私達はベツレヘムの洞窟のようにならなければなりません。
1月6日、降誕祭前日に、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で教区の主管者ゲラシム(シェフツォフ)掌院により、聖体礼儀が執り行われました。
ゲラシム掌院は説教の中で、降誕祭前日は特別な日であることに言及しました。掌院は言いました。「私たちはハリストスの降誕祭の頂点を迎えようとしています。このお祭りは私たちの救いの始まりです。救世主が世に来て、蛇の頭をくじき、ハリストスの『光』が全世界に輝き出し、私達全てを清めるために、呪うべき暗闇の支配が崩壊するという古来の約束が成就するのです。ハリストスは、いかに救われるかを私たちに示すため、私たちにご自分の体と血を与えるためにこの世に来ました。領聖することによって私たちはハリストスと一体となるのです。」
人類はハリストスを首を長くして待っていました。そして救世主の誕生を見て、人類は喜びました。さらに重要な出来事であるハリストスの復活を期待していたからです。
ハリストスの降誕祭を迎えるたびに、私たちはこれを単に歴史的な出来事としてだけではなく、現実として受け止めます。この出来事は永遠のうちに永遠に繰り返されるのです。降誕祭は時間の外にあります。これを理解するのは大変重要なことです。
主管者は強調しました。「私たち一人一人が自分の中にハリストスを生まなければなりません。私たち一人一人が至聖なる生神女に倣わなければなりません。それは私たちの心にハリストスが生まれ、まだこの世の命、地上にいながら、ハリストスと一体となり、準備した、目の見える者として永遠の命に入るためです。」
しかし2000年前全ての人が嬰児(みどりご)を喜んで迎えたわけではありませんでした。ある人は恐怖に捕らわれ、救世主を殺すことに決めました。イロド王はベツレヘムに自分の召使を送り、全ての赤ん坊を抹殺しました。それは「光」が輝きだすいかなる可能性も根絶するためです。
私たちの時代も同様なことが起こります。かつてイロドがこの世の救主を殺そうと図ったように、今日も悪魔は、私たちの中に生育する善良なる芽をつぶそうと試みています。そして私たちのあらゆる善行には誘惑が伴います。これは私たちがハリストスに忠実であるかを試みるものです。ですから落ち込まないようにしましょう。誘惑から離れましょう。祈りと斎と戒めの実行によって全ての困難を克服しましょう。そして主は、私たちの熱意を見て、私たちが主の喜びに入るように、私たちを助けて下さるでしょう。
今日は、私たちが嬰児ハリストスが生まれたベツレヘムの洞穴に似た者にならなければならないことを思い起こさせる、特別な祭日です。このようにゲラシム掌院は結びました。
厚かましさ、これは全ての悪徳の母です。
1月10日旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で教区の主管者ゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀が執り行われました。
ゲラシム掌院は説教で、この日教会はハリストスの誕生という人類の歴史の中で最も偉大な出来事に参与する人々を記憶していると語りました。血筋においてイイススの親戚になった人々です。
これは聘定者(へいていしゃ)イオシフ、ダヴィド王、(父方の)主の兄弟です。
自分の故郷には預言者はいない、と言われた救世主の言葉を思い出しましょう。人と共に暮らしながら、彼の正しさに気づくことは実際に大変困難です。聖人伝にもこのような例がたくさんあります。
人々と近しく交際していることから、人間関係にある種の自由が生じます。人々はすでにВы( あなた。尊敬を込めていう表現)ではなくТы(君、親しい人同士で使う表現)で交際しあいます。例えば沈黙している必要がある時に、互いに笑いあったり、余計なことを言い合ったりします。このように敬虔がなくなってしまうのです。
私たちは敬虔に神、聖堂、そして同様に人々にも接しなければなりません。自分の隣人に尊敬をもって接するのです。極端な自由と厚かましさを自分に許すことをやめましょう。これらは最終的に罪や、叱責や嘲笑に導きます。
厚かましさ、これは全ての悪徳の母です。
今日私たちは、あらゆる試練にも関わらず、ハリストスと彼を取り巻く人々に、厚かましくではなく、敬虔に接してきた人々を敬っています。聘定者イオシフ、イイススのお兄さんであるイアコフ。彼はハリストスに従い、自分の生涯を致命の冠をもって終えました。
