正教の灯

メニュー
  • TOP
  • ごあいさつ
  • 翻訳・著作物の紹介
  • お問合わせ
  • blog
  • Home
  • blog, 現代の長老たちの教訓より
  • 祈り

祈り

  • blog, 現代の長老たちの教訓より

現代の長老たちの教訓より

(聖山アトスや他の恩寵に満ちた場所にいる長老たち)

Наставления современных старцев

Святой горы Афон

И других благодатных мест

 

「祈り」

Молитва

 

 

 

イアコフ長老は語った。「我が子よ、どんな祈りも無駄にはならない。わたし自身をも長年祈りが支えている。」

ヒオス島の聖アンフィムは自分の修道院の修道士に向けて、強調した。「祈り、これは疲れる仕事ではなくて、霊(たましい)の温かい慰めだ。しかし祈りは斎(ものいみ*1)と警醒を必要とする。斎は欲望を枯らし、警醒はそれを殺す。祈りは人に翼を与え、人を天へと上げ、天の賜物を人に引きつける。」

イオシフ長老は語った。「清らかな祈りへの最初の道は諸欲との戦いだ。諸欲が働いている間は祈りにつくことは不可能だ。しかし諸欲さえ祈りの恩寵の到来の邪魔をしない。もし怠慢と虚栄心がなければ。」

祈り、これは力の源だ。ポルフィーリー長老は語った。「到命者は苦しみの際に痛みを経験するが、それは同様の虐待の際に全ての人が苦しむ痛みである。

しかし到命者(殉教者)は祈りによって絶えずハリストスと一体になっていてハリストスから彼等の痛みにまさる力を受けていた、という違いがある。そしてこのようにして彼等は勝利に至ったのである。しかしもし彼等がたとえ短い間でも祈りをやめてしまったら、痛みは耐えられないものとなって、彼等はハリストスを否定しようとしたかもしれない。しかし祈りによってハリストスと結ばれた彼等は力を受け、最後まで痛みと全ての苦しみを耐え忍んだのである。」

アンフィローヒー長老は教えた。「熱心と、警醒と、敬虔と、信仰と、感動と、注意をもって行った祈りは善であり有益なるものである。悪魔は様々な方法で祈る者に戦いを挑む。一方祈らない者を悪魔は愛する。祈りによって人は神と対話し、神に善と救いを請い求める。祈る者だけが謙遜なものとなる。」

祈りについてのパイーシー長老の教訓はハリスティアニン一人一人にとって大変価値のあるものである。彼は言っている。「「天の無線局」との関係を正常化し、敬虔によって神に防衛される人々ほど福たる者はいない。神と自分の関係を破棄し、分別を失い、彼等が脱線してしまったために人生に起こる強い不安から少しでも逃れようと、世と世の無線局と関係を結ぼうとする者ほど不幸な者はいない。」長老は次のようにも助言した。「祈りの前に聖人伝の一片を読むのは大変祈りを助ける。その時、心は燃え、心配ごとは影をひそめ、その時あなたは気を散らさずに祈ることができる。」そして祈りの時に散じる智(ち)*2についても彼は語った。「祈りの時私たちの智が悪い物事に移っていったり、私たちの願いの他に悪い考えが来たりした時は、敵に対抗する必要はない。なぜなら弁護士が皆集まると、その会話で彼等は一匹の子悪魔も片つけられないからである。しかしこれらの考えは、誹謗の考えもそうだが、それらをただ無視することで追い払うことができる。」

イエロニム長老は語った。「祈りをやめてはならない。怠慢と無関心を恐れなさい。あなたが朝祈って感動を覚えるのなら、一日中翼をつけたように飛ぶことだろう。逆に祈りなしで朝を始めたら、あなたのすべてが無秩序になるだろう。」

この長老は自分の霊的な子供に助言した。「祈りをもっと唱えなさい、その際、それに必要な静寂を作りだすようにしなさい。もし朝多く祈ることができなかったら、昼間または夜に祈りなさい。自分のために祈りのための時間を選んで決めなさい。静かな時間が望ましい。雨が降りだすまで祈りなさい、つまり涙がでるまで。多くの人が一晩中祈り続けてなお飽き足らない。祈りは快い仕事なのだ。」

