注意深く、対人関係において注意深く、祈りにおいて注意深くあらねばなりません。そしてその時私たちは予防され、その時私たちは注意なくしては決して行けないところへと進んでいくのです。そして、ただ私たちが主と共に居さえすれば、主は私たちと共におられることでしょう。アミン

 

 

 

2019年11月16日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

神は死を創造されませんでしたし、生きている人が滅びるのを喜ばれません。「悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。(ソロモンの知恵書2:24)」これはソロモンの知恵書の言葉です。

 

神は死を創造されませんでした。そして神は悪も敵意も不義も創造されませんでした。すべてこれらは人間から生じるのではなく、人間を通して生じるのです。使徒パワエルの言葉に次のようなものがあります。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エフェソ6:12)」今日世界にある悪の原因をこれほどよく説明することは出来ません。妬みによって悪魔は世界に死をもたらしました。私たちの戦いは人間に対するものではなく、「暗闇の世界の権威と支配者」に対するものなのです。

 

たいそう重要なのは、私たちの生活において、人間の中に生きている罪から人間を切り離すことです。それはちょうど、私たちが、かさぶたができていたり、瀕死の状態であったり、病気のためにゆがんでしまった病人を見る時と似ています。その時決して、誰も、彼が病気だからといって病人をあざ笑ったり、卑しめたり、叱責したりしません。彼は弱く、罪によって打ち負かされてしまいました。しかしそれでもやはり彼の中には神の像が残ったのです。そして私たちは、この人と出会う時、彼と戦い始めるのです。というのも彼はすでに病気で、彼はすでに罪に打ち負かされているからです。もし私たちが彼を助けることができないのなら、少なくとも彼に対して苛立ったり、彼を怒らせたりしないようにしましょう。まさしくこれが正教のハリスティアニンの道なのです。人間の中にこの悪が生きているとしても、人間を悪から切り離すこと。なぜなら「私たちの戦いは血肉を相手にするものではなく、暗闇の世界の権威と支配者を相手にするものだからです。」

 

時に次のような質問が起こります。「いかに隣人を愛せようか、いかに赦すことができようか」という質問です。その時はただ簡単に次のように理解すればいいのです。つまりこれは人間の罪ではない、これは人間の不幸だ、と。不幸に対しては同情します。不幸をあざ笑ったりしません。不幸の時には助けの手を差し伸べようとします。それゆえ、もし助けることができないのならば、少なくとも裁かないようにしなさい。少なくとも呪わないようにしなさい。少なくとも戦わないようにしなさい。逆に単に悟りなさい。「彼は堕落した。彼はすでに堕落した。それで彼を踏みつける必要はない。」もしも彼を起こすことができないのならば、少なくとも彼のために祈りなさい。

 

ここに、私たちの隣人に対する態度の本質が全てあるのです。私たちはこのように人を見ましょう。裁くのをやめましょう。侮辱するのをやめましょう。この人に対して怒るのをやめましょう。そして当然ですが、人と戦うのをやめましょう。なぜならわたしたちは、彼はすでに打ち負かされ、私たちが彼と戦うことで、単にさらに彼の不幸を助長するのだということを理解することになるからです。なぜなら言葉によってはうんざりさせますが、模範によっては教えることができるからです。ただ模範と祈りによって、私たちは私たちが生きている世界を変えることができ、人々の中に生きている不幸を変えることができるのです。

 

皆さんの聖なるお祈りに感謝を申し上げます。ハリストスのご聖体を頂いた領聖者の皆様おめでとうございます。

 

 

 

2019年11月18日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

次のようなハリストス救世主の言葉があります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マトフェイ6:33)これは一見実行が困難なように思われます。人々は獲得に専念しています。建設したり、修理したり、耕したり、種を蒔いたり・・・。果たして主は私たちの手に負えない戒めを与えたのでしょうか。もちろん、そうではありません。なぜなら「ハリストスの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いから」(マトフェイ11:30)です。全ての事はただそのやり方にかかっているのです。主は私たちが己の地上の糧について慮(おもんばか)る必要があることを否定していません。しかし主は第一に必要なことについて言っているのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」、と。

 