同様に私たちも、神と、聖堂と、諸聖人と全ての周囲の人たちに対する敬虔という、この善行を己の内に育んでいかなければなりません。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」神品致命者ウラシイ聖堂での主の割礼祭
1月14日主の割礼祭に、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で、教区の主管者ゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀が執り行われました。
奉神礼の後ゲラシム掌院は参祷者に主の割礼祭と成聖者大ワシリイの記憶日のお祝いを述べました。
ゲラシム掌院が指摘したのは、ハリストスの生涯に起こった主の割礼祭は旧約の伝統と結び付いている、ということです。掌院は強調しました。「旧約聖書は全てハリストスについての預言です。すべての旧約の出来事は新約の出来事の予象なのです。」
古代イスラエルでは、割礼は人が神の民に属することを証明する肉体的な印でした。わたしたち、新しいイスラエルたるハリスティアニンは何らかの肉体的な印を必要としません。しかし私たちには、私たちがハリスティアニンであると見分けられるある種の印がなければなりません。この印を使徒パワェルは「心の割礼」と呼んでいます。私たちの印、これは愛です。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」救世主は私たちにこう戒めています。(イオアン13;35)
ゲラシム掌院は成聖者大ワシリイをこのように「心に割礼」をもった人の模範と呼び、参祷者に、互いへの愛を獲得することによって、救世主の言葉に従うように呼びかけました。
神品致命者ウラシイ聖堂での洗礼祭前日
1月18日神現祭の前日、旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀と大聖水式が執り行われました。
奉事の後ゲラシム掌院は参祷者にお祭りのお祝いを述べられました。「この日、主はヨルダンで人々に洗礼を授けている前駆イオアンのもとに来て、主がまさに、全ての人類を救うために来られた、約束された神の子羊であることを証明しました。」ゲラシム掌院は説教の中でこう指摘しました。
聖書の中で語られているように、多くの人々は授洗イオアンがハリストス、メシアではないか、と思っていました。しかしイオアンは言いました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖神で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:7-8)
主はヨルダンで己を現しました。それでこの祭日は神現祭と呼ばれます。この瞬間まで人類は神を知りませんでした。神は異象や啓示の中で預言者たちに現れました。しかし、わたしたちが神に触ることができるように、神が人間の肉体をまとうようなことは、決してありませんでした。
ついに主は来て、人類は神に触れることができます。人類は完全に神に親しむことができるのです。私たちはハリストスの「体」と「血」を領聖し、救世主の肉体と一つになるのです。これより密接な神との交わりはあり得ません。そしてすべてこれは私たちへの愛から行われるのです。私たちを救うためです。私たちは主にその私たちに対する大いなる寛容を感謝しましょう。
少し脱線しますが、神が己を私たちに現したために、私たちは主をイコンに描くことができるのです。
今日は世界の全ての水が聖になります。それは私たちが自分の罪から、私たちを満たす空虚さから解放され、「命の泉」から渇きを癒すためです。
ですからこの日々に聖水を汲んで、飲み、あなたがいる自分の家、部屋に聖水を振りかけて下さい。全て周囲のものを聖にして下さい。これは偉大なる日なのです。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」(イオアン4:14)神品致命者ウラシイ聖堂での主の洗礼祭
1月19日、聖なる神現祭、主、神、我等の救世主イイスス・ハリストスの洗礼祭に旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀と大聖水式が行われました。聖なる神現祭の水をゲラシム掌院は信者に振りかけました。
ゲラシム掌院は全ての人に神現祭のお祝いを述べました。「今日水の性が成聖されるのです。」
「今日主はその至聖なる体をヨルダンに沈め、このことによって全ての水を聖にしました。この出来事を記憶して私たちは毎年大聖水式を行います。」ゲラシム掌院は強調しました。