世の目的は神を讃美することだ。カラマ町のイオイリ長老はこのことについて語った。「天では天使や、聖人や、星や鳥が神を讃美している。地では無学な者や、修道士や荒野の隠遁者たちが神を讃美している。神を讃美すること、これは神と世界のすべての部分を結ぶ糸だ。」

この長老はさらに語った。「祈る人の喜びに満ちた安息の中で土壌が用意される。そして善なる考えが天の音と一緒に彼の耳もとで少しずつ素晴らしい助言を歌い出す。これは天の対話だ。」

エギナ島のイエロニム長老は祈りについて語った。

「ある人々は、もし少しの時間でも祈りなしに過ごすと、耐えられず苦しみ出す。彼等が祈りたいのに、祈れなかった時間は、彼等にとって苦しいものとなる。」そして続けた。「あなたのお母さんや誰かあなたの親族が永眠されたら、あなたは泣くために本を手にとらないだろう。言葉それ自体が悲しみから智に浮かぶ。祈りも同様である。私たちは不安にさせるものを神に告白しなければならない。」

またある時、この長老は語った。「もしあなた自身が自分で言っていることを聞かず、または理解しないのなら、どうして神があなたに耳を傾けて下さるように願うのか。」同様に彼は自分についても語った。「わたしが寒い時、私は祈る、すると神の恩寵が私を暖めてくださる。」

偉大なるポルフィーリー長老は祈りについて語った。「私たちが神の恩寵にある時、その時、わたしたちの祈りは清らかなものとなる。絶え間なく祈ろう。私たちが眠りについたり、休もうとして床に横になっている時でさえも。」

この長老はある自分の霊的な子供に助言した。「神があなたから様々な病を取り上げるようにと祈ってはならない。逆に智の祈りによって和み、忍耐を持ちなさい。そうすることで、あなたは多くの益を得るだろう。」

祈りは人を照らす。このことをポルフィーリー長老は強調して、次のような例を上げた。「ご覧なさい、どこかで発電所が稼働していて、部屋では電気がついている。しかしもし私たちがスイッチをひねらなかったら、暗闇の中に留まることになる。このことでわたしが言いたかったのは、ハリストスがいて、かつ私たちの霊があるということだ。しかし、もしわたしたちが祈りのスイッチをひねらなければ、私たちの霊はハリストスの光を見ないし、私たちは悪魔の闇に留まることになる。」そしてある自分の霊的な子供に語った。「いかなる時でも、どのような瞬間にも、いかなる場所でも、私たちがどこにいようとも、神はわたしたちに神と語る権利を与えたということがどれほど偉大な賜物であるか、あなたは知っているか。―神はいつでもわたしたちに聞いて下さる。これは私たちにとってもっとも偉大な名誉である。ゆえに私たちは常に神を愛さなければならない。」

イオイリ長老は自分の霊的な子供に語った。「祈りにつく時、自分の諸欲、弱さ、あなたがたやすく神から離れて罪を犯すことを思い起こしなさい。ハリストスにあなたが堕落から守られるように頼みなさい。」この長老は助言した。「膝をかがめて求めなさい。『我がハリストスよ、私があなたから遠ざからないように、わたしを離さないでください』と。」

祈りは人が欲望から免れるのを大変助ける。このことに関して、エフセーヴィー長老は教訓を与えた。「悪欲が霊に浸透すると、その時欲望は霊を虜にし、霊にたいして暴君のようにふるまう。その時人は正気に帰って、悪欲から解放されるまで謙遜な心で絶え間なく祈らなければならない。」

自分の霊的子供に向けてエウセーヴィー長老は書いている。「祈りと教訓があなたから離れないように。他の人々にとって言葉と自身の模範によって益をもたらす者となるように。サタナの傲慢を警戒しなさい。」