私たちが神の国への道と神の義に従った生活を最重要視するとき、その時全て他の物は私たちに加えて与えられるのです。なぜなら主は私たちを祝福し、神の祝福は最も強いからです。それゆえ、この言葉には完全な真理があるのです。この言葉は単に実行されるだけでなく、理解するためにも必要不可欠です。というのも人生の中で最も困難なこととは、一番重要なことと二義的なことを分けることにあるからです。もしも人が一番重要なことを行ったのなら、二義的なことも実行されるのです。もしも一番重要なことを行わなければ、その時は二義的なことも意味を持ちません。それゆえ主は私たちに言っておられるのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」と。そしてさらに主は言われています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マトフェイ16:26)従って、神の言葉に注意深くあり、常に「ハリストスの軛は負いやすく、ハリストスの荷は軽い」ということを思い出しましょう。まさにこの言葉の中に、いかに正しい生活を送るか、ということへの直接的な指示が含まれているのです。これは、私たちの人生を重苦しいものとせず、逆に軽くし、正しい道に向かわせるものです。

 

皆さんの聖なるお祈りに感謝します。聖なるハリストスの聖機密を受けた方たち、おめでとうございます。

 

 

2019年11月22日

 

「ハリストスによって洗を受けし者、ハリストスを着たり」これは何を意味しているのでしょうか。これが意味していることは、ハリストスの軛を受け入れる必要があるということです。ハリストスの軛とは福たるもので、ハリストスの荷は軽いのです。これが軽いのはこれを受け入れた人だけです。そして教会はこのことを福たるモスクワのマトロナ*1の記憶日に思い出します。マトロナはハリストスの軛を受け入れ、ハリストスから柔和と謙遜を学びました。そして主は彼女を讃栄しました。主は彼女に洞察力、預言の賜物、彼女のもとに来る人々全てに恩恵に満ちた助けを与える賜物を与えたのです。

 

今日私たちは消費者として登場し、ただマトロナに、私たちに恵んでくれるように、私たちを助けてくれるように頼みます。しかし私たちが覚えていなければならないのは、これらの言葉は私たちに対してもハリストスが向けた言葉だ、と言うことです。私たちはハリストスを着なければなりません。柔和で、謙遜で、ハリストスと全ての人々を愛さなければなりません。福たるマトロナは私たちに模範を示したのです。今日私たちは、マトロナが私たちに単に地上の福を与えて下さるだけでなく、私たちがハリストスの軛を愛することを助けて下さいますように、再びさらにマトロナに向かいましょう。ハリストスの軛は福たるものだからです。」

 

*1 福たるモスクワのマトロナとは20世紀の聖人。生まれつき目がなく、成長するにしたがって、歩く能力も失う。しかし彼女には心の目が開かれていて、神の啓示を人々に語り、彼女の助言を求めて、多くの人が迫害下のロシア正教で彼女のもとに来た。

 

2019年11月25日

 

大変な金持ちだった人の譬(たと)えで、こう言われています。夜に彼に言葉が臨みました。「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:20)さらに次のような結びが来ます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:21)しかし「神の前に豊かになる」とは何を意味しているのでしょう。そして「自分のために富を積む」とは何を意味しているのでしょう。「自分のために富を積む」とは自分自身のために生きることを意味します。「神の間で豊かになる」とはこの世で神と共に働く人になることです。自分のために生きることが少なければ少ないほど、そしてより神のために生きれば生きるほど、私たちは神へと近づきます。しかしもし、最も大きい神の憐みは何かと質問されたら、おそらくこう答えることが出来るでしょう。主は私たちを主と共に働く人とさせて下さったことだ、と。しかしこのことが可能なのは私たちが自分を忘れる時だけです。

 

ヴィーリツクのセラフィムの有名な祈りがあります。「これは『私』からのものだった。」という祈りです。そうです、全て起こったことは神からのものです。しかし神には地上で私たち以外の他の働き手はないのです。主は全ての善き業を私たちの手によって行われます。「神の前に豊かになる」人、「全てはいったいだれのものになるのか」という呪いを聞かない人は祝福されているのです。逆に「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(マトフェイ25:34)という言葉を聞く人は幸いです。

 

今日は神の母のイコン「憐み深き生神女」の記憶日で、かつイウリアニア女子修道院長が院長になられて二十周年目にあたります。破壊された場所にこのような美しさが蘇りました。モスクワの町と全世界を飾る奇異なる聖堂が人の手によって完成されたのです。マートシュカ(修道院長)は、ここに実際美しさが蘇ると信じました、一方で人々はマートゥシュカを信じました。これは人が「神の前で豊かになる」ことが出来る時の幸せです。富がよいものであるのは、それが神の光栄のために向けられ、人が神と共に働く者となって、神聖なるそして人間的な現代の創造の結実を見ることが出来る時です。

