正教の灯

メニュー
  • TOP
  • ごあいさつ
  • 翻訳・著作物の紹介
  • お問合わせ
  • blog
  • Home
  • ロシア正教会修道局長フェオグノスト府主教の説教
  • 2018年3月から7月の説教

2018年3月から7月の説教

  • ロシア正教会修道局長フェオグノスト府主教の説教

セルギエフ・ポサドの大主教フェオグノスト座下の説教

 

2018年3月7日大斎(おおものいみー復活祭前の罪と食事の節制の期間)

 

父と子と聖神の御名によりて。

もしも信者が、あなたは何を一番望んでいますか、と質問されたら、自分を信者と見なしている人は皆、おそらくこう答えるでしょう。『主よ、私は祈りを学びたいのです』と。なぜなら、私達が祈りを学ぶ時、全て他のものは付与されるからです。というのも祈りの中で全てが、世界の全ての奥義が私達に明かされるからです。祈り、これは私達が神に向かい、神に聞くことです。しかし、ああ、私達のうちのだれが祈りを獲得した、といって誇れるでしょうか。智の祈りについては既に言わないとしても、たとえ単に祈り、それだけだとしても。そして人間の心は悲しみ、人が陥っている袋小路から抜け出る出口を見出そうと試みるのです。

 先備聖体礼儀の祈りの中に次のような神秘的な言葉があります。「願はくは我が祈りは香炉の香(かおり)の如く爾が顔(かんばせ)の前に登り・・・」驚くべき比較です。願わくは私達の祈りはモイセイや預言者イリヤの祈りのようにではなく、使徒や、使徒職にある男性の祈りのようにではなく、魂のない、鉄の、何も考えない香炉のようになるように、というのです(訳者注:教会スラブ語では「香炉の香の如く」ではなく「香炉の如く」と表現されている)。不思議です。でも私達はこの言葉を繰り返します。これらの神秘に少しでも触れるためには、主は祈りの中で私達を異教徒のように多弁なる者として召しているのではない、ということです。異教徒は自分の多弁によって聞き入れられると思っているからです。知っているでしょう。主は、あなたが神にこのことについて言う前に、あなたが思い浮かべることすらする前に、あなたの願いをご存知なのだ、ということを。

 「立つ」という概念があります。人が祈る前、すでに祈った後、恐れ慄きながら神に前に立ち、自分の不当さを自覚し、同時に人の心は喜びに満たされます。なぜなら人は主の臨在の内にあるからです。この時人には思いも言葉もありません。人はただ神の前に立つのです。高尚な祈りについて言われているように、「爾等止まりて、識れ(聖詠45:11、詩編46:11)」、つまり、あなたが主の前に立つとき、全て知的なもの、この世的なもの、朽ちるものから離れ去りなさい、ということです。故に、私達は祈りが香炉と比較されている願いを聞いているのです。香炉はただ祈りに伴っているのであって、祈っているのではありません。

 そして、私達が自分の部屋で、家で、仕事で、バスの中で、森で、海で、畑で神の前に立つ時、私達はただ単に神の前に立つのです。一方主は私達の心をご覧になります。私達が自分の心の静けさの中で沈黙するとき、主は私達に私達の救いにとって必要なもの全てを啓示するのです。その時心は喜びと神への感謝に満たされます。しかし、ああ、私達はこのことを他人に話す状態にはないのです。ただこれを経験するのみです。使徒パワェルはあたかも他人についてのように、自分について言っています。「わたしは、ハリストスに結ばれていた一人の人を知っていますが、・・・その人は第三の天にまで引き上げられたのです。(2コリンフ12:2)」使徒はそこで言い尽くせない言葉を聞きましたが、それを伝えることは出来ませんでした。なぜならこの言葉は人の性より高尚で強いからです。しかしこの神秘的な現象についての記憶は生涯残りました。

 私達の奉神礼で使われる香炉のように、私達の祈りが登っていくように、願わくは主は私達を助けんことを。アミン。

 

 

2018年4月28日

 

父と子と聖神の御名によりて

 

私たちが生きている世界、人類共同体を、聖師父と私たちは「荒れ狂う海」と名付けています。海において、人は船なしに救われることができないように、「この世の海」においても「教会という船」の外で、人が救いを得ることはできません。信じている人は「教会という船」の中でのみ己の安全を感じるということを強く確信しています。