古代の預言者や聖職者は四代元素の助けで、水を通して、生贄(いけにえ)として「成聖」を行いました。その主たる目的は人間の霊的状態を変えることでした。そして、ただ主イイスス・ハリストスの到来によって、聖神の恩寵は実際に水に降り、この水により、私たちは成聖されるのです。
もちろんこの際に忘れてはならないのは、ハリストスの聖なる機密に与ることほど人を聖にするものはないと言うことです。しかし聖水を頂くことにより、私たちは、ハリスティアニンとして生きていくために自分を調整するのです。
聖師父たちはしばしば水を、この世における神の神(しん)の現存の象徴として理解していました。水なしには世界は滅んでしまいます。水なしには世界は恩寵のない砂漠です。人類が罪を犯せば犯すほど、世界は肉体的にも、霊的にも砂漠と化してしまいます。
私たちには神の恩寵、「生きた水」が必要です。このようにしてのみ、私たちは世界を良い方向へ変えることができるのです。そのようにしてだけ、神の恩寵によってだけです。
主は、この世を救うために、私たちに己を現しました。私たちは今主に預かることができます。そしてこの道は全ての人に開かれているのです。そしていつでも救われることができるのです。ハリストスのもとに来る人は、永遠に渇くことはありません。
そして聖水はこのことにおいて私たちを助けてくれます。聖水を汲んで下さい。家に振りまいて下さい。自分を聖にしてください。周りのものを全て聖にしてください。そして世界は恩寵によって成聖するでしょう。
キリスト教の完全さとは何でしょう
1月31日旧コニューシェノ村の神品致命者ウラシイ聖堂で教区の主管者であるゲラシム(シェフツォフ)掌院により聖体礼儀が執り行われました。
説教の中でゲラシム掌院は主日に読まれる聖書について語られました。「この聖書の箇所には大変重要なテーマが上げられています。それはキリスト教の完全さとは何かというテーマです。」掌院は指摘しました。「完全なクリスチャンになるというのは何を意味しているのでしょうか。」
ある裕福な人間がハリストスに向かい、自分は生涯全ての戒めを行うように努めている、と自分について語りました。そしてこの際、彼に何がまだ足りないか、と主に質問しました。するとイイススは答えました。「もし完全になりたいのなら、行って、自分の財産を売り、貧しい人々に分け与えなさい。そして来て、私に従いなさい」と。
しかしこの人にはハリストスのために全ての人に寄贈する準備ができておらず、悲しんで立ち去りました。
覚えておかなければならないのは、主はただ単に物質的な富についてだけでなく、あらゆる愛着について語っておられるということです。この愛着から免れることは私たちにとっては苦しいことです。そしてこの愛着が私たちを神から遠ざけるのです。しかし私たち全てに多くの最も多様な執着と習慣があるのです。誰が救われることが出来ましょうか。
主は、これは人間には不可能だが、神には全てが可能だと言っています。つまり主ご自身が私たちを救っておられるのです。しかし私たちは魂を尽くし、心を尽くして神様を愛さなければなりません。そして自分の隣人を自分自身のように愛さなければなりません。
ゲラシム掌院の言葉によれば、私たちを救うのは善なる行いではなく、神への愛です。「私たちがこの世の何にもまして、自分の命以上に神様を愛するとき、これはキリスト教の完全さの兆しです。もしもそのような愛が私たちにあるのなら、私たちはキリスト教の完全さに到達するでしょう。私たちは救いの途上にいるでしょう。」ゲラシム掌院はこのように強調しました。
私たちは愛着と欲望の奴隷です。これら全ては私たちを神から引き離し、さらなる悲しみに導きます。使徒が、私たちは絶え間なく喜んでいなければならない、と語った時、使徒はまさしくこのことを言っているのです。つまり、私たちは自分の欲望、地上の愛着から免れ、神に向かわなければならない、ということについて言っているのです。喜び、これは人が何物にも執着せず、この世の全てを捨てて、ハリストスに従っていくことができる時にあるのです。
ゲラシム掌院は参祷者に毎日このことについて考え、欲望や悪い習慣から解放されるように呼びかけました。「まだ私たちの欲望が通り抜けることが困難なジャングルになる前の、まさに今戦わなければなりません。」ゲラシム掌院は主張しました。
また掌院は、この日教会ではラドネジの克肖者セルギイの両親、克肖者キリルとマリヤの記憶を尊ぶことについて思い起こさせました。彼らの清らかな心の主な性質は、全ての聖人のように、神への愛でした。克肖者キリルとマリヤは、彼らのもとにあった最も大切なもの、自分の子供たちを神へと捧げました。そして彼ら自身も命の終わりが近づいてきたときに修道者となり、自分の命をも神へと委ねました。