悪魔は救いを求める苦行者に対して残酷な戦いを引き起こす。祈りによって悪魔たちは撃退され、無力なものとなる。イオシフ長老は激しく欲望にとらえられている一人の初心者にこのことを書いている。「あなたが発する一つ一つの祈りによってどれほど悪魔が倒れ、逃走するかをあなたは見ていないだろう。ただあなたは悪魔がどれほど傷をあなたに追わせるかということだけ見ている。悪魔たちが撃退され、逃げていくこともあるということを知りなさい。忍耐によって彼等はとび跳ねながら逃げて行き、祈りによって痛く撃破されるのである。故に戦いの時にあなたがかれらに弾丸と核を投げ込み、彼等があなたに飴とチョコレートを投げ入れることを期待しないように。」

パイーシー長老は神に聞き入れられるのは謙遜な人の祈りのみだと語った。彼は助言した。「もし祈りの時に神があなたに聞き入れることを望んでいるのなら、謙遜のボタンを押しなさい。なぜならこの「周波数」で常に神は聞いて下さるからだ。だから謙遜に神の憐みを請い求めなさい。(パイーシー長老は戦争の時、無線通信士として働いていた)

祈りには愛が伴っていなければならない。アンフィローヒー長老は、「愛のない祈り、これはいずれにせよ善であり素晴らしいが、羽がないが故に飛べない鳥だ」、と言っている。

ポルフィーリー長老は語っている。「祈る時は、伏拝しなさい、疲れているときでさえも。自発的な犠牲を伴った祈りは神に喜ばれ、より多くの実りをもたらす。」

エギナ島のイエロニム長老は助言した。「あなたの智が神の内にあるときは、床で寝ていても祈ることができる。もし智がどこか別の場所にあるのなら、跪いていても、感動はあなたに来ないし、祈りは乾いたものである。その時あなたは楽になったように感じないし、頭痛がするだろう。というのは祈りがあなたに喜びを与えないからだ。」

祈りの中で何を私たちは求めなければならないか。パイーシー長老は言った。「我が兄弟よ、自分の祈りでは痛悔(悔い改め)以外の何も求めてはならない。痛悔はあなたに謙遜をもたらし、謙遜は神の恩寵をもたらす。そしてあなたはその恩寵の中に留まることだろう。その時あなたが自分の救いのため、もしくは他人の益のために何を求めようとも、神はあなたに与えるだろう。」

私たちを動揺させる問題についての神の意思を祈りという手段で知ることができる。静寂主義者イオシフ長老は言った。「あなたが神の意思を知りたいのなら、自分自身のこと、自分の計画、思いを完全に忘れなさい。そして偉大なる謙遜をもって祈りの中で神の意思を知ることを求めなさい。そのときあなたの心に生じるもの、心が傾くものを行いなさい。これは神の旨にかなったことである。このことについてより多く祈る勇気をもった人たちはより明確な知らせを自分の中に聴き、人生を送る上でより注意深くなり、神の知らせ以外には何もしない。」

ある女性の信者がイエロニム長老に語ったところによると、彼女は長老の祈りから自分にとって大きな利益を得たのがわかり、このことを感謝した。長老は彼女に答えた。「わたしがあなたに林檎を投げ与えると想像しなさい。もしあなたがそれを受け取るならよいが、逆の場合、あなたはお腹を空かせたままである。何故なら林檎はどこかに転がってしまうからである。あなたも祈らなければならない。さもないとわたしの祈りはあなたの助けにならないだろう。」別の機会に長老は強調した。「わたしはあなたのことを神にお願いし、これからも祈る。だが戦場では一人では戦えない、ということを知りなさい。私はあなたのために祈るが、あなたも自分のために祈りなさい。」

この長老は語った。「私は自分が祈る人のために自分を犠牲にする。自分自身を犠牲にしないでわたしは祈れない。痛みと自己犠牲なしで行われた祈りは神には届かないと思う。故に祈りの時にわたしは自分を衰弱させる。それでその後すでに人々と対話する力がなくなる。」

ポルフィーリー長老は自分の霊的子供たちに他人のために祈ることを自分の例を用いて助言した。「わたしは感じているのだが、わたしは自分の祈りによってあなたがたを助けていると知っているだろう。」「悪魔が罪深い諸欲に促している人のために祈る時、その人には自分の祈りのことを言ってはならない。何故ならこのことを悪魔が知って、彼の霊の中に反抗心を呼び起こすからである。そしてあなたたちの祈りは望んでいた結果をもたらさない。彼のためには密かに祈りなさい。そうすればあなたの祈りは彼を助けるだろう。」