 

聖書ではガリラヤ湖でおこった嵐にお弟子さんたちがおびえたという記述があります。彼らはハリストスに呼びかけましたが、ハリストスは船尾でまどろんでいました。「主よ、わたしたちが滅んでもかまわないのですか。」主は嵐を叱り、ご自分のお弟子、使徒たち、概して私たち一人ひとりに次のような言葉を言いました。「何故怖がるのか。」(マルコ4:35-41参照)ロシア語には訳するのが困難です。ロシア語でも言えますが、この言葉の深い意味を伝えることはできません。この言葉の中には愛と叱責があるのです。

 

「何故怖がるのか」-「わたしはあなた方と共にいる。-誰があなた方に敵対できようか」(使徒行実1:9-12参照)。この世に住んでいる人たちが次ぎのことを知り、常に覚えていなければならないのはいかに大切なことでしょう。つまり私たちは船の中にいて、そのかじ取りは主ご自身であるということです。わたしたちがおびえる時、私たちが恐れる時、私たちはこのことによって自分の不信仰、自分の神への信頼のなさを証しているのです。このことを私たち一人ひとりが悔い改めなければなりません。何故なら人間は皆恐れるものですが、愛と信仰はあらゆる恐れを締め出すからです。人は恐怖から守られようとします。人は見はりを雇い、錠をかけ、壁を築きます。しかし、「もし主家を造らずば、造る者いたずらに労し、もし主城を守らずば、守る者いたずらに警醒す。」(聖詠126:1・詩編127:1)なのです。

 

私たちが神の守りの元にいて、私たちの自分自身及び隣人に向けられた恐怖は何の意味もなさない、それらは私たちの力を殺すのだということを常に覚えているのはいかに大切なことでしょう。恐怖は救いません。臆病は破壊します。信仰と愛は強め、力を与えるのです。まさしく信仰と愛なのです。復活された主は私たちに言いました。「勇気を出しなさい。私はあなた方と共にいる。誰があなたがたに敵対できようか。」そしてただこのことを信じるだけでなく、この信仰によって生き、右からも左からも来る思いを許さないことが出来るのです。左からの思いはこういいます。「彼女と一緒に住んでも、喜んでもいいし、満足を得ていい。」右からの思いはこういいます。「いいや、だれも救われない。皆滅びる、『そのうち我第一なり』私は罪人だ、いかに救われようか。」一方で真ん中があります。何かの功労のためではなく、その愛から主は私たちを「教会という船」に招かれました。そして、もし私たちに信仰と愛があるのなら、主は私たちが滅びることを許しません。まさしく、信仰と愛を私たちは己の心に保たねばならず、常に信仰のうちに生き、強い祈りによってすべての凶悪なる考えを追い払わなければならないのです。「神よ、我罪人を憐み給え」(ルカ18:13)「主、イイスス・ハリストス、神の子よ、我を憐み給え。」

 

あなたたち皆さまに感謝します。そして私たちは共に次のことを神に感謝しましょう。すなわち、あなた方が今日祈ったこと、神に向かって立っていたこと、喜び、平安、安寧を感じたことを。部屋、外、車、飛行機の中においても、どこにいようとも、この平安と安寧のうちに留まらなければなりません。というのは神が私たちと共にいるからです。もし神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

アミン。

 

 

 

2018年6月9日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

今日は聖にして義なるロシアのイオアンの記憶日です。イオアンは軍人で、ペトル一世皇帝の軍隊に所属していました。そしてトルコ行軍の時、トルコ人の捕虜になりました。人間に自由がない時、捕虜より劣悪なものはあるでしょうか。しかしすでに昔ある人はこう指摘しました。虜が自由の神(しん・霊)を持つことができる一方で、自由な人間が自分の欲望の虜となることがある、と。このように義なるイオアンは、トルコの地において虜となりましたが、自由な神(しん・霊)*1とハリストスへの忠誠に留まったのです。そしてクリスチャンではないトルコ人でさえ、彼の中にある聖性を認め、敬いました。トルコ人たちはイオアンを解放しようとさえ望みましたが、イオアンは言いました。「いいえ、神の御心は私がここ、あなたがたのもとにいて、仕えることです」と。

 

