2018年8月7日
父と子と聖神の御名によりて。
携香女(けいこうじょ)とは、ハリストスの宣教の際、またゴルゴファでもハリストスと共にいて、主の墓に最初に来た人々です。天使はまず彼女たちに「彼はここにはいない、復活したのだ」と告げました。そしてこの携香女に学ぶための学舎は常に存在していました。金口イオアンの時代にも、今日にも、常に聖書で言われているような「自分の財産をもってハリストスに仕えている」敬虔なる女性がいるのです。しかし質問が起こります。富がない人々や物質的な富を拒んだ修道者たちはどのように自分の財産をもってハリストスに仕えるのでしょうか。
一人ひとりが自分自身にとって大切なものを与えるのです。そしてハリストスは、エルサレムの神殿の入り口にいた時、レプタを投じた女性を指して、言いました。「彼女は誰よりも多く投じた」と。何故なら全ての人たちは有り余る中から与えますが、彼女は持っているもの全てを与えたからです。
そして修道者は、持っているもの全て、自分の全生涯を捧げます。これは、彼らが神の光栄のために与えた彼等の財産なのです。彼らの神への犠牲は、痛悔の神(しん・霊)と、痛悔して謙遜なる心です。神はこれらを軽んじません。
ですから、全ての人に祭日のお祝いを申し上げます。併せて聖名祭を迎える人は聖名日のお祝いを申し上げます。そして私たち一人ひとりに主が彼に仕える可能性を与えて下さることを神に感謝しましょう。ある人は物質的な富をもって仕え、またある人達は自分自身を主への務めへと捧げるのです。
マートゥシュカ(女子修道院長への呼称)、あなたのために喜んでいます。修道院は美麗をもって飾られ、聖堂は驚くべきものです。聖堂に入ると、人は思うでしょう。お前はどこにいるのだ。地上にいるのか、天上にいるのか。敬虔なる巡礼者と修道院の姉妹たちにはただ一つのことを願いましょう。神に感謝し、喜びなさい。そして決して悲しまないように。何故なら全てのことを神に感謝しなければならないからです。全てのことを。そして私たちの喜びとは、福たる戒めを守ることにあるのです。「喜べよ。また言う。喜べよ。蓋し天における爾等の報いは多ければなり。」
2018年12月7日
父と子と聖神の御名によりて。
福音書の福音の本質は愛の戒めにあります。主は私たちに言っておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マトフェイ22:37-40)
しかし人間にとっては、伏拝し、カノンやアカフィストを唱え、巡礼をし、多く祈る方が簡単なのです。もちろんこれは皆必要なことです。しかし私たちの中で、自分自身の中に神と隣人への愛が欠如していることを悲しむ人がいるでしょうか。もちろんこれはとても簡単なことに思えますが、自分の中に愛を養うことはできません。
なぜでしょうか。なぜなら私たちは神から造られた人間が、ここ地上において困難で窮屈な状況にあることを忘れているからです。罪の大小があるというわけではありません。さらに使徒イアコフは自分の牧群に警告して、思い出させています。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点において有罪となるからです。」(イアコフ2:10)一方私たちは皆戒めを破り、私たちは皆神の命令に背いています。そしてさらに他の人々を裁いています。これにどう対処したらいいでしょう。いかに踏みとどまることができるでしょう。
裁かないようにするためには人間自身と病を切り離すことを学ばなければなりません。なぜなら罪、これは病だからです。
あなたにとって罪がいかに恐ろしいものに思えても、人間の罪をその人から切り離して考えなければなりません。そうすればあなたはすでに愛の基を置くことでしょう。
今日読まれた使徒経の中で私たちは、罪に対する戦いを呼びかける、鋭い言葉を聞きました。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:11-12)
人が悪霊の重圧のもとにあるとき、私たちはその人のために祈らなければならないのでしょうが、私たちはその人を裁き始めます。一方で人が扁桃腺やしょうこう熱にかかっていて、高熱が出たら、彼を裁くという考えは脳裏に浮かびません。逆に皆が、病人は同情に値すると理解しているのです。
私たちが人間から病を切り離すことを学ぶとき、その時本当に愛することを学び、私たちの天の父が完全であられるように、私たちも完全になるのです。アミン。
2018年12月26日
「誘惑が近づいてきた時は喜びなさい、そして感謝しなさい。次のような素晴らしいソロモンの言葉があります。銀のためには溶鉱所、金のためにはるつぼ、一方で人間の心は主が試す。
地面の土を少量とるとします。この中にはほんの僅かな金、銀、他の金属の粒があります。そしてこれら全てを取り分けるためには、土を火の中に投げ入れなければなりません。もしも火がなければこれらの金属の粒も取り出せないでしょう。このように主は私たちにもさまざまな誘惑を送るのです。忍耐しなければならい、ということを理解している人は祝福されています。そしてその時、小さな金ができるのです。」
「ロシアのことわざが次のように言っているとおりです。食事は味覚によって知られるが、聖性は試練によって知られる、と。ウクライナ教会の代表者の、福たる府主教オヌフリィは大変素晴らしく言っています。『私の考えでは、彼等は私たちの中から聖人を作りたいのです。彼等にそれができるかどうか見てみましょう。』これが聖性なのです。ですから喜んで、感謝しましょう。心が痛むのなら、叫び声をあげてもいいのです。涙を流してもいいのです。私たちは皆生きた人間なのですから。しかし重要なことは感謝し、喜ぶことです。アミン」
2018年12月29日
私は、至聖なるモスクワ及び全ロシアの総主教キリル聖下から、総主教聖下の祝福と、モスクワの生神女庇護修道院の修道院長の聖名日のお祝いを伝えるように頼まれました。この修道院にはモスクワの福たるマトロナの不朽体が安置されています。修道院長であるマートゥシュカはマトロナについて人々が知り、彼女を崇め、ここに不朽体を移動させるために多くのことをされました。そして、ここに人々が来て、モスクワの聖にして義なるマトロナに伏拝することが出来るように多くのことをされています。空っぽの井戸には人々は水を求めてやってきません。そこで人々は尽きることのない奔流のように聖にして福たるマトロナのもとに次から次へと押し寄せてくるのです。
聖書には逆説的な言葉があります。「あなた方のうちで上になりたいものは、皆に仕えるものになりなさい。」これは提案ではなく、断定です。下の人、彼にとって仕える人はいません。上に立つ人が全ての人に仕えるのです。そしてまさに王や上司は下々の人に仕えるのです。ヒエラルヒーの階段を高く上がれば上がるほど、彼らはより多く隣人に仕えなければならないのです。修道院長であるマートゥシュカに総主教聖下はこのような従順を与えました。上役であるということはつまり全ての人に仕えるということなのです。マートゥシュカはこの任務を遂行されています。マートゥシュカは自分の全てを務めに、修道院の務めに、総主教聖下が与えた従順に捧げておられるのです。