隣人のための祈り、これは聖なる義務である。ポルフィーリー長老は語った。「もし他人が救われなければ、あなた自身も救われることができない。もし誰かがただ自分の救いのためにだけ祈るとすれば、これは間違いである。わたしたちは全世界のために祈らなければならない。誰も滅びないために。」そして他の機会に語った。「わたしは苦しみを恐れないし天国を思わない。わたしはただ神に、彼が全世界とわたしを憐れんで下さるようにと求める。」

パイーシー長老は言った。「人が霊的に健康で、自分の祈りによってより人々を助けようと人々を避ける時、その時彼は全ての人を聖人と思い、ただ自分を罪人だと思う。」

イオシフ長老は語った。「智が祈りを得、人が喜びを感じる時、祈りは彼の中で絶え間なく、自分自身の努力なしに行われる。食べていても、歩いていても、寝ていても、目覚めていても、彼の中では祈りが行われ、平安と喜びがある。」そして付け加えた。「長い時間をかけた祈りの作用ののち、人の中に天国が生まれる。彼は欲望から解放され、違う人になる。もし彼が荒野にいたら、祈りの至福は言い尽くせないものだろう。」

祈りの個人的な経験についてイエロニム長老は語った。「祈り、これは神との対話である。わたしたちが祈りの喜びを感じる時、偉大なる歓喜も感じる。これは天国の生活の先取りである。あなたはこの喜びを感じるために、多く修行しなければならない。そしてもし多く修行したら、神はあなたに喜びを与えるだろう。祈りは神への観照の高みまで引き上げる。わたしの長老のミハイルは祈りの時、全身が輝いた。彼がこの状態に達した時、かれはすでに言葉ではなく思いで祈っていた。言葉、これはまだ炎が燃え始めない時に必要な焚きつけである。しかし炎が燃え上がるや否や、つまり傷感と感動が訪れるや否や人は話すことができなくなる。彼は自分の内に神を感じ、聴く。その時涙が湧き出る。人は心の祈りと、聖なる熱望と、言葉で言い尽くされぬあこがれとともに霊的状態に留まるのである。」

訳注

*1斎(ものいみ):食物と罪、諸慾の節制

*2 智(ち):知性、ギリシャ語の νοῦς,  ロシア語の ум,  英語の mind,

人間は体と霊(たましい)と神(しん・霊(れい)ギリシャ語の πνεῦμα,  ロシア語の дух,  英語の spirit )からなっている。聖師父の著作では神(しん)と智はしばしば同義語に使われる。智は脳の一部ではなく、霊(たましい)に属し、体の中に目があるように、霊の中に智がある。智は観照の器官で、神を観照し、知るためのものである。人間の神(しん)に関するものすべてを実行し、人間を神と一体にさせるものである。

陥罪(かんざい:アダムとエヴァが最初に罪を犯したこと)まで人間の智は健康で、無欲で、神を観照していた。しかし陥罪によって智は肉欲的になり、むなしくなり、損なわれてしまった。つまりこの世的な地上のものだけを追い求めるようになってしまった。

修道生活では絶え間ない悔い改めと祈りによって、智を清め、神を観照し、再び神と一体になることを目指す。

 

 

カテゴリー

  • blog
  • ゲラシム掌院 モスクワでの説教ダイジェスト版
  • ロシア正教会修道局長フェオグノスト府主教の説教
  • 克肖者セルギイの遺訓
  • 現代の長老たちの教訓より
  • 霊的な知恵の宝石箱より
2020年12月の説教
2018年3月から7月の説教
2021年3月の説教
2021年6月の説教
ロシアの風景 正教会の生活 (エッセイ集…
2021年1月の説教
2021年4月の説教
2021年2月の説教
ページ上部へ戻る

正教の灯

  • TOP
  • ごあいさつ
  • 翻訳・著作物の紹介
  • お問合わせ
  • blog
657
Copyright ©  正教の灯 All Rights Reserved.