私たち一人ひとりが自由を欲します。私たち一人ひとりが依存性によって苦悩します。しかし一つ覚えていなければならないことがあります。神の世界、神の国ではヒエラルヒーが存在するということです。これはやはり依存です。しかしこの依存は自由意志によるものです。ちょうど天使がだれかに強いられてではなく、それが天使の性質だからという理由で神に務めるのと同様です。一方地獄に落ちること、これは隷属です。そこでは自由がなく、人は苦しみます。なぜなら彼が望まないことが彼に起こっているからです。私たちが地上で生きている間、私たちには選択肢があります。自由に、しかし神への己の務めのうちに隷属するか、自分の欲望の虜となり、自由がなく、強いられた場所に落ちるかです。これより恐ろしいことはありません。

 

願わくは、聖にして義なるロシアのイオアンと克肖捧神なる我らが神父、ラドネジの修道院長セルギイ、ニーコン、キリルとマリアの祈祷によって、主が私たちにこの簡単な真理を自覚させてくださり、神の務めへの隷属を選ばせてくださいますように。しかしこの務めは喜びと愛に満ちているのです、この務めなくしては、私たちは生きることすらできません。アミン。

*1 神(しん)ーギリシャ語ではプネヴマ、ロシア語ではдух、他のキリスト教宗派では霊(れい)と使われることが多い。正教会では当時霊(れい)と言う言葉が幽霊を想起させるということで、神の右上に。印をつけて、「しん」と読ませた。ただこれは造語であり、既成漢字にない文字なので、神とかいて送り仮名(しん)を付けた。

                                                                                                                                          

2018年7月1日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

苦しむ肉体は気(神(しん))に力を与える。気が害されれば何によって力が与えられようか。これはソロモンの知恵書の中の言葉です。この言葉の中には一人ひとりにとって大変深く重要な思想が含まれています。人が病気になると、もし強い気を持っているのなら、気は人の弱さを克服するのを助けます。それでいつの時代にも教会に来る人も教会に来ない人も人々は言ったのです。「気を落とさないで」、「元気になって」と。なぜなら、気が強い時、気は肉体の弱さに打ち勝つからです。一方で気が害されるときはどうでしょう。害されるというのはどういうことでしょう。害されるというのは打ち負かされるということです。誰によって打ち負かされるのでしょう。他の気によって打ち負かされるのです。

 

今日読まれた福音書で私たちは、主にいかに無数の悪魔が彼等を豚の群れに送るように頼み、いかにこの群れが山の上から突進したか、という話を聞きました。

 

人類の歴史の中には、人々が基準に合わない行動をし、狂人のように振る舞ったという非常に多くの出来事があります。しかしこれは狂気ではありません。たとえこれもやはり狂気だとしても。この原因は気が打ち負かされることにあります。悪魔憑(つ)きとは気が打ち負かされることに他なりません。気は打ち負かされることがあります。そして人は他の悪い気によって取りつかれるのです。あるとき、ある人は非常によく表現しました。「人は打ち負かされたものの奴隷なのである」と。そして悪魔憑き、憑(と)りつかれた状態、これは奴隷状態に他なりません。他の気への奴隷です。しかし悪鬼は、祈りと斎(ものいみ)と警醒(けいせい)のうちに生活している人の体には入りませんし、神を志向している人々の体と魂には入らないのです。人生きて罪を行わざるものなし。しかし全ての人に悪鬼が入るわけではありません。悪鬼は何よりもまず、自分の心を悪鬼に与える人、自分の魂を悪鬼に与える人に入るのです。そしてその時初めて悪鬼は人をとらえるのです。

 

さらに(これは福音書の他のお話ですが、このことについて記憶するのは私たちにとってとても重要なことです)主は言いました。悪鬼は人の魂と体から追い出されると、荒涼とした水のない場所を駆け、さまよいます。しかしその後、悪鬼は住まいがないのはつらいことだと見て取るのです。そして悪鬼は七つのもっと悪い悪鬼引き連れて、家、つまり彼が抜け出た人の魂、掃除して、きれいになって、片付いている、家に帰り、彼のもとに住み着くのです。

 