 

マートゥシュカ、私は総主教キリル聖下から、修道院長の記念日に聖下の祝福とお祝い、そしてあなたの仕事とあなたの祈りに感謝を伝えるように頼まれました。総主教聖下はあなたのことを喜んでいます。そして、あなたがこれからも倦(う)むことなく働き、祈り、同様に神の前で豊かになることを願っています。  アミン

 

 

2019年12月1日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

全ては過ぎ去っていき、今あるものもやはり過ぎ去っていきます。すべてはもちろんはかなく、短く、不確かです。さらにコヘレトは何千年も前に言いました。「全ては空しい、空しさの空しさ、霊の悶え。太陽のもとで働く人間の全ての労働から人間は何か益を得るだろうか。」(コヘレト1:2-4,14)しかし同時にハリスティアニンにとっては暫時の地上の人生の中に永遠の意味があります。しかしこのためにはこの人生の意味を理解しなければなりません。

 

今日の福音書の譬(たと)えで、私たちは次のような話を聞きました。ある人がその当時裕福になって、彼はこの富が幾年ももつだろうと考えました。そして彼は言いました。「食べて、飲め、楽しめ、喜べ」と。そして彼に次のような声がありました。「愚かな者よ、明日お前の魂は取り上げられる。これらは誰のものになるのか」さらに次のような有名な言葉が続きます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16-21参照)

 

かつて昔の人々が地上の人生の短さについて語った時、それと同時に彼らはこの人生の意味、真実の豊かさを見出そうと試みていました。ちょうどこの譬えでは真実の豊かさ、神の前で豊かになることについて語られています。

 

このようなロシア民族の知恵があります。「私たちが与えたものだけが私たちのものなのだ。隠したものは、なくなってしまった。与えたものがあなたのものだ。」この言葉をすぐに理解し、受け入れるのは困難です。どのような人でもいいから想像してみましょう。人にはある一定の富があり、彼が誰かに何かを与え、その後に死にました。彼が与えたものは神の前で彼に残りました。自分のために残しておいたものは、他の人々が取りました。

 

他の例があります。収集家トレチヤコフは絵画を買い占め、それらを人々に与えました。今に至るまで私たちもあなたたちもトレチヤコフ美術館について知っています。さらに私は多くを収集しながら、それらをどこにも与えなかった人々のことを知っています。そして彼らが死ぬなり、親戚がそれらを自分のものとして没収し、何も残りませんでした。ゆえに、「私たちが与えたものだけが私たちのものだ」という言葉の中には深い実用主義、深い意味が込められているのです。これは何かの善行や慈善事業ではありません。これは実用主義なのです。なぜなら私たちが与えるものが、私たちに残されるからです。一方で、私たちが自分に残したものは、私たちの後の人が収奪(しゅうだつ)するのです。

 

それゆえ、実際に私たちの人生は短く、暫時(ざんじ)のものです。しかし同時にここで、すでに地上で神において豊かになり、天における資産として宝物を蓄える人は祝福されています。

 

一人一人に程度は異なります。これは、今すぐに家に行って、全てのものを分け与え始めなければならないということを意味しているのではありません。私たち一人一人に隣人、遠い知り合いがいます。しかし理解しなければならないのは、それでもやはりある部分は与えなければならない、ということ、分け与える能力を持つことです。そしてさらに人がこのことから喜びを受け取る時、人が与えて、感謝を期待せず、逆に喜んでいる時、彼にはこれは彼のものだということが分かります。しかしこれらのこと全ては狂信的にではなく、理性的に行わなければなりません。覚えておかなければならないのは、それでも私たちが与えるものが私たちに残るのだ、自分に残したものは、私たちの後の人が収奪してしまうのだ、ということです。

 

それゆえ分別ある人は神において豊かになりますが、思慮分別に欠けた人は自分において豊かになります。選択は私たち一人一人にかかっているのです。

 

皆さんの聖なるお祈りに感謝申し上げます。ハリストスの聖機密を受けた領聖者の皆さんおめでとうございます。主に感謝しましょう。

 

 

 

 

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