今日、そしていつも、多くの人が肉体的な健康について語っています。人が癒されるためにあらゆるダイエットが勧められています。しかし神(しん・気)において生き、人の中に住んでいる気を裏切らず、この気によって生き、この気に忠実になる必要があるということを言う人は大変少ないのです。この世で全ての人は選択をします。そして人に自由を与えた主はその自由を守っているのです。人に関わっているのは、どのような選択をするかということです。しかしこの選択はただ言葉だけではなく、どこかはるかに深い場所で、神(しん・気)の中で、心の奥深くで、行われるのです。そこで人は、誰と共にいるかという選択をします。これは私たちが思っていて、理解しているより、はるかに深いものなのです。

 

霊的生活はまさに私たちがどんな気持ちで生きているか、どのような神に祈っているか、ということを認識することにあるのです。そしてこの質問への答えは、神の神(しん・霊)の内に、主が我々に与えて下さった神(しん・霊)のうちに生き、神に忠実になる力を我々に与えてくれるのです。アミン。

 

 

 

2018年7月3日

 

父と子と聖神の御名によりて。

 

人類思想史はいつも善と悪の問題の周りを廻っていましたし、今も廻っています。どこから悪が来たのでしょうか。このことについては初代の人々も悩んでいましたし、後世の人々も思うことでしょう。そして人は今日同様にこの問題をなげかけています。そしてこの問題に対する答えがあるのです。

 

今日読まれた福音書で、私たちは主が語った譬えについて聞きました。ある人がいました。彼は自分の畑に小麦を蒔いていましたが、夜に敵が来て、どくむぎを蒔きました。そして朝、主人の僕たちが小麦と一緒にどくむぎがあるのを見て、尋ねました。「どこからでしょう。」これに主人は、敵が蒔いたのだ、と答えました。その時僕たちは主人に提案しました。「どくむぎを引き抜きましょう。」しかし主人は、刈り入れまで一緒に育つままにしなさい、なぜならどくむぎを引き抜きながら、小麦まで引き抜いてしまうかもしれないから、と言いました。(マトフェイ13:24-30)この中に、どこから悪が起こったかという質問に対する答えがあるのです。

 

神は死を創造しなかったし、生けるものの滅びを喜ばれません。しかし悪魔の妬みによって世に死が入ったのです。そして彼、つまり悪魔の持前に属している人々は死を経験するのです。私たちが自覚しながら理解しているのは、悪と戦うことはできず、そして同時に私たちは、暴力行使によって悪に抵抗しない、という無抵抗主義についてトルストイ伯爵が展開した理論に反対だ、ということです。悪には対抗しなければなりません。しかし外側で、ではなく内側で、です。あなた自身が救われなさい、そうすればあなたの周りの何千人もが救われるでしょう。自分自身の中にある悪を克服しなさい、そうすれば外側にある悪も克服していくでしょう。悪と戦うことはできます。しかし自分のうちにある悪と戦う必要があるのです。そして私たちの恐ろしい革命が示したのは、善いものをも悪いものをもすべてを破壊する虐殺が次々と始まった時、悪との闘いとはどういうものか、ということです。

 

どくむぎは小麦と一緒に育ちます。そして主ご自身がどくむぎを引き抜くことを祝福されず、逆に主は私たちが改まることを祝福されました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(マトフェイ5:28)」ただ自分の中にある悪に打ち勝った時に、私たちは外側の悪にも打ち勝つのです。そして私たちにはこのような、自分自身の内にある悪に打ち勝つという、祝福された課題と目的があるのです。そしてこのことによって私たちは外にある悪にも打ち勝つようになるのです。願わくは主は、私たちがこの単純な真理を自覚し、理解し、受け入れるのを助けてくださいますように。

あなたがた皆さまの聖なるお祈りに感謝します。

 

 

 

カテゴリー

  • blog
  • ゲラシム掌院 モスクワでの説教ダイジェスト版
  • ロシア正教会修道局長フェオグノスト府主教の説教
  • 克肖者セルギイの遺訓
  • 現代の長老たちの教訓より
  • 霊的な知恵の宝石箱より
2021年3月の説教
2021年2月の説教
2020年12月の説教
2018年3月から7月の説教
2021年1月の説教
ロシアの風景 正教会の生活 (エッセイ集…
2021年4月の説教
2021年6月の説教
ページ上部へ戻る

正教の灯

  • TOP
  • ごあいさつ
  • 翻訳・著作物の紹介
  • お問合わせ
  • blog
643
Copyright ©  正教の灯 All Rights Reserved.